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モノトーンな日常から抜け出して、ようこそ森の世界へ!

 わたしたちの世界はモノにあふれています。そのモノというのは、人がつくり出したモノです。モノは豊かになり、テクノロジーの進化によって生活がどんどん便利になっていき、過去のどんな時代よりも豊かで幸せな環境にわたしたちはいます。こうしてインターネットを使って個人と個人がつながれるなんて、数十年前では考えもつかなかったことです。

 でも本音をもらすと、誰もが生きづらさを感じているのではないでしょうか。何とも言えない不安とか、未来に対する恐れとか、それは言葉にできないものです。

 そう言うわたしも例外ではありません。
 ちょうど1年前の今頃、ふと自然に触れたくなって近くの森林公園に向かいました。誰かにすすめられたわけでもなく、ただ体がそれを欲しているようでした。体に大きな不調を抱えているわけでもなかったのですが、数年前から出始めた不整脈はずっと気になっていました。検査をしても原因が見つからない、こうした不整脈を持っている人がかなりいることも知りました。これもまた、知らず知らず、自分の中に溜め込んだ不安や恐れなどのストレスが原因であることは確かです。わたしの体は、どうにかしてこのストレスから少しでも解放されることを症状をもって訴えかけているようでした。

 こうしてわたしは、体が求めるままに、週末に時間を見つけては森林公園に向かい、1〜2時間ただぼーっとしながら土の上を歩いたり、木々の緑や、その間からさしこむやさしい日差しや、光にきらめく水面を眺めて時間を過ごしました。雨の日の森もいいです。雨粒に濡れた葉っぱや、傘の雨音、森全体にただよう霞のようなものが、いつもの森と違ったものを感じさせてくれます。
 こうして森で過ごす、ただそれだけで、どことなくホッとして、自分に戻ったような気分になれました。そして飽きることなく、一年たった今でも週末にはほぼ欠かさず森に通うのが日課になっています。森はいつもそこにあり、いつでも迎えてくれます。そういう安心感が森にはあるのです。




1、森には人を癒す力があるらしい

 森に通いはじめて半年くらいたった初秋の頃、あるきっかけで「森林セラピー」という、森林を通じて人の健康に貢献している活動があることを知りました。わたし自身が森で癒される経験をしていたので、どんなことをしているのか、とても興味が湧きました。
 さっそく詳細を調べてみると、森林セラピーはエビデンス(医学的証拠)に基づいて行われており、森林浴を行うことによって自然免疫が上がり、ストレスが軽減することが実証されていて、森を楽しみながら心身の健康維持や増進、病気の予防を行うことを目的としています。森の中で呼吸法やアロマテラピーなどを組み込んだ心のリラクゼーションや、ウォーキングなどの運動による身体のフォットネスプログラムなど、心身の健康を目的とした新しい森の楽しみ方が盛りだくさんです。
 こうした内容にとても興味を持ちました。そして「森林セラピーガイド」を養成する通信教育があることを知り、わたしは興味のままに受講を申し込み、約半年かけてカリキュラムを修了し、森林セラピーガイドの資格を取得することができました。
 森林セラピーからはいろいろなことを教わりました。森林に関する環境科学的な知識や、森の癒し効果についての生理学的な知識、それに加えて安全に森林を散策するための知識などを得ています。


2、自然セラピーを体験してみよう

 わたしは森にかぎらず海も好きです。お気に入りの浜辺で水平線をながめたり、海鳥が青空を舞うのを見たり、波音を聞くのも最高です。だから「森林セラピー」と限定せず、わたしの活動は「自然セラピー」と呼ぶことにしています。だからあえてここからは、わたしの活動体験の名称は「自然セラピー」と表現します。

 わたしが自然セラピーを意識しはじめてから、ちょうど1年がたちます。毎週末に森に通ったり、ときどきお気に入りの浜辺にも行きます。森林セラピーというものを意識し始めた秋頃から、自分がどれくらい自然の中で過ごしているのかを記録しています。記録を取り始めて今日現在で100回くらい通い、160時間以上を自然の中で過ごしています。
 自然セラピーといっても、誰かにセラピーをしてあげるわけではなく、とにかく自然と触れ合うことによって、自分がどうなっていくのかを人体実験している最中です。はじめの頃は森に通っているという感覚でしたが、回数を重ねるごとに自分と森の関係が変わっていきました。森がいろいろと話しかけてくるようになったのです。話しかけてくるといっても、言葉によってではありません。感覚として伝わってくるものがあるのです。

 その間、とくに後半の半年には、驚くようなことがいろいろ起こりました。例えば、わたしが大好きな大きな睡蓮の池でスワイショウという腕振り運動をして、静かな呼吸をしながら瞑想のようなことをしているとき、森と自分が一体になる経験がありました。それは静寂そのもので、とても心地よかったのですが、あまりにも一体感がすごかったので、しばらくすると「ちょっと待って、元にもどれるの? このまま森の一部に吸収されるのではないか」と心の中で思うような体験でした。しばらくその静寂と一緒にいましたが、そろそろ体に帰ろうと意識した時、すっと自分に帰ることができ、ホッとしました。

 他にもこんなことがありました。ベンチでボーッと池を眺めていた時、一匹の鳥がわたしのキャップのひさしにとまろうとしたのです。野鳥が目の前で羽ばたきしていて、目が合ったのには驚きました。鳥は止まり木ではないことに気づいて、鳥の方も驚いて飛び去っていきました。

 それからこんなこともありました。ある雨がふる寒い日に、森の中の休憩所でボーッとしていると、横で何かの気配がします。少し驚いて視線を向けると、一匹の野良猫がすりすりしてきました。ここには捨て猫がいるのです。ほぼ野生化しているので、人が近づこうとすると逃げます。しかしこの日にかぎって、野良猫が擦り寄ってきたのです。あまりにも擦り寄ってくるので少し撫でてみると、野良猫は遠慮することなくわたしの膝の上に乗ってきて、丸くなって眠り出しました。カイロのように暖かかったので、わたしも拒絶することなくしばらくそのままでいました。するとその猫は、いびきをかき出したのです。そのことを猫好きの友人に聞くと、家猫でも膝の上でいびきをかきながら寝るのはめずらしいことだと言われました。鳥にしても猫にしても、こうした現象が起こるのは、わたしが森との一体感を感じているときでした。


3、森に教えてもらった気づき

 わたしは森に通い出して半年くらいたった頃から、いろいろな気づきのようなものが押し寄せてくるようになりました。森がいろいろなことを教えてくれるのです。例えば、森は自然の力でいのちを循環させていること。人もまた自然の一部であること。自分の体内でも森の営みとまったく同じ働きがあることなど。
 わたしがこのnoteで書き残してみたいと思っているのは、森に教えてもらったそんないろいろな気づきです。その気づきを読んでいただける方にシェアしてみたいと思ったからです。その内容は、わたしたちがいままで持っていた常識とはちょっと違うところがあります。もしかすると読んでいただいた人の中には、反論があるかもしれません。それも踏まえて、そういう捉え方もあるんだなぁ、というおおらかな視点で読んでいただければと思います。

 森と一体になる、ということもそうです。人と森が一体になるなんて、何かメルヘンチックな、想像の世界の話ではないかと言われそうです。しかしこれは、事実としての一体感です。思考で想像したことではなく、わたしが森の中で感じたこと、自分が実際に五感で体感したことだけを書いていこうと思います。でもそれは感覚のことであり、どこまで言語化できるか、そこには限界がありますので、はたしてどれだけ伝わるかわかりませんが、わたしが森で体感しているそのまんまを表現してみたいと思います。

 例えば、こんな話はどうでしょう?
「思考に大きな力はない」
 これがわたしが森に教えてもらった根幹となっています。
 わたしはこのことを知って、人生の価値観が180度変わってしまったのです。


4、人間が考えることの限界

 ある日、森からこんなメッセージがやってきました。

「人の思考に大きな力はない」

 その意味はとてもシンプルで、明快なものでした。

「思考の力を使っても、人間は葉っぱ一枚、てんとう虫一匹つくり出すことはできない」

 確かにそのとおりです。人類は大きな進化をとげ、世界がひとつにつながり、新たなテクノロジーがつぎつぎと生み出されています。わたしたちはどこまで進化するんだろう、A I技術によってさらなる世界が展開するだろうと、予想のつかない未来を想像しています。

 しかし事実をよく見てください。人類の最先端の叡智を結集しても、葉っぱ一枚、てんとう虫一匹つくり出せないのです。それが事実です。

 もし今後、葉っぱをつくり出し、てんとう虫をつくり出せたとしても、地球をつくり出せるでしょうか。それが、人間の思考の限界だということです。
森は圧倒的な存在感で、人の思考というものがどんなものであるかを教えてくれたのです。
 森をじっくりと観察していくと、生息している植物や動物や昆虫たちは、人の手のおよばない大きな力によって生み出され、そこに生息しています。それも絶妙に、完璧なまでの自動連鎖によってそのいのちが循環するようにできているのです。そして、人もまた、この大きないのちの循環の中のひとつのいのちに他ならないんです。

 想像してみてください、もし自分という存在から「思考」がなくなったらどうなるか? 

 どうなるか想像できるでしょうか。思考がなくなると、森に生息するいのちとまったく同じ存在になるんです。わたしはそのことに気づいて驚きました。ああ、わたしというこの存在も、森の樹木や生き物たちとなんら変わることのないひとつのいのちなのだと。


5、あるがままの森を感じてみる

 わたしたちは1日中いろいろなことを考えています。でも森は静かです。思考のようなものはありません。人間が頭で思ったり考えたりする思考のない、あるがままの森の姿を感じてみましょう。

 森はすべてのいのちを完璧なままに生かしています。誰かが手を加えることをしなくても、自然にすべてのいのちが絶妙のバランスで循環しています。森で過ごすとよくわかります。これだけの樹木や草花、動物や鳥、昆虫や魚たちを、どうやって養っているんだろうと、その力に驚かされます。樹木の緑はイキイキとして、生き物は生気にあふれています。森全体に生きる力がみなぎっています。

 わたしはあらためて鳥を観察してみました。鳥のフォルムや毛並みの美しさ、その俊敏な動き、響き渡る鳴き声などを感じると、よくもこんなすごいものがこの世にいるものだと感嘆しました。

 はじめの方で野生の野良猫がひざの上で居眠りをはじめた話をしましたが、その猫の毛並みは美しくつややかです。ひざの上で眠る猫は湯たんぽのように温かく、生きていることを実感しました。この寒空の中で、どうやってこの肉体を保ち、どうやってこの温もりを生み出しているのか、その神秘に思いを馳せました。

 また、自然の造形は「美しい」としか言いようがありません。美しいという言葉にしてしまうと、思考的になってしまいますが、美しいという言葉が出る前の、あの言葉にできないその感覚こそが自然の神秘そのものです。
 今朝、散歩中に花壇に植えられた花たちが目にとまりました。朝日に照らされて、キラキラ生き生きとしています。思わずその美しさに写真を1枚とりました。なんて美しいんでしょう。

 わたしたちは1日中忙しくしています。わたしたちが忙しい、あれが問題だ、これがたいへんだということは、実は人間の頭の中で起こっていることなのです。それも、実態のない仮想の世界でそれをやっているわけです。わたしたちの存在そのものが忙しいのではなく、頭の中が忙しい。わたしたちが問題を抱えているのではなく、頭の中に問題を作り出しているのです。
 その証拠に、今ここにいる肉体の自分そのものには、忙しさもなく問題もありません。ただここにあるだけです。でも頭の中を覗いてみてください。忙しさと問題がぎっしり詰まっているはずです。
 その忙しい自分、問題だらけの自分とは、実は思考の中の自分だったのです。その思考の中で作り上げた実態のないものを「自分」だと錯覚しています。

 でも本当の自分は、森の生き物たちとまったく同じ存在です。森に生まれ、森で生き、森で死んでいく、その循環とまったく同じなのです。
 ぜひ一度、森の中で思考のない自分を体験してみてください。それは森の静寂そのものだということを体感できるでしょう。シーンとしたあの静寂です。それが本当の「わたし」です。


6、森が教えてくれた生き方

 わたしは森に通うようになって、森とひとつになる経験をしました。それは静寂そのものです。森に入ると、おのずと思考が止まって、感覚が敏感になってくるのがわかります。それは、本来の自分に戻ることにほかなりません。わたしの中に森があり、その静寂は森にいなくても感じることができます。

 何か問題を抱えたり、苦しい思いが湧いてきたら、自分の中にある森の静寂を感じます。すると、その問題や苦しみは、自分の思考がかってにつくり出していることに気づくことができます。そのことに気づいてしまえば、問題は問題ではなくなり、苦しみは苦しみでなくなるのです。

 わたしは長い間、自己啓発や成功哲学をはじめとした学びを続けてきました。どうすればよりよい人生を生きられるのかを、ずっと探求し、また体験もしてきました。思考は現実になると教えられて、どうすれば思考をうまくコントロールできるのか、それをなんとか自分のものにしたいとずっと格闘してきたのです。しかし、その努力は虚しく、けっきょく一時はうまくいったように思えたことも、しばらくすると物足りないものになっていく。もっといい世界があるはずだ、自分はこんなものではない、もっといい未来があるはずだ、それをなんとか手に入れるのだと、ずっと格闘を続けてきました。

でも、森が教えてくれました。それは無駄な努力であり、真実はそこにないということを。

 わたしは今、森に身をまかせようとしています。それはできるだけ思考と距離をおいて、五感の自分を生きるということです。

 今までは思考をもって人生をコントロールしようと思ってきましたが、それをやめるということ。それは、森の静寂、完璧にいのちを循環させているその働きに身をゆだねてみるということです。

 森をはじめ、海も、山も、川も、空も、そのすべてがいのちの根源の働きです。いのちの根源の働きは、何をしなくても完璧に循環しています。人間もまったく同じいのちです。特別な存在ではありません。ただ人間だけは考える力をもっていて、特別な存在なのだと勘違いしています。その勘違いがいろんな問題を生み出しています。

 いかがだったでしょうか、「思考」というものが幻想であり、事実ではないということが、少しは伝わったでしょうか。これはわたしが森から教えてもらったことです。
 もちろん、思考にはなんの力もないといっているわけではありません。ただ、森を循環させているいのちの根源の力の中では、人体に例えるならば、その力は頭の髪の毛一本に満たない、ということです。


7、体の中にも森がある

それは、

「体の中に森がある」

 という気づきでした。

 この日は気温が10度を下回る寒い日でした。 いつものように池のほとりに立ってストレッチをし、身体がほぐれたころに携帯用座布団を地面に敷いて、そこにあぐらをかいて座りました。

 真冬とはいえ、見渡すと、池は常緑樹に覆われています。そこにはたくさんの鳥たちが集まってきて、美しい鳴き声が響き渡っています。

 しずかに目を閉じて、いつものように全身の部位を意識でボディスキャンします。胸からおなかにかけての体内に、深山幽谷の霧が立ち込めている感覚を感じるのです。

 今度はその意識をシャボン玉のようにふくらませて体の外を感じてみました。自分の前はどうか、後ろはどうか、左右はどうか、上はどうか、下はどうか・・・。

 そうして自分を包んでいる意識のシャボン玉を池いっぱいに、その周辺の森にまで広げ、そして意識でそこにある森の息吹を感じてみました。

 森にはいのちの循環があります。地上ではたくさんの動物や昆虫などが活動をしています。地中はどうでしょう、冬に散った葉や生き物の死骸を微生物が分解しています。それを養分として水分とともに樹木が吸い上げ枝葉の末端まで届けます。その樹木の実や、樹皮に生息する昆虫や幼虫をもとめて、たくさんの鳥たちが集まってきます。
 池の中はどうでしょう、水中のプランクトンを小魚が食べ、その小魚を大きな魚が食べ、その魚を水鳥が食べます。水鳥の死骸は微生物に分解され、プランクトンの餌となります。
 こうして、すべてのいのちが上手にバトンタッチされ、循環しながらつながれていきます。これらすべてが全自動で行われているのです。豊かにいきいきと、いのちの活動がここにあります。

 わたしは、その森の中で行われている完璧なまでの活動を意識で感じながら、その静寂に身をまかせていました。


 しばらくして、ふと自分の体の感覚がないことに気づきました。きっと森との一体感がすごかったのでしょう。

 少しだけ不安が湧いてきました。もしかして、森の一部に吸収されるのではないか・・・という不安です。いままで経験したことのない感覚でした。しかしあせることなく、そのまま森の静寂に身をまかせていると、不安はどこかに消えていました。

 しばらくして、そろそろ自分の体に帰ろう、と意識をしたとき、すーっと自分の体を感じることができました。

 その余韻を感じながら、しばらく自分の体の中に意識を向けて、自分の体がここにあることを確認しました。するとこんな気づきがやってきたのです。

「体の中にも森がある」

 森のいのちの活動とまったく同じはたらきが、この体の中にもある。それは今さっきまで自分が感じていた森の営みとまったく同じ働きが体の中でも行われているという気づきです。

 わたしは心臓を感じてみました。心臓は絶え間なく拍動を続けて全身の末端まで余すことなく血液を送り、この体を生存させています。
 他の臓器はどうでしょう。ひとつ一つの内蔵が、体を維持するために自動で活動しています。これらは完璧なまでの活動です。先日、血液検査をしたとき、その正常数値がいつも変わらない不思議を感じたばかりでした。
 また全身は数十兆の細胞で構成されているといわれています。1日に数千万、数億の細胞たちが死滅し、新たな細胞をつくり上げ、死と再生を繰り返しながらこの体を保ってくれているのです。

 これらのすべての現象がいのちそのものの活動です。それは、森のいのちの循環とまったく同じなのだと・・・。

 体の中にも森がある、ということは、この自分もまた森のひとつの存在だということです。

 この体験をしたときから、ものの見え方が変わってきました。街中にいても、森を見ることができるようになったのです。どこにいても、森とひとつでいられるという実感です。


8、自分を感じる自然セラピーのやり方

わたしは自然セラピーガイドとして、五感をしっかりと感じる「自然セラピー」のやり方をお伝えしています。
ぜひお近くの森で試してみてください。

自然セラピー体験ワークは、思考する自分から離れて、感覚の自分と出会う体験をするためのワークです。
わたしは毎週のように自然の中でこのワークを続けています。このワークを続けていくうちに、森の静寂の中にはすべてのいのちを生かす力があり、人の手のおよばないところでそのいのちが循環していることを実感します。
わたしたち人間もまた、この森に生かされているいのちと、まったく同じいのちの存在なのです。ただ人間には思考が与えられています。その思考があまりにも優位になってしまったがゆえに、本来の五感の感覚が鈍くなり、思考の中で想像しているのが本当の自分だと勘違いしています。
ぜひこの自然セラピー体験ワークを通じて、本当の自分に出会う体験をしてみてください。きっと今まで見えていなかった自分に気づくはずです。

■ 自然セラピーの体験プログラム例(2時間)
1、ウォーミングアップ
2、山の小径をゆっくりと散策
3、睡蓮の池で自分の五感を感じるワーク(腕振り運動、ボディースキャン、瞑想など)
4、休憩所でトイレ休憩
5、遊歩道を散策
6、ウォーミングアップ

以上がわたしが森で毎回体験しているプログラムです。
五感を感じるためにはコツがあります。森で過ごしながら、自分の五感感覚が甦っていくのを体感します。
森林浴をすることによって、NK細胞が活性化してがん細胞やウィルス感染細胞から防御する自然免疫が上がることがわかっています。またストレスが軽減することも医学的に実証されています。
その持続効果は、1か月経過しても森林浴前よりも高いことも実証されていますので、1か月に一度、森林浴を習慣づけるようにすれば、生体はつねに高い免疫機能を維持することができます。
この自然セラピー体験が、自分らしい人生をおくるための機会となれば幸いです。

       あまのつかさ@自然セラピーガイド

※このやり方は、あくまでもわたしが今自分で楽しんでいる方法です。森林セラピーとは関係ありませんのでご了承ください。


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