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私の考え方を180度変えたとある問いの話

それはある秋の終わり良く晴れた日だった。私はいつものように学校にいた。休み時間を終え、いつもの席に着いた時、新しい課題が配られた。その課題のテーマは働くという事についてだった。

その問いとは、”新入社員が会社で気をつけるべきことを選びなさい"というものだった。早速取り組み始めた。最初の項目、『他人のプライベートについてむやみに聞かない』そんなの当たり前だ。簡単じゃないか。私はそう思ってすぐにその課題を終え、鉛筆を置いた。課された時間はまだ残っていた。私は今日のお昼何食べようかな、なんて考えていた。(笑)

そして、解答と解説が始まった。私を驚かせた例の項目は、真ん中より少し下くらいにあった。その例の項目とは『イエスマンにならない』という事だった。えっ。ちょっと待ってよ。私はもちろんこの項目を選択していなかった。日本で今まで18年間育ってきた私にとって、これはまさに私の中の常識を大きく覆すものだった。私はこれまで社会に出て、仕事をした事はない。ただそんな私でも、もし日本で新入りの人が上の立場である人から言われたことに対して『はい。』と言わなかった時、どうなるかは十分想像が出来る。私は、訳が分からなくなった。そして、手を挙げ、もう一度これが本当に選択すべき正解かどうか先生に質問した。先生は私の驚き様に逆に驚いていた。他のみんなも続けて言った。『当たり前じゃないか』と。”はいという事”は日本で当たり前でも他の国では”いいえという事”が当たり前なのだという事を思い知らされた。

そして先生は、「もし、あなたが何でも”はい”と答えていたら、あなたは考えを持っていないと見なされ、周りから下に見られてしまう」と説明を付け加えた。私はそれを聞いて最もだと思った。そして、先生は笑いを交えて、「Amaiは何を食べてもいつも美味しいと言うよね?それは全部真実なの?」と。(これはあながち本音だ。嫌いな食べ物あんまりないんで笑)

私の先生は、これまで色んな国の人々を見てきてそれぞれの国の人柄を知っている。日本人はいつも”はい”と言うよね、と頭を下げる身振りをしながら私に言った。すると私がまた”はい”と言ったから先生はまた笑った。そしてさらにこう言った。だから、本当に考えてる事がなかなか掴みづらいと。それは確かにそうだ。思った事をはっきりと言わなければ何を考えているかなんて正直分からない。だが私もそんな一人だったのだ。

この日、私は、”いいえ”と言えることがどれだけの意味を成すのか、また自らの価値を他者に示すための行為であるという事も知った。帰ってまた考えた。サッカーに置き換えても全く同じだった。そして、私の中で、点として存在していた何かが、全て線で繋がった気がした。そんな秋の終わりの清々しい一日だった。

ドイツでは今、厳しい外出制限に伴い、公園は封鎖され、営業が許可されているのは、スーパー・薬局等の生きる為に必要最低のお店のみ。サッカーが中断されてまもなく3週間。まだまだ厳しい状態は続くだろう。そんな中で、今しか出来ない事に専念して行こうと思う。

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