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思いやりとは想像力である

私は今、夢があってドイツにいます。ドイツで生きるということは、ドイツ語が必要です。語学を習得する中で気付いたことがありました。それが「思いやりとは想像力である」ということです。ここは結構、色んな所に繋がる大切なことなのではないだろうかと感じているので、今日は文字にしようと思いました。

まず始めに、「海外に居れば勝手に言語なんて身につくでしょ?」なんて言われることがよくありますが、全くそんなことはありません。「必死に勉強する」に限ります。必死に勉強して生活に困らなくなっても、「発音」という面における課題は長くついて来るように思います。そんな中、そこで生まれ育ったわけではない国に行くと、どうしても発音がしにくい、難しい単語というものが存在します。そういった単語を前にしながらも、私は伝えなければなりません。この時、私はいつも「想像力」に助けられていると感じます。自分が会話している相手が、きっとこの人はこれのことを言っているのだろう、と「想像力」を働かせてくれているおかげで、自分の言葉が理解されます。ここで、自分が正しいから伝わっているのか、それとも相手の「想像力」に助けられているのか、という所はしっかり認識する必要があるんじゃないかと思います。

こうして、何も知らない、知り合いも一人も居ない国に、18歳になったその日にビザを取って夢を叶える為に、大学ではなくドイツに来ました。そんな中で、人の「想像力」という名の思いやりに触れながら、これまで沢山の人に出会い、助けられ、ロックダウンがほぼ一年に及ぼうとなお、この今も歩み続けることが出来ています。そんなある時、私がドイツで会話をする中で一番されたら嫌なことって何だろうと考えました。それは何かというと、何それ?と笑われ、発音を笑われることだと思います。でも実際、そんなことは一度たりとも言われたことはありません。みんなが私に寄り添い「想像力」を働かせてくれたのです。そこで、「想像力」があれば、人のことを思いやることができるのではないか、と感じました。私に「想像力」を働かせてくれたあの人は、果たして私のどこに「想像力」を働かせてくれたのだろうか?それは分からないけど、「想像力」という思いやりがそこにあったのは分かります。それに気付いてから、私は「想像力」を働かせて、相手に寄り添うことを大切にするようになりました。それと、想像もせずに何かものを言い、相手を傷付けることは絶対しないと決めました。そして、小さい頃にテレビで見た外国人の日本語への「いじり」が本当に面白いことだったのかどうかの答えも痛いほど分かりました。何の「想像力」も働かせずに、ただ面白いことだと笑っていることはとても恐ろしいことだなと思いました。少しの「想像力」があれば、こんな風に感じ方も少しずつ変わってくるんじゃないだろうか。少しの「想像力」があれば、隣にいる誰かにもっと優しくなれるんじゃないだろうか。

ドイツにいる私は、たまたま見た日本人である私の行動、態度がそのまま日本人としてのイメージになるという点で、そこそこ大きな影響力を持っていると考えています。「良い日本人を見せるのか」、「悪い日本人を見せるのか」それは、ほんの小さな私の行動で決まる可能性が大いにあります。何をもって良い日本人と思われるのかは分からない。だが、まず大事なのは「どうありたいか」というその姿勢なのではないかと思う。

自分が困った時に急に人に頼る自分ではなくて、日頃から「想像力」を働かせ、隣の人に寄り添える自分であろうと思う。

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