見出し画像

家を育てたい

時間のある方は、まずは上のページを読んでほしい。

時間のない方のためにざっくりと言うと、僕はライフステージの変化やライフスタイルの違いにもビクともしない、丈夫でしなやかな「最高にごきげんな暮らし」のために、一人の時間をきちんと持てて、自然に力を貸しあえる、そんな理想の家をつくりたいと考えている。「夫婦」「親子」「友達」といった枠にとらわれないで、それぞれがのびのびと暮らせる、そんな家を。

概要については冒頭のリンク先にまとめているので、そちらを読んでほしいのだけれど、そしてそちらもまた随分と長い文章になってしまったのでまとまってないじゃないかと言われたらそうだよねと言うしかないのだけど、しかし「最高」とは? 「ごきげん」とは? 「暮らし」とは?そしてなにより「家」とは? そういうことを、ときに馬鹿らしいほどしつこく、たびたび飛躍しながらも考え続けたい。もっとくだくだと突き詰めて言語化していきたい。そう思っている。

けれども、たとえば「家」という言葉だけとってみても、考えなければいけないことがたくさんあって途方に暮れそうだ。まず、「家族」という手垢のついた言葉の強烈な重力、たとえばそこについてまわる「愛」みたいなもの。どれも一般論では決して掬い取れない個人個人に特有の意味付けがなされてしまう言葉だ。そしてその言葉の意味を規定する一人一人のかけがえのない固有の経験を無化するように、乱暴な一般論に回収してしまうことほど怖いことはない。

僕はたとえば安心できる「家」が欲しい。そしてそれは安心を担保してくれるものとしての家族が欲しいというのを意味しない。

「安心」とは、①どういう言動がその場ではグッドなのかということがはっきりと理解できること(「察する」コストの最小化) そして ②自分の世界を深めながら、そこで得たものを誰かに手渡せるという実感(一人でいることと一人でないことの両立) のふたつのファクターが重要だと僕は考えている。

つまり、僕は家族というものを安心のファクターだとは捉えていない。家族だからと言って、お互いへのリスペクトと、きちんと言葉にして伝える手間とを、惜しんでしまっては、安心はないだろう。それなのに、なぜだか「家族」となるとリスペクトや手間なしに信頼が成り立つと思い込んでしまうことが多いように感じる。それでは「家族」というのが個々人の「察する」コストが高くつく「仲良しグループ」になってしまう。
僕は、それが嫌だ。

僕にとっては両親も、弟や妹も、パートナーも、みんな大好きな人たちなのだけど、それはこの人たちが家族だからではない。信頼に足る、チャーミングで知性的でやさしい人たちであると知っているから大好きなのだ。たしかに長く一緒にいることによる愛着はあるかもしれない。けれどもそれは、オギャアとそこに生まれついたから、当たり前のように付随する愛ではない。そんなものはない。

親と子というのに先立って、それぞれ異なった他人としてリスペクトと手間暇を惜しまずに向き合ってきたその時間の蓄積が愛着を育てたのだ。僕はそう信じている。

「プリセットされた愛はなくとも、愛着は育ってくる」

前掲のページの補遺としてこんなキーワードを載せていた(ページの改稿により今は削っている)。まだうまくまとまっていないのだけれど、ここがひとつの出発点のように感じている。いきなりぽっと生まれる愛などない。最初からうまくやれる人なんていない。だからこそ、大人になって、すこしでもうまくやれそうだと思えるようになった、そんな自分たちで始めて、育てていく。そういう「家」があってもいい。

このnoteは、そうした「家」のありかたについてモヤモヤと考え続けるマガジンの創刊のことばのつもりで書いている。

ここまで読んで「気になる」と思ってくださった方は、繰り返しになってしまうがこのページを見てほしい。まだまだつたないページで、読みづらいところや至らない議論もたくさんあると思う。そこを補っていくためのこのマガジンだ。これを書き進めているうちに、ページの方ももっとわかりやすく読みやすく端的にまとまっていくかもしれない。まだ見ぬ「家」に先立って、まずはページを育てていく。言葉にし尽せぬものを、それでも言葉にしようと試行錯誤を続けること。家も暮らしもここで完成というわかりやすいゴールはない。だからこそ、いつまでもしつこく考え続けて、何度だって書き直していく、いつまでも書き直されるものとして書いていく。そのなかで、一緒に似たようなことを考えてくれる人たちと言葉を交わすことができたなら嬉しい。


2019.07.18 第一回改稿


この記事が参加している募集