たとえばコンテンツマーケティングの本質が「与えよ、さらば与えられん」であるとしたら。
まがりなりにもコンテンツマーケティングに事業サイド・パートナーサイドの両方の立場で携わって7年ほど経ちました。
実はその間、いろんなオウンドメディアとか、ソーシャルメディアを見たり関わったりするなかでずっと腑に落ちなくて、違和感ばかりが募ってきた”あること”があります。
「本当は違うと思うんだけどなあ…」
そう思いながら過ごしてきたのですが。生粋の理論派を装った感覚派の私にとっては、この感覚を整理してきちんと説明する難易度が高いわけです(だからnoteでマーケティングの話とかしてきていない)。
…のですが、なんか今日ふと降りてきたので(結局感覚的だけど)、少し話を整理したいと思います。
その”あること”とは、コンテンツマーケティングに取り組む際に避けて通れない、目標設定やKPI設定のお話です。
ずっと感じてきた違和感。コンテンツマーケティングの初期の目標&KPI
たとえば、いまやBtoBマーケティング界の権威と言ってもいい、才流の栗原さんのこのTweetとかまさに、という感じなのですが。
ここはもうみなさん色んな記事や教科書的なアレでご存じなことだと思いますが、コンテンツマーケティングは「短期的には先行投資になるけど、中長期的にコンテンツが資産となって投資対効果が最適化していく」という特徴があります。
実際、成功しているオウンドメディアなどを見ていくと、以下のようなケースは多く見られます。
・初期は数字やKPIをそんなに重視せず良質な記事を出すことを意識した
・数字は見ているけどKPIばかり追うスタンスではない
・数字の目標は定めていないが、どんな効果が出ているかは分析している
にも関わらず、現実には大半のコンテンツマーケティングのチャレンジャーたちが、半年後とか1年後とかの段階で検索順位とか、PVとか、リード獲得数とかといった目標を設定しようとします。
これが悪いとは言いませんし、マーケティング施策でリソースを投資するんだから目標設定するのは当たり前だという考え方を否定すべきだとも言いません。
ただ、こういう部分にずっと違和感があったんです。心の中のリトルカトウが「本当に成功したければやめた方がいい」ってずっと言ってるんです。
なぜ違和感があったのか。何事にも「適切なタイミング」がある
もう一度我らが栗原さんのTweetを見てみましょう。
そう、「継続しないと成果が出ない」んです。
言い方を変えると、最初の半年とか、1年とかのタイミングで最重要なのは「適切なやり方で継続すること」であって「投資対効果を計測すること」ではないんです。
光が見えていればまだいいですが、投資対効果の計測が”死の谷”の最中と重なったが最後、未来予知の能力があったとて、もう全員が不幸になる未来しか見えません。
本来ならば、なによりも継続が重要な時期に、もう少し我慢して継続すれば花開いて収穫の時期になるのに、投資対効果が悪いという表面上の判断で継続せず打ち切ってしまい、「失敗」の烙印を押される…。
しかし現実は厳しく、時に想像よりも残酷です。実際にはそんな事例は枚挙にいとまがないことでしょう。
でもそれって、コンテンツマーケティングの良さを、力を全然発揮できないで、自滅しているだけなんですよね。とってももったいないお話。
だから、最初期においてはたとえばこういう点を評価し改善していくべきだと、ささやかながら考えていたわけです。
・計画通りコンテンツが発信できているか(コンテンツ発信数)
・コンテンツがヒットしたパターンがいくつ収集できたか
(勝ちパターンorナレッジの蓄積数)
・基本となるデータが蓄積できたか(PV・CV・エンゲージ等目的に応じて)
・分析、改善のしくみができたか(改善実施数)
でも、ほら。
これ目標にするの?KPIに置くの?上司にぶっ飛ばされるんですけど…みたいになりません?
だって、マーケティング施策でリソースを投資するんだから、目標としてリターンを設定しないとかありえなくないですか??(ならない人は幸運だと思います)
なぜ最初の半年とか、1年とかのタイミングで最重要なのは「適切なやり方で継続すること」であって「投資対効果を計測すること」ではないのか。
実は私がずっと腑に落ちなくて、違和感を感じてもやもやしていたのは、こう言われた時にどう返すか、という部分が自分の中で感覚としてはあるんだけど、なかなかうまくまとまらなかったからです。
コンテンツマーケティングの本質が「与えよ、さらば与えられん」であるとしたら。
「与えよ、さらば与えられん」というのは、もともとは新約聖書にあるキリストの教えですが、ビジネスや人生を成功させる秘訣として、2000年以上を経た現代でも取り上げられることのある言葉です。
※ 似た教えで「求めよ、さすれば与えられん」というのもありますが、これはキリストが別の場面で述べた言葉です。あと「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」は聖書とかでなくエウレカセブンの名言です。
で、調べていくと、この「与えよ、さらば与えられん」の全文はさらに深い真実を突きつけます。一番現代語っぽい訳でいくとこんな感じ。
いつも与えなさい。そうすれば,人々は与えてくれます+。あなたたちの衣服*に惜しみなく注ぎ込み,押し入れ,揺すって入れ,あふれるほどにしてくれます。人に量って与えるのと同じはかりで,人からも量って与えてもらえます。(ルカによる福音書 6章38節:新世界訳)
要するに「あなたが与えるところにしたがって、人からも与えられるよ」というわけです。そりゃそうだ。
さて、コンテンツマーケティングの本質はまさに「与えよ、さすれば与えられん」なのではないでしょうか?
コンテンツを通じて、見込み客に、顧客に、あるいは市場に、社会に。自らがまず「与える」こと。
自らが与えた分だけ見込み客から、顧客から、あるいは市場や社会から「与えられる」存在になっていくこと。
これがコンテンツマーケティングの本質であるという前提で、目標設定やKPI設計ができれば、長年に及ぶ私の違和感に、終止符が打てる気がしたんです。
ええ、感覚派なのでまだ「気がした」程度なんですけど。
「与えよ、さらば与えられん」式コンテンツマーケティングの概要
整理すると、こんな感じの目標設定やKPI設計に整理してみるのはいかがでしょう?という考えにたどり着いたわけです。
最初は「まず与える」フェーズ。この段階で「投資対効果」とかいう無粋なキーワードを出さないようにしましょう。広告が嫌われ、フェイクが見抜かれる時代です。リターンを期待する前提で提供したコンテンツに、人々が価値を見出すと期待することは難しいのです(見出してくれたらラッキーくらいに思っておくのがちょうど良いでしょう)。
ですから、この段階ではきちんと「与える」こと、あるいはそれを継続して行うためのしくみができているかどうかに重点を置くのが賢明でしょう。
次は「与えられる」存在になっていけるか、を確認するフェーズです。それは「自分たちが与えているものが独りよがりになっていないか」を確認することとも言い換えられるでしょう。
「ちゃんと与えているつもり」では意味がないのです。「本当に提供したコンテンツが(めざす方向性の)影響を与えられる力を持っているのか」をきちんと精査することが重要です。
それができていないのに、「期待するリターンが得られない」というのはナンセンスです。忘れないでください。「人に量って与えるのと同じはかりで,人からも量って与えてもらえる」のです。
さて、この2つの関門を経て、ようやく「自分が与えてもらえる」つまりリターンが期待できるフェーズになります。「与えよ、さらば与えられん」という教えの正しさを体感できる、死の谷を越えた世界がそこに広がっています。
このフェーズにおいては「人々の期待するものをいかに与え」「どのように自分が欲するものを与えてもらえるようになるか」継続的にチューニングしていくことが重要です。
最初から自分が欲しいものが手に入ると思ってはいけません。何度も言いますが「あなたが与えたところにしたがって、あなたに与えられる」のです。
もし自分が欲しいものが手に入っていないとしたら。その時にはまず、「自分が本当に正しく与えられているのか」を振り返り、見直すべきです。
そうして継続した取り組みを進め、「与え続けること」によって、コンテンツはマーケティングゴール達成に中長期に渡り貢献する存在となり、売上や収益に貢献し、ブランドの成功に寄与するのです。
「与えよ、さらば与えられん」が理解できないならコンテンツマーケティングなんかやらなきゃいい
さて、もう一度。
まーこれを見て「え!?3年目とか書いてるけど、そんなかかるの?無理無理、もっと早くリターンが見えないと。1年目とかで見えないと」って思う人は多いかもしれません。
別に1年目の時点で、自分たちが欲しいものがどれほど手に入っているか、たとえば見込み客(リード)獲得数・経由売上…等を確認すること自体に問題はありません。
※なんなら2年目と3年目のKPIなんか例でも若干かぶってますし。
ただ、この1年目の「まず与える」というスタンスをきちんと理解できているか、コンテンツマーケティングが成功するか否かは個人的にはこれに尽きると思います。
何らかの自分たちがめざしたい数字、欲しいリターンを目標やKPIに設定すると、「見返りを求めずまず与える」ではなく「リターンを受けるために与えているふりをしている」という状況になりませんか?と。
別に上の表であげたのは例に過ぎないので、どんな場合にも3年見ろと言いたいわけじゃないですし、今の時代のスピード感でビジネスをするにあたりそれが許容できないこともあるでしょうし、実際にもっと早く成果が上がる例があるのも知っています。
ただ、「まず与えること」から始めて、「自分が与えたところにしたがって与えられる」ようになるまでには3年かかる、という覚悟ができないなら、コンテンツマーケティングなんて別に取り組まなくていいんじゃないかな、とは思います。
何度も言いますが、コンテンツマーケティングにおいて成功するために最初の時期において重要なのはどんな数字や自らが得たい成果が出ているかではなく、継続です。これはすでに実績が明らかにしてきているところです。
そして、数字や成果が見えない中で、時に死の谷を迎える中でも継続するためには「今は”まず与える”時期だから、コンテンツを適切な形で制作し発信することに専念しよう。これを乗り越えれば”与えてもらえる”時がやってくる」と考えて取り組む方が、賢いのではないか?
そう考えられず、あくまで「自分が欲しいもの」にこだわって(目標やKPIとして設定し)継続できずにコンテンツマーケティングの本来の力を実感する前にやめてしまうのは、とてももったいないのではないか?
そうなるのであれば、最初からやらずに他の手段にリソースを注ぎ込むほうが良いのではないか?
個人的にはそんな風に考えています。
2000年前にキリストが述べたといわれ、今に至るまで残されている「与えよ、さらば与えられん」という教え。
コンテンツマーケティングとは、その実践である、と整理することで、私の長年に渡る違和感はなくなり、一本の軸ができたような気になっていますが、はてさて。
エウレカセブン、また一から見るかな…。
この度は私のnoteをご覧いただき、本当にありがとうございます! これからも移住や働き方、南の島ってぶっちゃけどうなの?といった話をのんびりレポートしてまいります。 スキや感想のコメント投稿、サポートなどいただけると、とってもうれしいです。今後ともよろしくお願いします!