昨日見た夢を思い出せない 11(中編小説)


その部屋では一対の若い男と女が、距離を置いて棒立ちになったまま、お互いにきつい顔つきで睨み合っている。

さっきまでこの部屋は空っぽだった。空虚そのもの、無機質で冷たくて、しんと静まり返っていた。埃ひとつ落ちていない、生きている気配など何一つないその部屋の鏡の前に、ぽつんと黒基調(グラファイトブラック)のスマホだけが忘れられたように置いてある。

空気がかすかに動いて、遠くから音が近づいてきた。鍵が差し込まれてガチャガチャと回す音がして、振動で部屋は震える。綺麗に整えられ改装されていたが、ルームキーはカード形式ではなくて、そこだけは昔ながらの鍵で回すタイプだった。男の方が先に入ってきたが、まるで音も立てずに用心深く、スルッとした動きでいる。電気をつけてから後ろを振り向くと、後ろから若い女の方が入ってきた。少し疲れているようだが平然として顎もちょっと上げている。ひとみは興味深いキラキラした好奇心でいっぱいだ。

息を切らせながらホテルが見えたとき、おとわはちょっと立ち止まって胸を手で押さえた。窓越しに、ロビーのソファから立ち上がる彼の姿が見え、呼吸を整えてまた歩き出した時には、乱れていた髪をもうすっかり撫でつけていた。

ロビーを通りすぎた客と視線がぶつかって、伊笹の方は若干当惑していた。
何しろ0時を過ぎている。彼女が一体今までどこで何をしていたのか、皆目見当もつかないし再会への不安が募った。こんな所にまで何をしに来たと言えばいいのかわからない。
様々な用途の人間が止まるとしても、このホテルは主にビジネスマン中心の基本そっけない作りのもので、だからホテルマンもチェックインの時、いかにも事務的な対応をした。だからその雰囲気にならって彼女には事務的にルームキーを渡し、別れを告げようとしたのだ。顔を合わせて握りしめた鍵を渡そうとした途端に、携帯を忘れたことに気が付いた。

しかもキーを受け取った彼女はすたすたとエレベーターの方へ行く。さも当たり前のように扉を開いて彼が来るのを待っている。
何を言うにもおかしなことになりそうで、伊笹は、おとわは、黙ったまま無言で階のボタンが流れるように動いていくのをにらんでいた。
予約は一人分しか取っていないから本当はまずい。
そう言わないとと思うのに口が動かない。
携帯を取ったらさよならを言わないと。言わないと…。

おとわの友達と言う、元気な女子を振り切って家に向かった時のことだ。帰りの電車の中で、よく合コンを設定してくるプリペイドカードの大好きな女子がこんな風に送ってきた。
(おとわって子いたでしょ。あの時の飲みの分、まだ払ってくれてないの!ありえなくない?)
それは、最近になって伊笹もおとわも断っていた合コンの話だ。おとわは行くか行かないか口を濁していたようで、結局行かなかったのに代金を要求されているらしかった。この子は見合いの話を知ってか知らずか、しきりにおとわを悪く言いたがっている。
(電話したら神戸だって。しかも財布にお金ないんだって、やばくない?5千円ぽっちも払えないのかよ。プリペイドカードでいいって言ったんだけどむりって切られたし、うそっぽいよね。普通降ろすでしょ)
でも、行かなかったんでしょ、そう打とうか無視しようか迷っているうちに次が来る。
(あの子、前からアート系のなんとかって奴にハマってるんだよね)
(ハマってるって、恋人ってこと?)
(ちがうちがう)
絵文字が冷笑に満ちている。
(相手にされてないの)

伊笹がここにいるのはおかしなことでもなんでもなくて、その「なんとか」という名前のエゴサで出て来るのは神戸のイベントのそれしかなかったから、おとわが一度検索して見たものとまるで同じだった。
(おとわね、ずっと前から行きたがってたイベントがあったの…泊まるとこも決めてないらしいのよ。行き当たりばったりできたみたいだから心配だってあの子、世間知らずなところあるから…。聞いて?おとわはね…)

伊笹は携帯に小さく表示されている住所をよく確認して、時計を見た。それから乗換案内のアプリを開いた。新幹線発着の駅はすぐそこだ。終電には余裕で間に合う。いや別に彼女は困ってなんてないかもしれない。泊まる場所だって、別にあるんじゃないか。事務的に検索をかけて、宿泊場所を探した。ほらネット使えばいくらでもわかる。電話一本ですぐだ。仕事をしている気分だった。彼女の連絡先は部長にもらっている。今まで使わなかったが。
 ──もう会わないと思うけど、お元気で。
これくらいなら言える。口の中で何度も繰り返した。今も呪文のように繰り返している。

部屋に入って、バッグをベッドに落とし、くるっとこちらを向いたおとわの顔を見て、何も言えなくなった。
さっき携帯越しに、あの思わぬおとわの高揚した声を聞いたときにすべてがひっくり返ったように、彼女の姿を見て今度は気分は暗転する。あっちに振られこっちに揺られ、引っ張り上げられたかと思えばさかさに落とされて、くらくらする。気分も悪くなっていた。
彼女は一切の悪びれなく、まだ半分息をきらして頬は真っ赤、汗をにじませて、かすかに動いている胸の真ん中を片手で押さえている。
目がまっすぐにこちらを向いた。
唇はぎゅっととじて笑顔はないが、真ん中の黒目が灯りを映して星のように光っている。

伊笹は見れば見るほど難しいつらい、苦しい顔になっていき、おとわも眉を寄せた。

説明ができない奇妙な事態だ。付き合ってもいないし、家族の理解が得られる可能性も低く、恋人でもないし婚約者でもない人とこうしてホテルの部屋で立ち往生してお互いを見つめている。
この目の輝きの前で、頬はひきつる、口も動かないし手も足も出ない。
どうやらこの子は言い訳なんてするつもりはないらしい。興味はないのに、どこかで説明を聞きたいと思っていた自分の情けなさが余計に腹立たしくなってぐっと気持ちをこらえるだけで必死だ。
鋭い目は腹の中まで射貫くように、彼は今、試されている。

考えてみれば自分に非がないなどととても言い切れない。はっきり言えばよかった。知り合ったばかりなので、顔合わせはちょっと時期尚早だと。
『あわよくば』だとか、『なしくずし』ということばがふらふら空中を踊って、責めるようにぐるぐるめぐる。なにも進歩してないぞ、と伊笹は思った。失敗から学んでない。
生来、口下手で相手から決められることに対しては貝のように硬くなるくせに、でも拒否はされたくない。少しでも気配があれば乗じようとする。
降ってわいたようなこの流れを妨げたくなかった。
見透かされたか、要は調子に乗りすぎたのだ。

最後に会ったのは見合いの時以来だ。
おとわは感じ悪くなかったが質素だった。
偉そうな着物に高そうなバッグ、スタイリッシュなヒゲに高価なスーツの紹介者夫婦とあまりにもそぐわなく、伊笹はひそかに自分がそれなりにきちんとした格好で来ていたことに胸を撫で下ろしていた。隣ではこそこそ夫婦が話している。

「あれもうちょっと何とかならなかったのか…」
「そんなこと言われたって…」
「彼だってちょっと不機嫌な顔してるじゃないか…」
一体彼がどんなタイプを求めてると思ってるのだろう?
居心地悪そうにしている彼女を前に、立ち上がってからヒゲの方と小声で話をした。顔を寄せて来るので毛の根本の一本一本が見える。
「どう?」
「はい」
「それは…」
ヒゲは眉をひそめて右に左にと眼球を動かした。
「進めて…いい?この話。大丈夫?」
「彼女がよければ」
短く答えた。
「選ばれるのは、こっちの方なんで」
礼儀正しくシャイな風を演出すれば、誠実さを汲み取ってヒゲは大いに気をよくしたように見えた。

あの時の別れ際に彼女はかすかにこちらに向けて手を振った。笑顔があった。それだけで気分がいい。突然目の前に開いた世界の美しさだ。とりどりに並ぶ古びた看板も、古臭いなと思っていただけだったのに趣があるなと思うようになり、ネクタイを緩めれば夜風が喉からすっと入る冷たさを心地よいと思う。そういうすべてにお別れを言うのはつらいことだった。

唐突に壁が落ちてきてシャットダウンされたと見た、何もかも冷たくあきらめに彩られていたはずの、さっきまで見ていた景色がどうにも思い出せない。このこちらを見ている目の輝きがすべてにとって代わってしまう。
期待や不安に彩られた、一枚の絵のようになる。 




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