昨日見た夢を思い出せない 12(中編小説)




一体どこに迷い込んでしまったのか。

絵に囲まれたイベント会場では、まるで宙に浮いているようだった。ここは地の底だ。静かで物音ひとつなく、無駄なく並べられた調度品も涼しい顔をして立ちすくむふたりにそっぽを向いている。時計は狂いなく時を刻むし、蛍光灯の光が影を落とすカーテンはそよとも動かない。

おとわは、じっと伊笹を見ていた。
結婚の失敗から慎重さに拍車がかかっている彼が、落ちる瓶をつかむようなチャンスを捕えようと考えたのも、半ばはその食い入るような視線のせいであったかもしれない。

声が聞こえた。
こんな所まで一人で来て、遅い時間まで一体どこで何をしていたんだろう。
不安と怒りが見える。どうすればいいのかわからなくて、何か言おうとして言葉にならなくて苦しんでいる。でもそこに、恥をかいたとか、非常識だと責めたいだとか、そういうものは見えなかった。
おとわには自分がどうすべきなのかというよりは、どうしたいのかがよくわかった。

「率直に言うけど」
伊笹はちらっとこちらを無表情のままでにらんだ。容易に内面に人を入れないように見えるが、目も耳も開いている。彼女の方に正面を向いていた。
おとわは続けた。
やっと自分の気持ちをはっきり言える。ことばが熟したのだ。
「たぶん、一緒に暮らしたり、同じ時間を過ごしたら、私はあなたを好きになると思う。けど、それをあなたが求めてないんじゃないかと思ってそこが不安。それだけ」
しばらく二人は黙り込んでいた。

今度は伊笹がじっとおとわを眺める番だった。
わたしはわたしの気持ちを正直に言いました、って、そういう体(てい)で、悪びれもなくすましている。答えがあってもなくても、受け取り方も返し方  もその人次第だと言いたいらしい。
──好きになると思う。
誰か別の男に会いに行っていながら、ぬけぬけとこんな台詞を吐けるなんて。

最初からゴールに結婚を置いているから話は早い。
あるか、ないか。
それだけが問題だ。
会って数回、お互いにまだ何も知りようがなかったとしても、おとわにも伊笹にもどことなく、お互い心を開いてる感覚があった。受け入れよう、受け入れたいと思っている。警戒しながら近づこうとして周囲をめぐり、無鉄砲に足を進めようとすれば自分の壁にぶつかるとしても。それで怪我をしても、全部明け渡さないと意味がない。何もかもだ。失ったら折れてしまうぐらいのすべてを明け渡す。このわたしの呼び声に答える声が、あなたにはあるのかという叫びを真っ向から投げつけた。

おとわは急に嵐に巻き込まれるのを感じていた。記憶のかけらや感情の破片と共にぐるぐる渦巻いて耳元で吹き荒れている。底知れない渦へ落ちて行きそうになる。
諦めた風を装ってなんとなくずっと秘めていた思いが耳の後ろをかすめて、絵と背中の中にうずもれて消えた。からっぽになった家でひとり座っているときに、みゆの家の灯りを見てブラインドを閉じる。見透かしたように合コンの話を持ちかけてくる子の鼻を明かしてやりたいと思う。仕事はどこまで行っても昇給の兆しが見えない。次々と地の底へ吸い込まれて霧散して行った。

必死で足を踏みしめながら、おとわは突然気付いた。どうしてイベントに行ったのか、どうして新幹線を降りてしまったのか。
この目の前の彼が現れたからだ。
今ここで確かめる必要があったのだ。あんな風に次第に肩を落とし、しなびて生気を失って姿を見せなくなった彼が、生きていて元気であんな風な絵を描くことができ、そしておとわに目も合わせない、たった一度の視線すらもない、ということを今、確かめる必要があったのだ。
割り切りやあきらめなど生きて動いて変化するこの大地と同じで、どうなっていくかなんて誰にもわかるはずがない。だからといって破滅には行きたくない。

見定めないとだめだった。
伊笹拓也というこの彼が、おとわのこの理不尽でめちゃくちゃな感情に耐え、受け止め得る人なのかどうかを。
この胸に貯めている思い、怒りも望みも不安もやりたいことしたいことも、喜びも悲しみもごっちゃになったすべてがここで、潮目が変わる、きっと。
だってここまで来てくれたのだもの。

伊笹が姿勢を変えて少し視線を落とし、また目を上げてちらっとおとわを見た。冷たい、鋭い顔が、奇妙に和らいでいた。



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