高橋 文

日々の出来事からの連想エッセイを書いています。

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最近の記事

人見知りの晩餐会②

そんなこんなで初対面のお嬢さんが我が家にやって来た。事の顛末はこちらを。 今年28歳、友人の彼女の姪っ子という、近いようで遠い初対面の彼女は、大変礼儀正しく愛らしい、息子の嫁にしたいような笑顔が太陽のように眩しい美人さんだった。息子いないけど。 初対面の人と対峙するとき、私は自動で仕事モード(セーフモード)に切り替わる。このセーフモード発動状態の私を、かれこれ25年ほど見ていない助っ人は、私の横で知らんぷりをしてくれている。この自分のセーフモードの当たり障りの無さは、「敵

    • 人見知りの晩餐会①

      ひと月ほど前に、私のスマホにメルボルンの友人からメッセージが届いた。内容を読んで、そして一旦そっと閉じた。 「やあ元気?来月、僕のパートナーの姪っ子が東京に行くんだけど会ってやってくれないかな」 なお、私は仕事では上手くやれていると思うが実際には結構人見知りである。 友人は続ける。 「君も忙しいだろうし、無理はしないで。でも彼女はとてもいい子で、東京で君みたいなプロフェッショナルな女性と会うことは彼女にとって素晴らしい経験になると思うんだ、本当に義務に感じる必要はないか

      • 素敵な病

        昨晩、歌舞伎好きの友人と片岡仁左衛門、坂東玉三郎を目当てに四月大歌舞伎を訪れた。舞台は本当に素晴らしく、帰り道に昂る気持ちを共有したくて居酒屋で日本酒でもどうかという話になった。この友人は何かを好きになると、そこにお金も時間も情熱も惜しまずかけていく。数年前に私を歌舞伎に連れ出してくれたのはそんな彼女の草の根活動でもあったのかも知れないが、何かと趣味の合う彼女がいいと言うならば、と私も全幅の信頼を寄せて喜んで誘われる。 彼女の話は面白い。 ただ好きなことを捲し立てているだけ

        • 人が桜に熱狂するのは

          今年は昨年に比べて桜の開花が遅かった。暖冬だと言われた割には冬の終わりは長く、冷え込んでいたため、春が待ち遠しい人も多かったに違いない。 私の家の近隣は桜並木があり、近年は老朽化で伐採が進んでいるものの、この季節は桜のトンネルが道ゆく人の目を楽しませている。いつもは道を急ぐ通勤中のサラリーマンも心なしか歩みが遅い。 先々週、桜シーズンの到来を見越して宴会の予定を入れていた知人は、きっと予定の再調整ができなかったのだろう、枯れ木の公園から悔し紛れに「枝見の会」とSNSに投

        人見知りの晩餐会②

          碑は忘れ去られ、歴史は繰り返す

          子どものころから痛みには強かった。膝を擦りむいては「あ、痛い」、指を切っては「あ、切った」と、割と冷静だったように思う。痛くないわけではなかったが、それがシグナルとして私の脳に十分な危機感を伝えなかったのだと思う。 大人になって頭痛持ちになっても、どうやら痛みの耐性レベルが高いらしい。頭が痛いからといって寝込むわけでもなく(二日酔い除く)市販の錠剤を飲んでおくと、大抵は30分かそこらでケロッとしている。我ながらお得な体質だと思う。 ところで皆さんは「エステ」と言ったら何を

          碑は忘れ去られ、歴史は繰り返す

          自炊輪廻から抜け出せない

          自炊が好きである。 冷蔵庫を開き、しんなりしてきた野菜やなかなか減らない調味料などをひっぱり出してきて「ふむ」と少しだけ考える。考えると言ってもどんなご馳走を作ろうか、どんなお酒を合わせようかという高尚なことは考えず、「今日は焼きたいのか、煮たいのか、蒸したいのか」「今日は塩なのか醤油なのか」程度の、今日の気分を自分にお伺いを立てる。 自炊が好きだからと言って料理が得意なわけではない。そして得意料理は何ですかという質問に対する答えは生憎持ち合わせていない。話は逸れるがその

          自炊輪廻から抜け出せない

          ぼくのわたしのドリームハウス

          数年で齢80歳を迎えるアラハチの母が、所謂「終活」に本腰をいれた。父が他界し、兄も私も独立してから猫と暮らす毎日は「(お父さんには悪いけど)今が1番幸せ」ということなので、母にはまだまだ人生を楽しんでもらいたいものだが、1人と1匹では広すぎる実家を処分する具体的な算段を始めている。 そんな中で我が家には頭の痛い問題がある。蔵書問題だ。 そこそこ本を読むほうであると自負している私さえ、全くもって敵わないほどの読書家の父と兄の希望により、実家には3畳ほどの書庫がある。ここには

          ぼくのわたしのドリームハウス

          無形骨董品へ愛を込めて

          先日のエッセイで祖母の話を書いた。鰻を食すアントワネットである。 そんな祖母は名前をギンと言った。名古屋のキンさんギンさんが人気を博して30年ほど経つが、我が祖母もかつてはたくさんの兄弟姉妹がおり、私が知るだけでも姉はキンさん、妹はスズさんだった。元祖キラキラネーム姉妹である(文字通り)。 キンさんギンさんとそう変わらぬ世代だから、このような名前もそれほど珍しくもなかったのだろうが、名付けた父親に「山師の娘じゃあるまいし!」と食ってかかったそうだ。気持ちはわかる。私だった

          無形骨董品へ愛を込めて

          鰻を食べなきゃ死んじゃうの

          今日は土用の丑の日でも、ましてや鰻を食べたわけでも何でもない。桃の節句だ。昨日、老いた母に会いに実家に帰り、取りとめのない話から今度鰻を食べに行こうという話になった。 大人になり多少の経済的なやりくりができるようになった私は、40歳を過ぎたあたりから主に夏のちょっとした贅沢として、毎年友人を誘ってはおいしいと評判の鰻屋へ足を運ぶ。そんな話を周りにすると、周りもそれなりのいい大人なので、わかるよという反応をもらう。我々も大人になったもんだねと誇らしい気持ちになるわけだ。鰻は大

          鰻を食べなきゃ死んじゃうの