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多様な物差しを標準装備する

「ありえないでしょ〜〜、なんで!!」

これは私が実際ドイツに来てから口癖のようになってしまっている言葉だ。

例えば、ここ最近だとこんな出来事があった。

・荷物が届かない→連絡を取ってみるとどうやら不在だったらしい→だけど、不在届けは入ってない
・Amazonで買った物が届かない→問い合わせる→返答なし
・書類を手紙で送る→届いてないと言われ、やっぱメールで送ってと言われる→メールで送ったら今度はやっぱり手紙にしてくれ

こんな事が起こる度に毎回「ありえないよ」と口にしていている自分がいた。

でもある時この「ありえない」という5文字に引っかかって考えてみた。私が言っている「ありえない」の物差しは常に日本だ。ここはドイツなのに、、
なぜ、私はドイツにいるのにずっと日本の物差しで考えているのだろうか。所変われば品変わるという諺があるように、土地土地で前提が変わる、なんてことは大前提のはずだ。ましてや、人によってもそれぞれの当たり前があり、多様な価値観がある。それなのに、私はいつまで経っても日本の物差しで考え続け、その度にイライラしていた。

この現状を変えるために、まず考えたのは許容力を高めるという事だった。自分の当たり前(日本の当たり前)はここでは通用しないと受け止め、許容範囲を広げて行こうと思った。そしてそれを意識しながら過ごしてみた。

これで、ようやく物差しを替えれたと思っていた矢先、思いもよらぬ出来事が降りかかってきた。さすがに「ありえない」という言葉はもう言わないという勝負には勝った、だけどなんかモヤモヤした。許容したと思ったのにスッキリしなかった。
そして、ただ許容するだけの受け身では、足りないのではないかと考えた。

そこで気付いたのが、

許容力より共感力

という事だ。


当たり前かも知れないけど、何か事が起こってから受け止めようとするのには無理がある。受け止めるまでのプロセスが必要だ。そこで、逆の立場からその状況で起こり得るかもしれないであろう事を先に推測し想定しておく、認知的側面での共感力が必要なのではないかと考えた。
そうする事で、想定外の出来事なんてなくなるし、想定内の事に対してなら許容範囲に持っていく労力も減らすことが出来る。

人間関係でも同じことが言える。
相手の言動に思いを馳せ、理解しようと努力する共感力がなければ、相手を本当に理解する事は出来ない。

物事でもどうやらそうらしい。
起こり得る状況を推測し、理解しようと努力する共感力を持つことでしか上手く許容することは出来ないようだ。

多様な物差しを標準装備することで、心に余白を持って生きていきたい。

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