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 400字程度書いてから集中力がなくなったので少しネットを巡回してからまたこのnoteに戻ってきたら、自分の文章力に目も当てられず、思わず削除してしまった。

 私は2ヶ月前にこのnoteを始めたが、毎日更新するのが精一杯で、前の文章を見直してなどいない。その時起こった感情をそのまま表現し、あまり推敲に時間もかけず投稿する日が殆どだ。だが、今見直したように、前の文章を読み返した時に目もあてられないようであれば、以前の記事を読み返すなんて恥ずかしくて堪らない。

 自分の声を録音した後、その音声を聞くと自分の声のあまりの醜さに反吐が出そうになるが、自分の文章も、毎日嘔吐を催すような吐瀉物が散らかされていると思うと、このアカウントも閉じたくなってしまう。
 それでも、消すことによって生まれる悔しさの方が勝るので、とりあえずなんでも良いから更新し続けるのである。

 このようにしょうもない文章を書いている途中に書くことが思いつくのだが、分量が多くなってしまい、書いていると日付も変わってしまうのでここで筆を置く。

 それにしてもこの『筆を置く』という表現、PC上で執筆している時にも使って良いのだろうか? いつかアナログの世界に筆や鉛筆で書くことがなくなってしまうかもしれない。PC上では、筆にあたるものは何だろうか? 自分の手指か、それともキーボードか。しかしそれも、画面に映し出されなければただのカタカタ鳴るオモチャにしかならない。キーボードと画面、いやそれらを動かすバッテリーも必要だ。PC全体が筆だろうか? 否、それだけではない。筆は書いたものがその状態のまま残るように、書いたものが保存されなくてはならない。メモリだったり、インターネット環境だったりと——デジタル世界の筆にあたるものは、ひょっとしたら果てしないのかもしれない。

 文章を書いている状態と書いていない状態の境界に『筆を置く』という動作がある。仕事とプライベートはしっかり分けられるべきであると同時に、書き手も書いている時とそうでない時との境界をしっかり分ける一つの儀式としてこの言葉があるのだろう。儀式言えば大袈裟だが、要は食事の前にいただきますと挨拶することで食事中と食事中でない時間に境界線を引くのと同じように、筆を置くもまたそのような形式としての意味があると考えた。

 これをデジタルに置き換えてみると、noteの場合は下書き保存か、投稿にあたるのか。パソコンを閉じるところまでが『書く』ということか。
 まぁ、デジタル版『筆を置く』を新たに定義づけるなんてところがそもそも愚策だったのかもしれないが。気づいたら1000字超えてしまったので、いよいよ筆を置く。

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