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摂食障害を克服し、楽しく生きている今思う事

先日、とある記事を読んだ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91476

FRaUより

摂食障害に苦しんだ経験のあるプラスサイズモデルの吉野なおさんの寄稿だ。

私も摂食障害を克服した人間の1人として、こちらを読んで思う事があるので投稿する。

 

この記事の内容に、賛同できる面は多い。

 

>「今どのぐらいお腹が空いているか」「どんな味のものが食べたいか、食べたくないのか」と、いったん自分に問いかけて、体の声に気づいてあげてほしい

>自分の「痩せたい」の裏にある本音を自分自身に問いかけ、「自信がほしい」のであればそれが本当に痩せることで叶うのか、実は他に自信をつける方法がないかなど探ってみることも必要かもしれない

>人生で本当に大事なのは、あなたを評価したり、完璧さを求めてくる人ではない

 

この辺りについては、私も同じ考えだ。

そういった考えやご自身の過去を経て己を受け入れ、今を楽しく生きている彼女はとても素敵だと思う。

これは綺麗事ではなく私の人生を通じて得た事実だが、人の魅力や価値は体重なんぞで測れるものではない。

ただ、摂食障害に苦しんでいた当時の私がこちらを読んでも「でも痩せたいんだよ!!」としか言わなかっただろうとも感じる。

 

そんな過去の私のように、吉野さんの寄稿を曲解したり受け入れられない人がいる可能性を考え、書いておきたい。

そのままの自分の身体を受け入れられない人は、受け入れられなくてもいいのだ。

受け入れられないのなら、私のように無理をせず筋トレやダイエットをすればいい。

焦ってすぐに結果を出そうとするから不健康なダイエットに手を出したり、結果を得られない事で悩んで病んでしまうのだ。

何を選んでどんな結果に辿り着こうと、「最終的に本人が楽しく笑顔で生きられる」事が正解だと私は思っている。

 

摂食障害の原因は人それぞれである。

単純に痩せたいという理由だけなのか、それとも他に何か満たされないものやストレスから来ているのか--

 私の場合、キッカケは「太りたくない」というだけだった。

ただその後摂食障害が悪化した原因は、ストレスや劣等感、満たされない気持ちを食に逃げる事で一時的に誤魔化していた事にある。

友人知人の中にいる摂食障害当事者も、その根本にある問題は「痩せたい」「太りたくない」という理由のみの人は少ない。

 

ある人は「愛されたい」「自分の求める愛を得たい」という本音が奥底に見えていた。

それを得られない事が、恋愛方面の奔放さや過食嘔吐にも繋がっていた。

またある人は、拒食や過食嘔吐が「言葉に出来ない救難信号」だった。

いじめや毒親による精神的負担が、摂食障害という形で表に出ていた。

他にも様々なケースを見たけれど、私の知る限りでは単純に「痩せたい」というだけで摂食障害に陥るケースは意外な程少ない。

 

なので、この記事の見出しとしてFRaUのツイートに添えられていた内容には納得が行く。

>多くの人が「太った体そのもので悩んでいる」というより、「太った自分に対する自己嫌悪や反省、不安や焦燥感、人間関係のストレスなどメンタル的な問題」にさいなまれている

まさに仰る通りである。

その上で、吉野さんのようには「自分を受け入れられない人達」はどうすればいいのだろうか。

 

私のケースが参考になるかは分からないが、一例として残しておく。

太りたくない私は、まず拒食傾向が最初に出た。

一番痩せてしまった時には、153cm35kg。

幸か不幸か骨格の為にガリガリと言われる事は少なかったが、体力はなく体調も崩しがちでよくフラついていた。

さすがにその状態ではまずいと感じ始めた頃から、拒食は空腹感を解消する為の過食嘔吐へと切り替わっていった。

大学入学を機に1度は落ち着きかけた摂食障害だったが、ストレスや劣等感等の悩みが増えた事によって過食嘔吐が酷くなり――

その後は一進一退を繰り返しながら精神科などにも掛かったものの、私が摂食障害を克服出来たのは結局自力でメンタル面のケアをした事が大きい。

一番体重が重かった時には55kg。心筋症を発症し、心不全を起こして入院した頃の体重だ。心臓に水が溜まって全身が浮腫んでいた。

今は44〜46kg前後を行ったり来たりしている。

 

…さて。

簡潔に書くとこの程度の摂食障害遍歴だが、私が完璧にそれを克服したのは割と最近である。

闘病期間は10代後半から30代までの20年弱。

その間には当然壮絶な体験もしているし、生き地獄も味わって悪化と改善を繰り返したが……今回お伝えしたいのはそこではない。

 

お伝えしたいのは、私がどのように精神面のケアに取り組んだかである。まずは己の心の奥底と向き合う事から始めた。

私は食に依存する事で一時的に己の不満や満たされなさを誤魔化していただけで、本当に過食する物を欲している訳ではなかったのだ。

では、何が不満で何を欲していたのか。

私に必要なものは、己に対する自信や心を許せる友達、好きな相手からの愛情だった。

それを得る為には己に何が足りなくて何を努力すればいいのか、何を改めどうすれば良くなるのか。必死で考え、向き合った。

試行錯誤を繰り返し、失敗して泣いて絶望しては反省し改め、徐々に欲しかったものを得て--

今は笑って日々を生きられている。

 

精神面ではない体重減少の具体的な方法としては、以下になる。

 1:体重計にはたまにしか乗らず、数値を気にしないよう努めた。

2:体重よりも引き締まった身体を目指し、無理なく続けられる程度の軽い筋トレを日課にした。

3:体調不良や精神的苦痛が大きい日には筋トレを休んでもいい事にし、その代わりに必ず日を開け過ぎずに再開するようにした。

4:動いたり頭を使う時は別だが、ご飯の時間になってもお腹が空かない時には無理に食事を取らないようにした。

5:甘い物や脂っこい物を特に禁止にはせず食べたい時には食べて、普段の食事をよく噛んでバランス良く摂るよう心掛けた。

 これらを何年も続けていたら、結果的にピーク時より10キロ前後体重が落ちた。

とても緩やかな痩せ方だったので、リバウンドはほぼない。

 

精神面で自分の欲しかったもの(心を許せる友人等)を得られはじめてからは、不思議と食べ物をバカ喰いする事が減った。

過食しないので太りにくくなったし、体重を気にしないようにしたら一時的に増えても何故か元に戻るようになった。

おそらく一番痩せる為に効果があったのは、怠け者の私が無理なく続けられる程度の「ゆるゆるズボラ筋トレ」だと思う。今では努力というよりただの日課になっている。

休んでもいい、出来なかった時には自分を許す、でもちゃんと続ける。

自分に厳しくし過ぎず、許して認めて受け入れながら己の理想に近付けるよう無理のない努力を続けた結果、いつの間にか過食嘔吐をしなくなっていた

 

負荷の少ない筋トレでも継続は力なりだと感じるのは、最近ではベストな状態だと腹筋がうっすら見える時だ。

2022/ 1/12

隠してある部分は手術痕なのでご容赦願いたい。

実は体脂肪率的には私は未だに隠れ肥満なのだが、10代で同じ体重だった頃より明らかに身体のラインは整っている。

最近は、スキニーパンツを履いても恥ずかしく感じない。

卑屈になってしまう事はあるものの以前より自己否定する機会が減り、今の自分は嫌いじゃない。

自分の良い面を言えるようにもなった。

褒めて頂けた時には、その言葉に見合う自分になれるようにこれからもがんばろう!と前向きに受け止められる。

 

何が言いたいかといえば、結局何を選んでどう生きるのが幸せかは人それぞれだという事。

私は太った自分を受け入れようとした時に、無理だった。

受け入れられない自分を否定してしまって悪循環だったからだ。

それを受け入れるには向き不向きがあるのだと思う。

私の場合はその時点の己を受け入れるのが「自分を認める事」ではなく「自分を諦める事」だったので、のんびり無理せず痩せる道を選んだ。

その結果、少しずつでも理想に近付けている自分がいる。

好きな服をある程度好きなように着られて、お洒落を楽しめている自分がいる。

外見を褒めてもらえるようになり、少しずつ自分を受け入れ認められるようになった自分がいる。

 

ありのままの自分を愛せる人は素敵だと思うし、そう出来ない人も今の自分が無理なら変えればいい。

愛せる自分、愛される自分になる為に無理のない努力をする事も1つの「正解」であり、どちらも間違いではないのだ。

何を選んでどう生きようと、最終的に楽しく心穏やかに生きられる人が正解なのだと私は思う。

 

肉付きが良かろうと、美しい人は美しい。

渡辺直美さんなどはその代表ではないだろうか。魅力に溢れた美しい方だと思う。

数年前にパンケーキ屋さんで見掛けた、2皿とも半分以上を残していたスリムな女の子達。

残すのは自由ではあるし、何か事情があるのかもしれないが……無表情でパンケーキを残して帰ったそのお嬢さん達より、美味しそうにご飯を食べる私の友人達の方が何倍も可愛く美しいと感じてしまう。

見た目の好みは人によりけりなので個人の自由でいいと思うが、人の魅力は体重ではないのだ。

内面から輝く美は実在する。

偏った無理なダイエットをせずとも理想に近付く事は可能だし、ダイエットなどしなくても可愛い人は可愛く美しい。

心身共に健康に、心穏やかに笑って生きられる人が増えてくれたら……心からそう願っている。


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【追記】
この記事は、吉野さんと同じ事を伝える上でも私はこうだったという「他の例を提示する意味」で書いたものです。
吉野さんの記事の一部に対して曲解してしまう過去の私のような人がいた場合に、こういう例もあるからどちらも間違っていないんだよ、大丈夫だよと伝えたくて書いた記事です。
同じ内容を私の例を用いて改めて書いている事に納得の行かない方がいらっしゃるようですが、私は吉野さんを好ましく思って賛同しているからこそ自分の例を提示しただけ。
これを読む方のご希望に沿った文章ではないからといって、こうして欲しかったと言われてもお応えしかねます。
また、先入観で私の書いていない事を勝手に捏造するのはお控えくださるようお願い申し上げます。

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【追記2】

>私の場合はその時点の己を受け入れるのが「自分を認める事」ではなく「自分を諦める事」だったので、のんびり無理せず痩せる道を選んだ。

私はこう書いたのだが、この時にその時点の己を受け入れるのを「自分を認める事」に出来る人が、わざわざ痩せずとも吉野さんのように魅力的に楽しく生きられるようになるのだと思っている。
諦めないとその時点の自分を受け入れられなかった私は、痩せる方向でしか自分を認める事が出来なかった。
それも間違いではないものの、悲しい話だとも思う。
そのままの自分では自分を許せない、愛せない、認められないなんて、どれだけ自意識過剰なのかと。
が、己の理想に近付けている今は結果オーライだとも思うのだ。
最終的に楽しく生きられている人が正解とは、そういう意味である。


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