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恋。言葉にすること、しないこと

 もう4年ほど、あたしは予備校の講師をしている。教員免許はないが生徒にとって意味のある授業をするように心がけているし、生徒とのコミュニケーションは何より大切にしている。あたしの担当する子どもたちは、成績こそよくないものの、素直で明るい子ばかりだ。
 そんな子どもたちが書いた課題を読みながら、ときたま感心させられることがある。饒舌な大人よりも、子どもたちの朴訥な言葉が胸に響くということなのだろうか。

 その子は出身地が長崎だと言った。よく日に焼けた元気な男の子で「野球部です」というシンプルな自己紹介が似合っていた。課題の小論文の中で、彼は「言語化することが社会には必要だ」と述べていた。誰もがSNSのアカウントを持つ一億総発信者の現代においてトリッキーな主張だな、と思った。
 しかし彼は答案の中でこう続けた。「今の社会では誰もが情報を目にする。仮想現実の中のコミュニケーションばかりに夢中になる。一方で対面で言語化することを難しく感じている人は少なくないはずだ」彼は部活動の中で、特に対面で言語化することの重要性を感じるのだと説明していた。

 意表をつかれたな、と思った。かく言うあたしも、対面でのお喋りが苦手である。予備校講師という仕事はたしかに喋る仕事だが、決まりきったフレーズばかりの繰り返しなので、さして難しくない。彼のいう言語化というのは、対面の人間関係の中で生じる臨機応変なコミュニケーションのことだろう。
 よく「ありがとう」と「ごめんね」はちゃんと言わなければならないという話を聞くが、そんなシンプルな言葉でさえも、ないがしろにされているという裏返しなのかもしれない。
 言わないでもわかるだろう、と言う人もいるだろう。重要なことだけ言葉で伝えればいいのだ、と。しかしごくささいな日常の言葉もまともに口にできな人が、さらに重要なことを言語化できるとは思えない。
 ごくごく簡単な幼稚園で習ったような言葉でさえも口に出して言うことが必要だ、とあたしは彼の答案を読みながら考えた。
 そしてあたしの場合、言語化が真っ先に必要な相手は恋人なのだった。

 しかしなかなかどうして、彼の前で言語化はうまくいかない。普段のお礼とお詫び、それに愛していることを伝えようと思ったが、彼の胸にもたれかかっているうちに言葉はとろとろと溶けて消えていく。
 そうこうするうちに「すきよ」と恋人は何かを思い出したようにあたしに言った。先を越された。
 答える代わりにあたしは強い力でキスをした。恋人は嬉しそうに笑い出し、言葉にせずとも返事が彼に伝わったことを、あたしは知ったのだった。

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