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Alcohol is like love. The first kiss is magic, the second is intimate, the third is routine. After that…

新橋で飲んでいたのに、気が付いたら宇都宮の駅にいた。
23時43分。35歳最後の夜が終わろうとしていた。
慌ててタクシーに飛び乗った36歳の僕は、財布に残った領収書、35歳最後の夜遊びのツケを見て絶句する。
2軒目の途中までは覚えているが、3軒目のシガーバーはどうにも記憶にない。領収書の金額と時間からすると、よく頼むギムレットかドライマティーニを一杯と葉巻を一本注文して、一時間もしないで店を出たようだ。21時38分のことだ。その後間違った電車に飛び乗った上寝過ごして、終着駅まで来てしまったのか。
2軒目でシャンパンとコカレロをやり過ぎたのだろう。彼女と誕生日前日に会う予定だったのが流れて、ひどく荒んでいた。激しい音楽、妖しい照明、蠱惑する女体。それらが入り乱れるごった煮のただ中で僕は、煮詰まっていく心のカオスを凝視していた。

宇都宮のタクシーは、川崎の地理に詳しくない。降ろされたのは家から近い大きい駅の下だった。
寒空の中で2駅分の道を歩きながら僕は、テリー・レノックスのことを考えていた。

自分で自分に仕掛ける罠が、何よりたちの悪い罠なのだ。
There is no trap so deadly as the trap you set for yourself.
レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)『ロング・グッドバイ』ハヤカワ文庫 2010(原作 1953)p137

これは主人公=語り手の私立探偵フィリップ・マーロウが、親友テリーを助けたことでトラブルに巻き込まれた自分自身を指して放った言葉だけれど、実は助けられたテリーも、まさに同じような状況にいたのだった。彼は「自分ではいつも正しいことをしようと思うんだが、結果的にはやらずもがなのことをやってしまう(p583)」。そして結局、「物事をややこしくせずにはいられない(p56)」。
村上春樹はフィッツジェラルドの名作『グレート・ギャッツビー(1925)』(これの日本語訳も村上は2006年に上梓している)とその主人公たちと関連させながら、下記のように論じている。

ロジャー・ウェイドも、テリー・レノックスも、オールを失ったボートに乗り、崩壊という巨大な瀑布に向けて川を流されている。彼らはもはや逃げ場がないことを承知しながらも、なんとか自らを立て直そうと必死に努める人々である。しかし残念ながら彼らの依って立つべき徳義の多くは、すでにどこかで失われてしまっている。かろうじて残されているのは、その美学と規範の残映だけだ。
上掲書 p611

ギャッツビーもレノックスも、どちらもすでに生命をなくした美しい純粋な夢を(それらの死は結果的に、大きな血なまぐさい戦争によってもたらされたものだ)自らの中に抱え込んでいる。彼らの人生はその重い喪失感によって支配され、本来の流れを大きく帰られてしまっている。そして結局は女の身代わりとなって死んでいくことになる。あるいは擬似的な死を迎えることになる。
上掲書 p612

僕は英米文学専門じゃないし、アメリカには行ったことすらないから「学術的」な確からしさというのはわからないけれど、一人のディレッタントとして、また一人の酔っ払いとして、これほど適格なテリー・レノックスの描写は他にないと思う。
そして彼が迎える「擬似的な死」とは文字通り「演出された死」でもあるけれど(ネタバレしたくないので詳述は避ける)、それを暗示するライトモチーフが、小説では初めからふんだんにちりばめられている。
もちろん、アルコールだ。

そもそもの冒頭から、テリー・レノックスはひどい酔っ払いとして登場する。資産家令嬢の妻と高級クラブに食事に来たが、泥酔した夫に愛想を尽かした妻は彼を置き去りにして次のパーティーへと急ぐ。その捨てられた「迷い犬(p10)」を救ったのがきっかけで、主人公マーロウ探偵は事件に巻き込まれることになる。

テリー・レノックスはアル中の気はあるが、「深入りしてはいなかった(p33)」。その気になれば「抑制して酒が飲める(p33)」のだから。
それでも酔うまで痛飲してしまうのは、それが擬似的な「自殺」だからだ。

第二次世界大戦から帰ってきた後テリーは、かつての戦友とカジノの仕事をし、そこで知り合った金持ちの娘と結婚する。恋多き女のスキャンダルを隠す目的のもので、そこで彼は「お屋敷プードル(p37)」のように豪奢な、しかし空虚な生活を送ることになる。

それに僕は君を退屈させている。というか、僕は自分自身をすら退屈させている
I'm boring and God knows I'm boring myself
上掲書 p37

からっぽの胸(p593)。彼自らの基準というべきもの(p591)にそぐわない生。そのように生きる日々に虚しさを覚える。
あるちょっとしたきっかけで、若い頃の「すでに生命をなくした美しい純粋な夢」を思い出し、それをなくした「重い喪失感に支配」される。そもそも、その夢を支えていたはずの徳義の多くは、「すでに失われてしまっている」のだ。彼にできるのは、「かろうじて残されている」「美学と規範の残映」を追い続けることのみ。
しかしその「残映」すら、失われていく。喪失感はより重くなる。そして耐えきれなくなった時、テリーは酒に溺れることになる。それは「自らを立て直そうと必死に努め」たが力尽き、「崩壊という巨大な瀑府に向けて川を流され」た末にもがきながら選ぶ、ある種の自決なのだ。

僕が村上訳の『ロング・グッドバイ』と『グレート・ギャッツビー』に出会ったのはちょうどドイツ留学から帰ってきた頃で、あれからちょうど10年になる。
テリーやギャッツビーのように戦争や裏社会に関わることはなかったけれど、いろいろなことがあり、いろいろな人と出会い、そして多くを失った。その度に、「次は失わないよう気を付けよう」と思いながら、「これはあの頃のあれではない」と失ったはずのものの残映に取り憑かれ、より強い喪失感が僕の胸に穴を空ける。一応サラリーマンなので、テリーが一時期は「お座敷プードル」を大人しく演じているように、世馴れたふりをしていっぱしの「社会人」を演じているけれど、そういう自分を本心では嫌っている。ロジャーやテリーがそう信じたように、酒を痛飲して擬似的な臨死をすることで、失われた何か、若い頃憧れた純粋な何かを取り戻せる予感がどこかしているのだ。

酔っぱらって、ひどいなりをして、すきっ腹を抱え、打ちのめされて、それでもプライドを持っていたときの彼の方が、私は好きだった。
I liked him better drunk, down and out, hungry and beaten and proud. 
上掲書 p38

「お座敷プードル」になったテリーに再会したばかりのマーロウの言葉だが、テリー自身もきっと心の底ではそう感じていたのだろう。若い純粋な夢、自分なりの基準と規範、それにかけるプライドを捨て生きる「お座敷プードル」より、失われた美しい夢と押し掛ける現実との乖離にまともに向き合い、空いた胸に埋め尽くす喪失感を抱え、耐えきれなくなってアルコールに逃げてしまうほうが、まだしも「自分らしい」と。
たとえ彼自らの基準というべきものが「あくまで個人的なものであり、倫理や徳義といったものと繋がりを持たなかった(p591)」としても。

もう電車の走らない線路をふらつきながらゆっくり渡る。思えば昔、彼女と夜別れてからよく帰ったルートだ。駅前のバスロータリーは再開発で随分様変わりしてしまい、あの頃の面影はほとんどない。生まれ育ったはずのこの街も、彼女が去って実家に帰ってからいやによそよそしくなってしまった。

36になっても僕はまだテリー・レノックスのように、あるいはギャッツビーのように、失われた美しいものたちに憧れ続け、からっぽの胸を慰める術を軽蔑しながら痛みと戦い、崩壊へと流されていくのだろうか。

ギャッツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝にー
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matterーto-morrow we will run faster, strech out our arms farther.…And one fine morningー
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
スコット・フィッツジェラルド(村上春樹訳)『グレート・ギャッツビー』中央公論新社 2006(原作 1925)p325-326 

車もまだらな深夜の津久井道を、黙々と歩く。
隣の五反田川は冬で水が少ないからか、音も立てずに僕の後ろに流れていく。

36歳の僕は、過去に押し戻され、また引き戻されながらも、それでも前に進んでいるのだろうか?

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