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居るのはつらいよ

東畑開人さん「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」

居るのはつらいよ。
ただ、いる、だけ。
でも、なぜそれがこんなにも辛いのだろうか。

「ただ、いる、だけ」を守るために語られる物語にとても心打たれました。長くなりますが、引用をしながらまとめさせていただきます。

つらさ その1

京都大学大学院心理学で博士号を取得し、沖縄の【精神科デイケア】に就職した筆者トンちゃん。

「俺は一流のカウンセラーになって、臨床心理学を極めるのだ!」

意気揚々と専門を活かしセラピーに従事するはずが、求められるのはただ座っていること、送迎、調理、片付け、遊びの相手など素人仕事ばかり。つまりそれはケアの仕事。

居るのはつらいよ。
トンちゃんは幾度となくぼやく。
流刑の罪のような時間は長く感じる。

そんななか「ただ居ること」に耐えられず、不用意にケアに通う女性に「セラピーもどき」をし、結果的に女性は精神状態を悪化させる。

大きな勘違いと失敗。
トンちゃんは「セラピー」は「ケア」より格上の仕事だと考えていた。

自分がしている素人仕事の社会的評価が頭にちらついてしまって、専門家の国から遠く離れたと
ろへと流罪にあっている気がしてしまうのだ。

決してそうではなく、セラピーとケアそれぞれが異なる役割をもつ必要な仕事なのだと気づく。
精神科デイケアには社会的な居場所が見出せない脆弱な人たちが「ただ居る」ことをするための場所である、そこに本質があると気づく。

トンちゃんは「ただ居る」ことの意味に気づけた時、ケアの仕事に向き合っていけるようになる。

つらさ その2

ケアの仕事の中で多くのスタッフは辛くなってやめて(トンちゃんの職場は給与が高いため)また新しく入ってくる。

「人、辞めすぎじゃない?」
居るのはつらいよ。

心のケアとは脆弱な人と一緒にいて、傷つけないことだとトンちゃんは考える。けれど、ケアする側はケアをしながら傷ついてしまうことがある。ケアする仕事に従事する人間(依存労働者)は、依存されることに伴う様々な難しさを飲み込まないといけない。
だから、依存労働者にもケアをする人が必要なのだ。
それはどんなケアに関する仕事でも同じ。

つらさ その3

「居るのがつらいよ」‥ただ、いる、だけ。
その根底の辛さとは何か、大きな正体をトンちゃんは突き止める。そもそもそれはトンちゃんの中にも潜んでいた。

トンちゃんは「セラピー」は「ケア」より格上の仕事だと考えていた。

「ケア」は社会保障の財源のなかで成り立っている現実がある。

ケアはセラピーと違い、大きな変化や回復を与えるものではない。
デイケアはただ居ることが難しい人の「ただ、いる、こと」をサポートするコミュニティ的役割が大きい。デイケアのプラグラム「遊び」も治療的側面を持つが、それは一般には伝わりにくい。

デイケアでは「変わらない」ことにも高い価値が置かれる。多くのマンパワーと多くの時間が費やされ、そして健康保険から多くのお金が支払われて、つまり多大なエネルギーが注ぎ込まれて、「変わらない」ことを目指す。
デイケアでは「一日」を過ごせるようになるために、「一日」を過ごすのだ。そこでは、手段その
ものが目的化する。メンバーさんはケアの中に留まるために、ケアを受ける。そのとき、治療は通過するものではなく、「住まう」ものになる。
もちろん、「社会復帰」を遂げるメンバーさんもいて、そういう場合は何か「治療」らしきことを
している実感があるのだけど、ほとんどのメンバーさんはデイケアに「いられる」ようになるためにデイケアに「いる」。そういうリアリティがたしかにある。
この一見不毛に見えるトートロジーに、僕は揺さぶられる。
それでいいのか? 僕らは成長を目指すべきではないか、治癒に向かうべきではないか? そういう声が聞こえてくる。
だけど、それでも、デイケアにいると、成長しないこと、治らないこと、変わらないことの価値を
感じてしまう。

社会保障の観点から効率が悪い支出と見なされる。長期にわたる居場所型デイケアの利用の社会保障が見直され、削られていく。

現代社会において、経済性がどの場面でも幅を利かせてくる。市場のロジックは、セラピーに好意的で、ケアの分は圧倒的に悪い。「ただ、いる、だけ」の社会的価値は語りづらい。

会計の声はセラピーに味方する。セラピーは変化を引き起こし、何かを手に入れようとする
プロジェクトだからだ。たとえば、復職する。学校に登校しはじめる。そういうことによって、生産性が上がる。税収が増える。会計の声からすると、セラピーは何かを手に入れるための投資と捉えられる。
これに対して、会計の声はケアに冷たい。ケアは維持し、保護し、消費する。「いる」はその後、生産に結びつくならば価値を測定しやすいかもしれないけれど、「ただ、いる、だけ」は生産に結びついていかない。だから、それは投資というよりも、経費として位置付けられやすい。

「ただ、いる、だけ」に市場価値を求めてはいけない。でも、現実は残酷だ。人はもはや市場抜きには生きていけない。

また一方、ブラックデイケアと呼ばれる施設がある。経済的収益のために患者を取り込み、必要以上に「居ること」を強制するという問題も起きている。デイケアが居場所としてのアジール(避難所)ではなく、管理されるアサイラム(収容所)に変えられる。

「ただ、いる、だけ」のコスパを追求しているうちに、コスパのための「ただ、いる、だけ」が出来上がってしまう。
ケアの根底にある「いる」が市場のロジックによって頽落する。
ニヒリズムが生じる。
こいつこそが真犯人だったのだ。
僕らは今、そういう世界を生きている。そのことを、僕はこのデイケアで知った。そして、そうい
う光を遮りながら、それでも「いる」を支えようとしてあがいていた人たちと共に働き、そして敗北した。ニヒリズムは外側から僕らに襲いかかり、内側から僕らを食い破った。
だから、居るのはつらいよ。

これらのお話は、精神科デイケアに勤め辞めるまで四年間のなかでエッセイ調で語られます。最後に東畑さんはその「語り」の意味を語っておられます。

ケアする人がケアすることを続けるために、ニヒリズムに抗して「ただ、いる、だけ」を守るために、それは語られ続けないといけない。そうやって語られた言葉が、ケアを擁護する。それは彼らの居場所を支えるし、まわりまわって僕らの居場所を守る。
居場所はつらいよ。市場の透明な光が満ちあふれるこの世界で、アジールは次々とアサイラムに
なっていく。居るのはつらいよ。
だけど、それでも、僕らは居場所を必要とする。「いる」が支えられないと、生きていけないから
だ。だから、アジールはいつも新しく生まれてくる。たとえそれがすぐにアサイラムになってしまうとしても、それは必ず生まれてくる。
そういうものを少しでも生き延びさせるために、このケアの風景を描く。

以上、長くなりましたがまとめさせていただきました。いや、まとまってなくてすみません。

お読みくださり、ありがとうございました。





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