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●2020年9月の日記 【下旬】

9月21日(月・祝)

夫の両親の家で午前5時半、子どもが元気に起き上がった。それでわたしの朝もその時間にはじまった。
夫を寝室に残し、わたしと子どもふたりで階下のリビングに行った。テレビをつけて、録画リストにあった「となりのトトロ」を再生。子どもはオープニング曲の「さんぽ」から釘付けになっていた。わたしのあぐらの上にデロンと乗っかって、ときどきほほえみを浮かべながらしずかに鑑賞した。こうなるのは珍しい。自宅のテレビよりも画面が大きいこともあるだろうが、やはり「トトロ」には力があるな……と思った。

ところで、とうもろこしを抱えたメイが姉のさつきにゴネるシーン、子どものころに観ていたときは「このときのメイなんなん、いくらなんでもわがまますぎるよ!」と毎回イライラしていた。しかしメイに近い年齢の子どもが身近にいるようになったいまのわたしは、ここで「そうだよね……うん……そうだよねえ……」と崩れ落ちてしまった。ぼろぼろである。のちに起きてきて子どもの2周目の「トトロ」に付き合っていた夫もやはりここで崩落していた。メイも、メイの前では張り詰めているさつきも、父母のことも、考えはじめるとすべてについて泣けてくる。何度も観たはずなのに子どもがうまれてから「トトロ」にめちゃくちゃに泣かされてしまうようになったという親御さん、たくさんいるのでは。子どものことほんとうによく見て作ってあるんだなあ。

(あとわたしは「パンズ・ラビリンス」を観し者なので、最後のほうの展開では「パンズ・ラビリンス」が何度もよぎって心がざわついてしまった。あれ観たあとの「トトロ」終盤は不安でいっぱいになる、「トトロ」も"そういうこと"なのか?って。たぶんちがうんだけど。
「パンズ・ラビリンス」(2006)は「となりのトトロ」(1988)がいくらか影響を与えたといわれる映画です。)

午前10時に出かけた。夫の両親の車を借りて、親子水入らずで「ちょっと熱海までドライブ」に行くつもりだったのだ。片道1時間、ちょうどいい距離だと思った。
結果、片道4時間かかった。渋滞に次ぐ渋滞であった。
渋滞に対する夫の悪態を聞くごとに、熱海行きを発案したわたしが責められているように思えて息がぐっと詰まった。

子どもが車内で終始ごきげんに過ごしてくれていたのにかなり救われた。彼は熱海につくと足湯を楽しみ、海までの坂を駆けて下った。はじめての砂浜でいっしょに砂の山をつくったり、波をこわがってひしとしがみついてきたのも良かった。みんなで食べた町中華もおいしかった。

帰り道、子どもはほとんど寝ていた。車はやっぱりまた渋滞に巻き込まれていて、わたしと夫は「カタカナ英語しりとり」をして変に盛り上がった。

「やっと夏らしいことをできたって感じで、よかったね。大変だけど。」
と夫が言った。

夫の両親宅に帰り着いたのは日付が変わろうかというころで、わたしたちは子どもを布団に置いて、夫の母が用意してくれていた野菜たっぷりのおかずをいただいた。沁みた。泥のように眠るとはこのことだな、と思いながら布団と一体化した。

9月22日(火・祝)

朝イチで風呂をかりた。まだ寝起きでぽやんとしている子どもをやんややんやって感じで洗って湯船に入れると、だんだんと意識がはっきりしてきたのか目をきらきらさせはじめた。それから1時間も浸かって遊んでいた。いつもと違う広々として段のついた浴槽が楽しいらしく、出ようとしないのだった。起きて様子を見にきた夫が説き伏せてなんとか風呂から連れ出した子どもの手足はしわしわにふやけていた。

夫とその両親と別れ、わたしと子どものふたりで電車に乗って出かけた。世田谷区の街で友だち親子と遊ぶので、その待ち合わせだ。子どもは電車の中で友だち親子の名前を口にしたり、車両の色について話をしたり、高揚したようすだった。つないだ手首の肉がはずんでいた。

ところが待ち合わせの駅に降りたとき、子どものようすが変わった。ホームを歩きはじめてすぐに真剣な面持ちで抱っこを要求してきたので抱きあげたところ、わたしの胸に穴でも掘ろうとするように強く顔を押しつけてくる。足を硬直させているので腹にひざが刺さってむちゃくちゃ抱きづらい。辛くなって下りてもらおうとすると足底で腹を駆け上ってくる。必死だ。下ろせない。どうもごねているのではなく怯えているようなのだ。雷が鳴っているときに似ている。今日は晴天だが。
改札を出てもようすは変わらず、友だち親子と合流して駅前から離れても同じで、結局その街にいる間じゅう、子どもはずっと怯えきっていた。どういうわけか建物の中に入ると恐怖の色は消え、ぎちぎちに固まっていた小さな身体からブワっと力が抜けて、わたしから下りてはしゃぎまわる。悪い魔法が解けたみたいに。だからみんなで建物を転々として過ごすことになった。レストラン、雑貨屋、屋上庭園、デパートの玩具売場。そこでどんなにやんちゃをして楽しく遊んでいても、移動のために建物の外へ出ると笑顔が消えた。身を硬くしてわたしにしがみつき、嵐が過ぎるのを待つように、次の建物に入るまでそうしていた。はじめての現象なので面食らった。

友だちのちかちゃんは、わたしの子どもを乳児のころから知ってくれている。いつもと違うようすからすぐに今日この街で彼に何かが起こっているのを察して、心配してくれていた。ちかちゃんといっしょになって一体この街の何がそんなにも、と考えてみたがもちろんわからず。落ちついたタイミングでやんわりと本人にきいても回答はなかったから、それは説明できないことがららしい。
そういえばわたしにもとにかく怖くてしかたない場所というのがあった。子どものとき。特定のエスカレーターがすごく怖くて乗ってからしゃがみこんでしまうことがたびたびあったし、自動ドアやエレベーターにもひとりで近寄れないのがいくつかあった。今でも理由はわからないし、大人になったらそういうこともなくなった。だけどそう、何故だかなんてわからなくても怖いものは怖くて駄目なものは駄目なのだった。
いつもおしゃべりな口をかたく結んで腕のなか、14キロの抱きにくいかたまりと化した子どもがかわいそうで、かわいかった。

ちかちゃんの子どものSちゃん(2さい)はとてもくつろいだ人で、最近では会うたびそのリラックス感に高級感までもが増していくようだ。どんなベビーチェアも彼が腰かければ社長椅子に見えるし、柄Tを着ればバカンス中のCEOといった感じ。グラサンもすごく似合う。いつもあごが気持ち上向きなのもその貫禄を手伝っていると思う。
わたしの子が街に対する緊張感からひんぱんに泣くなか、Sちゃんはリラックスした態度をほとんど崩さなかった。泣く子どもにおもちゃの虫をひっつけてにやりと笑ったり(このへんで子どもは泣きやんだ)、スライムを貸してくれたりした(結局もらって帰ってきちゃった)。わたしも子どもも今日は彼にずいぶん助けられた。

暗くなるまで遊んで、電車に揺られて自宅に帰った。夫が先に帰って部屋を整えてくれていた。敷きつめられたいつもの毛布がまぶしく、わたしと子どもはまっすぐに向かっていって頭をこすりつけた。

9月23日(水)

身体中が痛い。ひとりでテレビの前に陣取って、長野の人が家の庭に池を作る動画をひたすらみていた午前中。

(ネコチャンも出てきます。)

夜に作ったさんまの蒲焼きは味が濃く、目がカッと開いた。ごはんがみるみるなくなった。

子どもと長めのおしゃべりをして気持ちがあたたまった夕だった。謎のフレーズもまだたくさん出る。「オレンジのおっさん」と何度も繰り返してわたしを笑わせた。オレンジのおっさんかあー。

9月24日(木)

爪切りで爪を切っていたら手のひらを怪我した。意味がわからない。不器用すぎるしちょっと疲れている。

雨だから保育園の迎えのときは久しぶりに子どもを抱っこひもに入れた。自転車の前後でのトンチンカンな会話も好きだが、抱っこひもだと子どもの顔が目の前にあるから、ささやきに近い声も聞きとれるのがすてきだ。ふたりで「さんぽ」を歌いながら川沿いを歩いて帰った。あるこうあるこう、わたしはげんき。「さんぽ」のサビで突然、「きのこ」という狂気の歌をうたいだして、

(大好きです。)

ワンフレーズうたってから「これはちがったねえ。きっ・きっ・きのこだねえ」と得意げであった。

しかし2歳半を過ぎた子どもに抱っこひもは限界、というか少し限界を超えている気がする。何ぞすてきな雨合羽を買わなくては。

9月25日(金)

去年のクリスマスに夫からもらったエステのチケットを今日使った。アロマオイルと手技で全身が揉みほぐされていくにつれアタマの中にある考えもみるみる優しく緩んでいくのがわかり単純だなーと呆れてしまう。でも緩まって生きていくためにこの単純さを利用しない手はなくて、これからも定期的にこういったケアを受けようと人生何度目かの決意をした。めんどうでもお金がもったいなく思えてもこれは必要な設備投資なのだ。

しかし同じ設備投資でも普段から通っている町の整体では得られないものをエステから受け取ったという感じがする。それはたぶん、時間をかけて大事にされた感のことだろう。時間をかけて大事にされるためにはそれに見合った金銭を支払う必要があり、だからわたしは人に優しく触れてもらうためにもっと働かなくてはならない。

最近ラジオでもジェーン・スーさんがそんなことを言っていたのを聞いた気がする。調べてみたら著作にずばり『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』というのがあった。

生きていくってほんとうに果てしねえ事業だな。

9月26日(土)

雨の夕方に子どもとイオンモールに出かけてスライムを買った。子どもの希望のおもちゃもひとつ。無印良品にも寄ったが無印良品の店舗に入ると決まって泣く子どもがきょうも泣いて嫌がった。カレーだけ買わせてくれと頼み込んでレトルトカレーの棚に行くと彼も「辛くない」シリーズから1つ選んだ。計3つ購入。イオンを出ると雨は上がっていた。

9月27日(日)

noteかいた。noteに忘れていた過去のことかくのライフワークにしていきたいけどだいたいがそれなりにつらかったし〜それなりにたのしいこともあった〜ってあたりの"浅瀬の"記憶とたわむれてしまう。足をくすぐる海水のつめたさに沖へ出るのをためらっている、次はちょっと沖に近づくようなことをかきたい。

9月28日(月)

とても具合が悪く夕方までおもに布団の上でだんごむしのように丸まっているしかできなかった。子どもも付き合って側で昼寝をしてくれた。具合が悪いなりに幸福感があった。

夕方やっと立ち上がって鶏胸肉をやわらかくして焼いたりなめこ汁を作ったりした。そのあいだ夫が夜の公園に子どもを連れ出してくれた。月がみえたと言っていた。

9月29日(火)

保育園帰りの子どもを自転車のうしろに乗せてなんとなく隣の区に走らせていると大きな公園のついた立派な図書館をみつけた。入ってみると建物も広々としてすてきだし蔵書も多いし、陳列も愛が感じられるものだったので、ここの区民にたいする嫉妬に狂った。子どもがえらんだ絵本を何冊かその場で読みあげることでなんとか正気を保った。

メモ:『うみのでんしゃ ぼくらの江ノ電』(臨場感がすごい)
のろまなローラー』(くるまがかわいい)
のりものかけちゃうよ』という絵本はわたしによさそうだった。のりものの絵の描きかたがほとんど絵だけで紹介されている。わたしものりものをササッと描いて子どもにもてたい。

9月30日(水)

仕事で神奈川へ。笙野頼子『水晶内制度』を電車移動のおともに。カバーのデザインがすてきで持ち歩きたくなる。

2020年は個人的に「フェミニズムを勉強しないとヤバい」と思うできごとがいくつか続いた。ヤバいというのは、あれ?もしかしてわたしの感覚ずいぶん遅れている?というヤバさ。これ、わたし勉強しないと、よい方へよい方へ現実を変えていこうとしているひとたちの脚をひっぱり害をなすボケに簡単になってしまうよ、と考えてゾッとした。そうなっている自分はすぐに想像できた。

『水晶内制度』はすごい読書体験をしているなあという感じで、つねにハラハラして頁をめくっている。個人的なフェミニズムへの導入をこの本にしてよかった。課題図書は山積み。


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