【創作小説】つぼみのままの白百合04
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自慰にふけった日の朝は、何となく股の間に違和感がある。昼に近い時間になって、麻里亜はのろのろと布団から出た。今日は午後から、父親の洋菓子店を手伝うことになっていた。
麻里亜の父は、近辺で唯一の洋菓子職人で、母と二人で店を切り盛りしている。店はもうすでに20年以上やっているが、4月と12月以外だと客足はそれほど伸びない。ここの地域のような田舎では、むしろ和菓子屋の方が好まれるのだ。
長らく伸びるに任せている髪を一つに束ね、麻里亜は一階の店舗に顔を出した。思っていたとおり客は一人もいない。
「おはよう」
「何時だと思っているんだ」
父は顔をしかめて見せた。
父も母も、麻里亜の突然の帰郷に驚いたが、根ほり葉ほり話を聞くことはしなかった。しかし「体調を崩したの」という麻里亜のおおざっぱな説明を聞いて以来、何となく察しをつけているようだ。
「気分はどうだ」
父が何気なく聞く。
「この辺、空気だけはいいだろう」
「まぁね」
父と母は麻里亜が生まれる前に、京都府北部に移住した。父は東京で生まれたが、東京を忌み嫌っている。「東京なんて人の住む場所じゃない」「ひどい場所だ」。そのたぐいの憎まれ口を、麻里亜はこれまで数えきれないほど聞いた。
自分の子どもは東京とは似ても似つかない場所で育てたいと考え、東京で出会った母の生まれ故郷であるここへ移り住んだという。
「今日、お母さんは?」
いつも店番は母が務めている。しかし母の姿は見えない。
「病院だって」
「どこか悪いんだっけ」
「腰が痛いんだと」
母も父ももうすでに60歳を目前にしている。ふと不安が麻里亜の心によぎる。洋菓子をつくる作業は、華やかさとはかけ離れた重労働だ。
「無理しちゃだめだよ、お父さんも」
「年寄り扱いは、まだされたくないねぇ」
父が無理をして明るく振舞っていることを麻里亜は知っていた。
「俺もそろそろ行かないと」
「え」
「仕入れ先とどうしても話をしないといけなくて」
最近、穀物の値段が高騰しているせいで、近所の養鶏所や牧場が卵やミルクを値上げしようとしているのだ、と父は簡単に説明した。
地元の農家は、いまだに父のことを「外の人」だと思っている。もし父が「地元の人」なら今回の値上げもなかったかもしれない。田舎とはそういう場所だ。
「大変だね」
「まぁな」
出かける父を見送り、麻里亜は一人甘い香りのする店にとどまった。
時計は13時を過ぎたころだった。
店の入り口の瑠璃色のすりガラスに人影が写った。やがて扉が開いて、一人の初老の女性が入ってきた。その人の顔を見て、麻里亜は何となく既視感を覚えた。この人と会ったことがある、とっさにそう思った。しかし名前はおろか、どこで会ったかも分からない。
女性は麻里亜に目を向けると、にっこりとほほ笑んだ。「あなた、きっと麻里亜ちゃんでしょ」目に焼き付くような赤い口紅だった。
(つづく)
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