松本天毎 / Amai Matsumoto

2001年生まれ、22歳。 ドイツでサッカーしてます。 考えた事をここに残しておきます。

松本天毎 / Amai Matsumoto

2001年生まれ、22歳。 ドイツでサッカーしてます。 考えた事をここに残しておきます。

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普通じゃ見れない景色が見たい。

ドイツに来て先日一年の月日が経った。一年前の私はどんな一年後を思い描いていただろうか。そして、果たして私はその姿になれただろうか。そんなことを考えながらここ最近過ごしていた。 私がドイツに渡ることを決めた高校3年の夏、私の心に1ミリも迷いはなかった。なぜなら、希望に満ち溢れ、私の頭には楽しい姿しか思い浮かばなかった。大抵の人は、高校卒業後は大学に進学する。だから、私はその大抵の人とは異なる道を選んだことになった。だから時々不安になる事もある。人生という長いようで短い軸で考え

    • そんな人生が好き

      人生って山あり谷あり。 誰かに今すぐ伝えたいくらい嬉しいこと この瞬間がまるで夢のように楽しいこと 時が止まってしまえってくらい幸せなこと 先が見えないくらい苦しいこと どうしても受け入れ難いこと 踏ん張って 踏ん張って 前に進んで 新しい自分を知る。 そんな人生が 好き。

      • 自分がしんどい時こそ

        ご無沙汰しておりました。まず今の状況で言うと、遡ること9月5日のリーグ開幕戦で右膝の外側側副靭帯を断裂し、手術なしでのリハビリ中です。医師によると復帰目安は6ヶ月と言われました。 自分自身の気持ちのアップダウンと戦いながらなんとか今もコツコツとやるべき事をちゃんとやり続けられています。色んな人のおかげで。 私は先日、仕事を始めて3回目のお給料を手にしました。私が怪我で長期離脱をしている今、頑張り続けられているのは、知りもしない赤の他人の力もあるのだなと最近強く感じさせられ

        • 絶望という名の前進

          ドイツに来て3シーズン目が、金曜からスタートした。ドイツに来てから、コロナの影響で、一度もシーズンを通しての試合や練習をする事が出来なかった。そんな中で、唯一の希望だったのが、6月に行われた20/21シーズンラストのブンデス2部への昇格をかけた2試合だった。この為にロックダウン期間中、一度も妥協する事なくやってきた自信があった。だが、私はまたしてもチャンスを逃した。これまで自分がやってきたこと、積み重ねてきたと思っていたものは全て無駄だったのかなと絶望した。試合後の数日間、心

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        普通じゃ見れない景色が見たい。

          失敗や苦境に対する新たな感覚

          先日ドイツは、ロックダウンの延長が発表され、またまた自分との闘いは延長戦に持ち越されることとなりました。2020年の2周目なのか?と思ってしまいますが、そこは自分でどうこう出来る問題ではないので、私が今出来ることはただ一つ。自分の目標に向かって「ちゃんとやる」ことです。 ところで皆さん、失敗や苦境は怖いですか? 私は、正直怖かったです。でも、コロナの影響で試合が出来ない、練習が出来ないのが当たり前という世界に立った私に、こんな感情が降りかかってきました。 失敗できないの

          失敗や苦境に対する新たな感覚

          思いやりとは想像力である

          私は今、夢があってドイツにいます。ドイツで生きるということは、ドイツ語が必要です。語学を習得する中で気付いたことがありました。それが「思いやりとは想像力である」ということです。ここは結構、色んな所に繋がる大切なことなのではないだろうかと感じているので、今日は文字にしようと思いました。 まず始めに、「海外に居れば勝手に言語なんて身につくでしょ?」なんて言われることがよくありますが、全くそんなことはありません。「必死に勉強する」に限ります。必死に勉強して生活に困らなくなっても、

          思いやりとは想像力である

          何者かどうかなんて

          2020年も気付いたら後1ヶ月もなくなった。今年は約6ヶ月間は自主練期間だったらしい。振り返ってその長さに驚き、指を折って数え直した。6ヶ月の自主練なんてまるでチームを失って無所属であるかのような、怪我をしていないのに離脱して別メニューをしているかのような。自分でも一人での練習があまりに長すぎて、そんなことを考えた日もあった。それでもなんだか結構充実していて、毎日あっという間だった。 自分自身と闘わざるを得なかった2020年が、たくさんの気付きを私に与えてくれたおかげで、間

          何者かどうかなんて

          さあ、誰と戦おうか。

          「見てる人は見てるから」とお母さんはよく言う。そうか誰かが見てるんだ、そう考えたら頑張らないとなあ、と小学生の私は毎日楽しくボールを蹴り続けた。2階の窓からお母さんが見ていて、「ご飯できたよ〜」とか「頑張って〜」と言われるのが嬉しかった。 「誰かって誰なんだろう」 「そんな事はどうでもいいか」 「とにかく、間違いなく誰かが見ているんだ」 当時は深い事は考える事なんてほとんどなかった。なんだって出来ると思ってたし、やってみるしか選択肢はなかった。歳が上がるにつれて色々と考え

          さあ、誰と戦おうか。

          多様な物差しを標準装備する

          「ありえないでしょ〜〜、なんで!!」 これは私が実際ドイツに来てから口癖のようになってしまっている言葉だ。 例えば、ここ最近だとこんな出来事があった。 ・荷物が届かない→連絡を取ってみるとどうやら不在だったらしい→だけど、不在届けは入ってない ・Amazonで買った物が届かない→問い合わせる→返答なし ・書類を手紙で送る→届いてないと言われ、やっぱメールで送ってと言われる→メールで送ったら今度はやっぱり手紙にしてくれ こんな事が起こる度に毎回「ありえないよ」と口に

          多様な物差しを標準装備する

          楽しさを見出していたモノ

          突然ですが、皆さん最近楽しいですか? 楽しさを見出せていますか? 私は毎日とても楽しいです!! もし、楽しくないと感じているのならば、周りと比べたりしてはいませんか? ライバルはいつも自分自身だ。 誰もがこの言葉を幾度となく耳にしてきたと思う。私も、今まで生きてきて、耳が痛いほど聞いてきた。しかし、「そんなのわかってるよ」「当たり前でしょ」、と軽く受け流して、分かっているようで、実際スッと入って来なかった。 コロナで練習が出来なくなってから、一人でトレーニングをする毎日

          楽しさを見出していたモノ

          その賢さは本物か。

          私は、コロナ休みに入り、今までどこか蔑ろにしていた自分と向き合うという時間が増えた。正直、今までの私は、やらなければならない目の前のタスクに支配されていたように感じる。確かに私はその目の前のタスクをこなしてはいた。だが、その本質は何だろうか。何のために、それをしているのかという本質を見失い、ただただ忙しなく過ぎる日々の中で、目の前の事を上手くこなしていたのだ。、いや、片付けていたという表現が正しいのかもしれない。 振り返れば、ドイツに来て一年が経ち、コロナの影響で、ほぼ

          その賢さは本物か。

          私の考え方を180度変えたとある問いの話

          それはある秋の終わり良く晴れた日だった。私はいつものように学校にいた。休み時間を終え、いつもの席に着いた時、新しい課題が配られた。その課題のテーマは働くという事についてだった。 その問いとは、”新入社員が会社で気をつけるべきことを選びなさい"というものだった。早速取り組み始めた。最初の項目、『他人のプライベートについてむやみに聞かない』そんなの当たり前だ。簡単じゃないか。私はそう思ってすぐにその課題を終え、鉛筆を置いた。課された時間はまだ残っていた。私は今日のお昼何食べ

          私の考え方を180度変えたとある問いの話