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因縁の納豆ごはん

幼稚園児の頃、「今日は朝ごはんなに食べましたか?」と尋ねられると必ず「納豆ごはん」と答える子供だった。

この質問を見越して母親がどれだけ手間をかけて、パンや卵や焼魚を食べさせても、私はそれをすべて「納豆ごはん」にしてしまう。

そのくらい、納豆ごはんが好きだった。口の周りをベタベタにして、毎日たくさん食べた。

なにより「今朝なに食べたっけ?」という思考を働かせず即答できる。私にとって「納豆ごはん」は便利な言葉だった。




ただ、小学生半ばくらいの頃から、突然納豆ごはんが嫌いになった。嫌いというより、あのどこにいくのかわからない細い糸の行方を気にしながらごはんを食べることが大変億劫になったからだ。反抗期や思春期を経て「納豆ごはん = めんどくさい」存在となってしまった。

一度距離をとって冷静にソイツを見つめると、とても臭いしネバネバだしやっかいな存在で、妹とかがベタベタと食べているとそれだけでなんだか不快になる。

なんなんだ。どうして日本人はこんな変な食べ物を好むんだ。




そう思いながら少女時代を過ごしたが、大学生くらいの頃一度納豆ごはんと和解をした。

たしかダイエットに良いとかそんな単純なきっかけだったと思う。数年ぶりに出会う納豆ごはんは、美味しかった。こんなんあればいくらでも白米が消えるではないか。たしかに多少食べる時と皿を洗う時に気を使う必要はあるが、別にそんなに悪いやつじゃないかもしれない。

そう思い、たまーに思い出したかのように納豆ごはんを食べる日々が数年続いた。




しかし今度は納豆ごはん側が私を拒絶したのである。

花粉症由来による大豆アレルギーの発症。大豆のかたまりでしかない納豆ごはんは、私からどんどん遠のき、なんとついに手の届かない存在となってしまったのだ。

いくら食べたくても、もう私はきっと一生納豆ごはんを口にすることはできない。幼い頃から因縁の相手であった納豆ごはんは、最終的に私を裏切り、遠い存在になってしまった。



そんな今でも、私は都合よく「納豆ごはん」を使う。

リモートで働いていると、「お昼ごはんは普段どうしているんですか?」という話題がよくあがる。

そりゃテキトーに白米で済ます日もあれば炒め物を作る日もあるし、冷凍パスタやインスタント麺に頼ったり、昨日の夕飯の残りをつついたりすることもある。

ただもうこの辺の細々したことを人に伝えるのがめんどくさいし、この回答によって人にどう思われるのか、とかを考えるのも煩わしい。

その結果の「納豆ごはん」である。
とりあえずなにも考えず、反射的に、「納豆ごはん」と答えておけばいい。

本当に都合のいい存在だ。「ああみんなやっぱりそんなもんですよね!」っていう共感と親近感と無難さを絶妙に兼ね備えている。「納豆ごはん」と聞いて「えー!」と声をあげる人なんて誰もいない。

もう、ソイツとは距離を置いたはずなのに。二度と出会わない存在なのに。

私は幼稚園児のように、いまだに「納豆ごはん」をなにも考えず利用しまくっている。本当に納豆ごはんに申し訳ない。けど、あのネバネバは、やっぱり私にとってずっと唯一無二の存在でい続けている。

因縁の、納豆ごはん。

ごめんな、納豆ごはん。
いつもありがとうな、納豆ごはん。

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