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権力は、教育、なのか―アダム・スミス『国富論』④

 今回も私の個人的な記憶を書き連ねるところから始めたい。いや、そもそも『国富論』を肴に、自分のことを語っているとしていいと思う。スミス研究者でもなければ経済学史の専門家でもないのだから当然なのだけれども、他人の言説だけを語りまくったところで面白くもなんともない。だったらせいぜい自分のことを語るのだ。今の私にはそれしかできないのだし、それしかする気が起きない。幸いなことに私はプロのライターではないし、ライターになる気もない。プロになる、つまりカネを取るためには、相手への配慮が必要になってこよう。ときには自分の本意としないものも書かなければなるまい。私にはそんな胆力も、技術もない。だからこそ気楽にこうして書き散らしていけるのである。
 今回のテーマは、『国富論』の第5編の中の、いわゆる教育論と言われている箇所である。
 『国富論』を読みだしたばかりの時は、私も律儀というか、融通性がなかったというか、第1編の第1ページ目から読みだした。それでその途中まで来て一度挫折した。ややあって訳書を変えて、再度挑戦することに・・・・とこれも前回記したが、やはり第1編の途中、厳密には第1編第5章の、俗に価値論のところで躓(つまず)いた。
「・・・・訳書を変えても・・・・」
 第1編第5章の冒頭、スミスは「労働はすべての商品の交換価値の真の尺度である」[1]という有名な一節を記している。ところが読み進めていくと、「商品の価値がふつうはかられるのは、労働によってではない」[2]「あらゆる商品の交換価値は、・・・・貨幣の量によってはかられる場合がいっそう多い」[3]などと、理屈の通らない議論になって、私の頭は再びオーバーヒートを起こすのであった。
「わけわかんねえなあ」
    学史上有名な、支配労働価値説と投下労働価値説が、ごっちゃになった議論がここで展開されているからわからなくなるのであって、これについて今回は触れないでおく。私自身、いまだに手際よく説明できないのである。大学のゼミでも散々突っついたのだけれども、K教授は「これは今後の宿題にしておきましょう」とこれまた煮え切らない弁に逃げ込んでしまい、そのまま価値論については触れられないままになってしまった。おっと、述べたいのは価値論についてではないのに、ついつい脱線してしまった。読み通そうと思ってそのたびに躓いた『国富論』に、なぜ付き合っていけたのか、ということである。そりゃあゼミに入って『国富論』を読んだのだから、あたりまえだろう?・・・・と言ってしまえばそうなのだが、それでおしまいでは面白くないであろう。ゼミよりほんの少し前に、私なりに『国富論』に親しむ契機があったのである。
 『国富論』の、大河内一男監訳本(中公文庫)を買ったのは、大学2年の終わり、春休みに入った頃であったと思う。大学の図書館で借りていた岩波版の旧訳ではなく中公文庫版を手に入れたのは、本屋で数回度立ち読みした限りではこちらの方がはるかに読みやすいと感じたからではあったが、本腰入れて読み始めたら先の塩梅に立ち至って、さてこのままじゃせっかく買ったのにと、文庫版にして全3冊、それぞれの目次をめくっているうちにこんな文言が目に入った。
   「青少年教育のための施設の経費について」―以下、「青少年」と略―  『国富論』第5編第1章第3節、第2項の表題である。ん?教育?経済学の本で教育について述べるのか?いや経費って言ってるんだから経済学っぽいよな。でもわざわざ教育って書いてあるのは・・・・なんか面白そうだ、と「青少年」を、ほかの箇所は全部すっ飛ばしてまず読むことにした。
   『国富論』は各編、各章・節・項がつながりながらも、それぞれが独立した内容を持っている。[4]つまり、ほかの箇所を全く読んでおらず、かつそれらの箇所の内容がまるで頭に入っていなくても、読む人がやる気を出せばどうにか読めるのである。もちろん先に触れた価値論のところなどは、当時の―あるいは今でもだが―私はちんぷんかんぷんで読むのを放棄してしまったわけだが、価値論がちんぷんかんぷんであっても、「青少年」の項はちんぷんかんぷんにならずに済んだのである。いやそれどころか、めっぽう面白かったのだ。そういう意味で、『国富論』の内容構成は、私にとってはまことに幸いであった。訳書の訳文の読みやすさも与っていたわけだが。
  「青少年」は経費についてとうたっているが、メインとなるにはスミス流教育論であり、自身の教育論を補完すべく綴られる古代から現行―18世紀―に至るまでのヨーロッパ教育機関の歴史叙述である。これがのっけから辛辣である。ひたすら現行の―つまりスミスの活動拠点である18世紀イギリスの―大学を中心とした教育体制をコケにしまくる。その筆鋒の激しさは笑ってしまえるほどである。笑うなんて不謹慎なというなかれ。面白いのだから仕方ない。スミスという人は権威主義というか、ふんぞり返っている人間が、さらには過干渉な人間が、とにかく大嫌いであったのであろうなということが、『国富論』の中でもとりわけよくわかる。[5]
   『国富論』を読んだことがない人は、こんな内容の文章が収まっているのかと驚かれるのではなかろうか。しかしこれが、違和感なく収まっている。今日的な、紋切り型の、無味乾燥なおカネと数式の経済学書ではないのだ。あえて乱暴に言ってしまえば『国富論』とは、「国と国民の富の性質と原因の研究」という意味のタイトルではあるが、その実人間類型研究の書である。どんなタイプの人間がどう考え行動するかで国を、人間をまっとうにするのか、はたまたオカシクするのかを、全5編に分けてとうとうと述べている書なのである。中でも今回注目する「青少年」は、その人間類型を語る視点が、いっそう強調された物言いになっている。同時に、スミス流の文章作法がひときわ冴えているともいえる。まず議論の核心をずばりと切り取り提示し、次になぜそうなるのかを過去の事例、つまり古代ギリシャ・ローマ~中世ヨーロッパの史実を引用し例証することで、自説の説得力を高めていく。刮目させられるのが、その豊富な史実の引用である。「青少年」の項だけではない。『国富論』全編にわたって古代からの史実の引用を、スミスは積極的に行う。その引き出しの豊富さはおそるべきものがある。博覧強記を地で行くとはこのことであろう。スミス自身、自らの歴史叙述を相当に重視しかつ自信を持っていたことが、残された手紙からもうかがわれる。1772年9月3日付、ウィリアム・パルトニ宛の手紙の中では、まさに「青少年」の叙述の中に結実することになる「ヨーロッパのいくつかの主要な大学の制度と歴史について綿密に研究いたしました」[6]と述べているし、1783年5月22日付、ウィリアム・ストラハン―『国富論』の発行人であった―宛の手紙では、『国富論』の増補改訂に言及しつつ、「・・・・これらの増補にはグレイト・ブリテンの全商事会社の歴史―短いが完全なものになったとひそかに自負しております―が含まれています」[7]とも記している。というわけで、「青少年」の内容を見ていきたいが、あくまでも私のきわめて主観的かつ限定的な視点で行うことはご了承いただきたい。
  「青少年」の冒頭では、18世紀当時のヨーロッパの大学の多くは、国や民間問わず寄付によって運営が支えられていたと説明される。この寄付制度に、スミスはさっそく食いついて、こんな制度は大学の教育にプラスには働いてはいない、むしろ当事者たちを甘やかし、惰弱にするのだと主張する。

 「この公けの寄付財産は、一般に、教育施設の目的を達するのに貢献しただろうか。また、教師の精励をうながし、その能力を高めるのに貢献しただろうか。それによって、教育の進路は、当然たどっていったと思われる目標よりも、個人と公共両方にとって、もっと有用な目標に向かっただろうか。これらの問いのそれぞれに、少なくとも当らずといえども遠からずの答えを出すのは、そうむずかしいことではあるまい」

 「どんな職業でも、それをやっている大半の人々の場合には、努力せざるをえない必要に比例して努力するのがつねである。この必要は、財産をつくるにも、それどころか、日々の収入や暮しの糧(かて)を得るにも、かれらの職業の報酬だけを財源とする人々の場合に最大である。財産をつくるため、いや、暮しの糧を手に入れるためにさえ、かれらは、一年のうちに、一定の価値総額になるように、ある分量の仕事を仕上げなくてはならない。そして、競争が自由なところでは、だれもがお互いに相手を仕事から押しのけようと努めている競争者たちの対抗関係があるから、各人ともその仕事をある程度は正確に仕上げようと努力しないわけにゆかない・・・・」

 「学校や学寮の寄付財産は、どうしても、教師たちが精を出す必要を多かれ少なかれ減らしてしまうことになった。かれらの生計の資は、その俸給からくる分だけは、あきらかにかれらの特定の職業における成功や評判と全く無関係な基金(ファンド)から出ているからである」[8]

    当時の大学教師には、大学から出る俸給だけでは生活に事欠き、講義に出席した学生たちからの謝礼金を受け取って糊口をしのいでいた者が少なからずいた。謝礼金をより多くせしめるには、それだけ講義に趣向を凝らして学生から人気を集め、講義に一人でも多く出席させる必要があるわけである。現にスミスが奉職していたグラスゴー大学ではこの制度をとっていた。そういった必要に迫られることで講義の質は上がり、学問の質も高まり、教師の評判は高まる。歴史を見ても、例えばギリシャやローマの政府は教師たちには積極的な援助をせず、教師たちは教えの場を求めて諸国をさすらっていかねばならなかったが、その刻苦精励が今日―18世紀―なお語り伝えられるほどの高度な知性を人類に残すことになった、とスミスは語るのである。

  「大学のなかには、俸給が教師の報酬の一部分、しばしばわずかな部分にすぎず、その大半は、かれの生徒の謝礼金あるいは授業料から出ているのもいくつかある。精励の必要性は、つねに多少とも減りはするが、この場合には、全然なくなってしまうことはない。教師の職業上の評判は、かれにとって、なおいくらか重要であり、かれは、その授業を受けた人々の愛着、感謝、そしていい評判を、なおいくらかは気にする。そして、こうした好意的な感情を得るには、教師がそれにふさわしくすること、すなわち有能に、一所懸命に義務のすべてを果すこと以上の手はありそうにない」[9]

   「ギリシャでもローマでも・・・・この部分の教育―読み書き計算のこと(引用者)―は、各個人の両親か保護者の配慮にまったく委ねられていた。国が各個人の監督や指導を引き受けるといったことは全然なかったと思われる」[10]

   「文明が進んで哲学と修辞学が流行するようになると、上流の人々は子供を哲学者や修辞学者の学校に通わせて、これら流行の学問を教えてもらうのが普通になった。それでも、これらの学校は、なんら国の援助を受けなかったのみか、ただ久しく黙認されているだけであった。・・・・いずれの学問でも、その最初の専門教師は、どこか一つの都市では長続きのする職を見つけることができないで、転々と渡り歩かざるをえなかったくらいである。・・・・需要がふえてくると、哲学の学校も修辞学の学校も、最初はアテネに、後にはその他いくつかの都市に定着するにいたった。それでも国家は、それら学校のいくつかに、教えるための決まった場所をあてがうこと以上には奨励もしなかったようで、場所の提供は、ときに個人の寄贈者がやることもあった。・・・・ほぼマルクス・アントニヌスの時代までは、国から俸給をもらったり、学生たちの謝礼金または授業料からあがるもの以外に、なにかの報酬を受けたりする教師は一人もいなかったらしい。・・・・教師には教え子にたいするなんらの管轄権もなかったし、若者の教育の一端をまかされている人々が、徳と才能に秀でておりさえすれば、かならず若者からかちうるはずの自然の権威以外には、なんの権威ももたなかったのである」[11]

    「ギリシャ人とローマ人の市民としての能力も、また軍人としての能力も、どの近代国民の能力に比べてさえ、少なくともそれに匹敵するものだったことは、たやすく認められるだろう。・・・・ところが、軍事教練にかんすること以外では、国家が、これらの偉大な能力をつくり上げようと骨を折ったとは思えない。・・・・これら国民の上流の人々にとって、それぞれの社会の状況からして、習っておくことが必要となり、あるいは好都合となった学術技芸ならどの分野においても、かれらを指導してくれる教師は見つかったらしい。こういう指導にたいする需要は、需要がいつも生み出すもの、つまり、ここでは指導する才能を生んだのであって、さらにその才能は、無制限な競争が、かならずやかき立てずにはやまない対抗意識によって、最高度に押し上げられたものと見える。古代の哲学者たちは、かれらが世人のあいだに呼び起こした注目において、その聴講者の意見や考え方に及ぼした絶対的な支配において、はたまた、それら聴講者の行動や話し方に一定の気品と特徴を与えるその能力において、近代のいかなる教師よりもはるかに優れていたように思われる」[12]

    ところが、謝礼金の類が禁止となっている大学では、教師たちは職務怠慢に陥る傾向が非常に強いという。「だれだって、できるだけのんきに暮す方が得である」し、「できるかぎり、身を入れず、お粗末なやり方ですませることになる」[13]
    当時のイギリスの大学で全寮制をとっているところでは[14]、その寮は学生側の方で選ぶことができず、大学側から強制的にお前はここに入れと決められていた。スミスは学生各人の選択の自由に任せないからこそ、現今(18世紀)の(大学)教育事情の沈滞~退廃が起こるのだとかみつく。しかもどこの大学が悪いのか具体的にその所在地まで出してくるのだからきつい。ここから先はスミス自らに語ってもらおう。私の物言いなんかよりもスミス自身の言葉を引用する方が、よっぽど説得力がある。

   「もし教師の服する権威が、かれ自身そのメンバーである団体、すなわち学寮または大学にあり、かつ、そこでは他のメンバーの大半も、かれ同様、教師であるか、あるいは教師たるべき人々であるならば、かれらは共同戦線を張って、あいみ互いにすこぶる寛大であろうとし、だれもが、自分の義務をなおざりにしても、とがめられないという条件のもとに、仲間がなおざりにしても、それを黙過しているらしい。オックスフォードの大学では、正教授の大半は、ここ多年にわたり、教えるふりをすることさえ、すっかりやめてしまっている。
   
   「もしも教師の服する権威が、かれもそのメンバーである団体にあるより、むしろ外部の第三者、たとえば、その司教管区の司教、その州の知事、もしかすると文部大臣にあるならば、この場合、かれが義務をまったくなおざりにすることを容赦してもらえることは、とてもありそうにない。しかし、そうした上位の者が、かれに強制して行わせうることは、たかだか一定時間教師につき合うこと、つまり一週なり一年なりのうちに、一定回数の講義をすることでしかない。そうした講義がどんなものになるかは、いぜんとしてその教師の勉励しだいたらざるをえないし、またこの勉励の度合は、通例かれが勉励しようとするその動機の強さに比例する。そのうえ、この種の外部からの管轄権は、えてして、わかりもせずに気まぐれに行使されがちである。それは、その本質からして恣意(しい)的、専断的であるうえ、管轄する当人は、みずから教師の講義に出席するでもなく、また教師にとっては、それを教えるのが仕事の学問についても、おそらくわかっていないのだから、まともな判断に立って管轄権を行使することなど、まずできない。職権をかけた横柄さも手伝って、連中は、どのように管轄権を行使するかについて、しばしば無関心であり、そして気まぐれに、また、何ら正当な理由もなしに、教師の職務について非難したり、その職務を奪ったりする傾向がおそろしく強い。こんな管轄権に服している人物は、そのために必然的に堕落させられ、ついに、社会でもっとも尊敬すべき人間の一人であるはずなのに、もっとも卑しく軽蔑(けいべつ)すべき人間の一人になってしまう。たとえば、教師が四六時中身をさらしている、ひどいあしらいから有効に自分を守れるのは、有力な保護によってのみであるが、かれがこうした保護をもっとも安直に手に入れるには、かれの本職での能力や勉励ではなしに、かれの上位の者の意向におもねること、そしてその意を迎えて、かれがそのメンバーたる団体の権利も利益も名誉も犠牲に供しようと、いつも待ちかまえていることが第一なのである。フランスの大学の運営に、かなりのあいだ携わったことのある者ならだれでも、このたぐいの恣意的な外部からの管轄が、おのずからもたらす結果にきづいたことがあるにちがいない。

  「教師の値打や評判と関連させずに、学寮または大学に一定数の学生を押し込むのは、すべて多かれ少なかれ、教師の値打や評判の必要度を低める傾向がある。人文諸学、法学、医学、神学における大学卒業者の諸特権が、ある大学に何年間か在籍するだけでもらえる場合には、教師の値打や評判とは関連なしに、必然的に、ある数の学生をそういう大学に押し込むことになる。大学卒業者の諸特権は、徒弟条例のごときものであって、それが教育の進歩に貢献してきたというのなら、かの徒弟条例も、ちょうどこれと同じくらい、技術や製造業の進歩に貢献してきたということになる。

 「研究費、奨学金、給費などの事前的な基金は、必ず一定数の学生を、一定の学寮に、それら特定の学寮の値打ちとは全然関係もなしに縛(しば)りつける。もし、そうした事前的な基金をもらっている学生が、もっとも好きなどの学寮を選んでも自由だということになれば、おそらくそれぞれの学寮のあいだに、ある程度の競争をひき起すのに役立ったであろう。これと逆に、各学寮の自費学生でさえ、まず退学しようとする学寮に許可を求めてそれが認められぬかぎり、その学寮を離れてどこか他の学寮に行くことを禁ずるという規則は、この競争を絶滅させる傾向が著しく強い」[15]

    スミスの教育批判は、ここで終わりはしない。次に大学寮に常駐しているチューター、つまり各寮の学生監督官兼教師をやり玉に挙げる。

  「もし各学寮で指導私教師(チューター)、つまり個々の学生にすべての人文諸学を指導することになっている教師を、その学生のほうでだれにつくかを自由に選ぶのではなく、学寮の長のほうから割り当ててくることになっており、また、もしその指導私教師に怠慢、無能あるいは不適当な取扱いがあったときにも、学生はその指導私教師から他の指導私教師に代ってつくのを、まず許可を求めてそれが認められぬかぎり許されていないことになっているとすれば、こういう規則は、同じ学寮のなかのそれぞれの指導私教師間のいっさいの競争を絶滅する傾向が恐ろしく強いだけでなく、かれら全員にわたって、勉励する必要と各自受持の生徒に気を配る必要とをおおいに減ずる傾向があろう。こういう教師は、かれらの学生たちからたっぷり報酬を取っているけれども、学生から全然報酬を取らないか、あるいは俸給以外にはなんの報酬もない者と同じように、学生たちをなおざりにする気持にさせられるだろう」[16]

    まともな教師なら、自分の教える内容を学生がどうとらえているのか、多少なりとも気になるであろう、学生がその講義を馬鹿にしてまともに聞こうとしないのを見せつけられたら、自分でも気分が悪いであろう。だから「聞くに耐えるくらいの講義をするために苦労しようとういう気持になるだろう」[17]だが実際のところは、下手に権力を得てしまっている教師はその座に胡坐(あぐら)をかいて、まるっきり勤労意訳が失せてしまっている。そのうえ、「学寮の校規があるから、かれは、生徒全員を強制して、こんないい加減な講義でも欠かさず出席させ、また講義の始めから終りまで、最高に行儀よく、うやうやしい態度をたもつようにさせておくことができる」[18]とまで、スミスは言い切ったあと、ついには、次のような非難の言葉を浴びせることまでやってのける。

  「学寮や大学の校規は、総じて、学生の便益のためにではなしに、教師の利益のため、もっと端的に言ってしまえば、教師の安逸のためになるようにできている。その目的は、どんな場合にも教師の威厳を維持し、そして教師がその義務を怠ろうがやりとげようが、学生の側はどんな場合にも、教師があたかもその義務を最大の勉励と能力でもってやってのけたかのように、教師にたいしてふるまうことを強(し)いることにある。校規は、教師という階層は完璧(かんぺき)な知と徳をもっているのに、学生という階層は最低に欠陥だらけで愚かだという前提に立っているかのようだ」[19]

    当時、スミスの名はヨーロッパじゅうにその名をとどろかせていたのだから、SNSがあったら、大騒ぎになったであろう。道端でぶん殴られていたかもしれぬ。いや実際のところはどうだったのであろうか。スミスさんの身辺は大丈夫だったのであろうか。一応襲われた記録は残っていないようだが。[20]スミスにこうまで学校教育への不信の念を表出させたのは、青年期のオックスフォード大学留学の経験が影を落としているのはよく知られたところである。[21]
    17歳でスミスは、故郷スコットランドのグラスゴー大学から給付金をもらってオックスフォード大学への留学を果たすが、当時のオックスフォード大学は沈滞の極みにあり、グラスゴー大学時代の清新溌剌とは正反対の状況にあった。スミス自身、後見人であった従兄のウィリアム・スミス宛の手紙で、「ここでのわれわれの勤めは、一日に二度、礼拝に出席し、一週に二度、講義を受けることだけです」[22]と記している。しかも当時は、まだスコットランドがイギリス本国と合邦―1707年―して半世紀とたっていないということもあり、スコットランドの人間は公然と田舎者扱いされ、オックスフォード大学でもスコットランド出身の学生は差別待遇に悩まされたとされている。スミス自身、オックスフォードで心的ストレスにさいなまれていたことを示すように、自らの体調の不調を一度ならず、故郷の母に手紙で知らせている。[23]結局スミスは6年間オックスフォードに滞在するも、中途で―伝記などにはそう書かれている[24]―故郷に戻っている。解せないのは、グラスゴー大学で充実した学生生活を送っていたのに、なぜわざわざオックスフォードに留学したのであろうかということである。たしかに田舎者扱いされていたスコットランドの大学にとどまっているよりは、オックスフォードに行った方がハクが付くという思いはあったろうけれども。いずれにせよ、スミスにとって学校時代の後半、オックスフォード時代は文字通り暗黒とするべき時であって、それが『国富論』での記述に連なっていったというところなのであろう。
    ここで再び、私自らの古い記憶を語ることを許されたい。大学3年を迎え、イギリス経済学史専攻のK教授のゼミに入るころにはすでに『国富論』の訳本は手に入れていたのだが、私がゼミとは別に個人で繰り返し読んでいたのは、「青少年」の箇所ばかりであった。なぜここばかり読み返すのか、漠然としか自分でもその理由がわからなかった。もし当時、なぜかと聞かれたとしたら、読んでいて楽しいからとしか答えられなかったであろう。だが年月が経ち、次第に、スミスのこの言説に引き込まれたのは、私自身の学校時代の記憶とかかわらせるようになったからであったことがはっきりと認識されるようになった。スミスの時代も俺の時代も、イギリスと日本の違いはあれ、変わらねえよなあ、と。
 私の学校時代、小学校から大学に至るまで、教師と名の付く連中の大半は、生産的と言いうる学問を、ほぼ授けようとしなかった。彼らが積極的にやったことは、生徒をいかにして服従させ、歯向かおうものなら弾圧し骨抜きにすること、それでも従順にならぬ奴は学校から放り出すことであった。私自身が怠惰で病弱であったことも原因としてあるのだが、当時学校で学んだことは、ほぼ全く覚えていない。真っ先に思い出すのはひたすらハラスメントを受けたこと―教師はもちろん、机を並べていた他の生徒連中からも―、である。楽しいことうれしいことは、思い出そうと思っても思い出すことができない。ただ一人、小学校4年の時の担任は心優しい人であったけれど、わずか1年でその人が担任から外されてしまったのは、ずっとのちになって時の校長など上役の連中から不興を買っていたからであったと風の便りに聞いた。いじめに加担した生徒をさんざん説教して泣かせ、それが行き過ぎ行為だとされたからだと。6歳で小学校に上がって、22歳で大学を出たのだからその間16年間の学校生活でわが身になったものはなんであったのか。断言しうるのは、私自身が画一的集団生活にまるっきりといっていいほど適応できなかったこと、学校で無理やり詰め込まれる学問と称されるものはほぼ―100パーセントすべてではないが―無価値であったことを、そして学校教師と称する人間にほぼ―これも100パーセントすべてではないが―、ろくな奴がいなかった、これらをとことん思い知ったということである。この、潤いの欠片(かけら)すら感じ取れずにいた自らの学校生活に鬱々としつつ、ほぼ250年前のイギリスで、同じような(?)思いを抱きながら若き日のスミスも過ごしていたのかと、共感を抱いていたのである。だからこそ、「青少年」のくだりを、何度も読み返していたのである。もちろんスミスと私とではその生涯は比すべくもないのだが。
 「青少年」に戻ると、もうひとつ際立つ記述がスミスの、若者への全幅の信頼である。教育関係者への不信の強さとは正反対というべきその物言いは、記述は短いが強い印象を読者に残すとともに、いささか奇異ともとれる。

 「しかし、教師がほんとうにその義務を果たしている場合には、学生の大半が、いやしくもかれらの義務を怠るなどという例はない、と私は信じている。真に出席するに値する講義ならば、そういう講義の行なわれているところでは、どこでもよく知られているとおり、出席を強制する校規などおよそ必要がない」[25]

  もちろん、まだものの分別のつかない幼少年期にある者には、大人の手引きが必要になるであろう。学問や日常の基礎となる読み書き計算は、それこそ強制的に習わせねばならないであろう。[26]つまり完全放任ではないのであって、その辺りはスミス、イコール、自由放任主義者ではないことを、じゅうぶん認識しなければならない。それを踏まえて、さらにスミスは若者への評価を、こう記す。

  「けれども、十二、三歳をすぎれば、教師がその義務を果しているかぎり、強制とか拘束とかは、教育のどの段階を行なってゆくのにも、その必要はまずありえない。若い者の大部分は、とても寛大なもので、教師の指導を無視したり、軽蔑したりする気になるどころか、教師の側でかれらの役にたとうという、まじめな意図を示しさえすれば、教師がその義務を果すうえで、いろいろまちがっても大目に見るし、時には、えらく怠慢なことをしても、世間には知られないように、かばおうとさえする気になるのが普通なのである」[27]

  これは、過度な干渉を行う当時のイギリスなどヨーロッパ各国の重商主義経済政策への批判と共通する視座を提供するものでもある。そういった点では、スミスのあるべき主張は首尾一貫している。[28]
 スミスの若者への信頼、その根拠はなんであったのか。文芸~産業の新興地として清新の気に満ち、若き才能が続々と登場していたスコットランドの中に自身が生まれ成長したからか。たしかにそれもあろう。[29]だが、根本的にはスミス自身の人となりが若者から愛され、またスミスも若者を愛したからではなかったか。少なくとも「人生の終わりに近づきながらスミスは若者に興味を持った」[30]わけではなかったことは、グラスゴー大学教授としての活動[31]、その後のバックルー侯爵付き添いの教師としてヨーロッパを旅したことからも明らかである。
 『書簡集』に収録された若い世代への手紙は、その数こそ少ないけれども、スミスの相手への気遣いがにじみ出ていて美しいものがある。生前著作を二作しか残さず、死の直前に草稿類をすべて焼却処分してしまい、そのうえ本人が認めているように筆不精であったから、こうしたスミスの体温を感じさせる手紙はいっそう貴重でもある。とりわけ1790年1月21日付、スミス家の養子であり相続人となるデヴィッド・ダグラス宛の手紙には引き込まれる。

 「もっとも親愛なるデイヴィッドへ
 手紙を書くのがこんなにも遅くなってしまい、何度でもお詫びします。    君への配慮や愛情が少しも薄れたわけではないことは十分に理解していただいているものと思います。このところ頭の揺れが次第に増えてきて、字を書くのがますます不便になってきたのです。君の試験日は、おそらく五月の何日かになることでしょう。聞くところによると、民事控訴院の会議の日程を六月十二日から五月十二日あたりに変更するという新たな議案が提出されているからです。君を負かすような者は誰もいないと思いますので、安心していて大丈夫でしょう(中略)。
 ギリシャ語がどの程度進展しているか聞きたいものです。おそらく今時分は『オデュッセイア』もずいぶんと進んでいるものと思います」[32]

 その死を半年に控え、体の衰弱も激しくなってきたのであろう、字を書くこともままならない状態で、従兄弟の末っ子であったデヴィッド・ダグラスに対し、じきに迎える試験―『書簡集の注によると、弁護士試験であったらしい―は問題なくパスするだろうと励ますところには静かな感動を与えるとともに、ギリシャ語の勉強の進捗具合にも気配りをみせつつオデュッセイアも、と記すことで、勉強怠けるなよ、うかうかしてられないぜと、さりげなくはっぱをかけるのも巧みである。グラスゴー大学に勤めていた時代から、こんな風に若者たちと交流し、なにくれとなく励ましていたのであろうスミスはよき教師、よきメンターであったのであろうと思う。
 ここで再び、私は我が身とスミスとを引き比べる。私には、スミスのような師と呼べる人物に出会うことはなかった。いや得ようと努力したことはなかった。大学時代に最も世話になったK教授は師と呼べるような存在ではなかった。K教授とはあくまでも学校内での、学問上の交流に終始し、それ以上の仲には進展しなかった。幼少期より、学校内や家庭でのハラスメント、情義に欠ける人間関係にどっぷりつかってきた私には、師と弟子のような濃密なそれを受け入れることへの生理的嫌悪があった。K教授も学生たちとの密な交流を嫌っていることはその態度から、私にはわかっていた。教授も私も、クールでドライな人間関係を希求した。だからこそ、私はK教授と4年間付き合うことができたともいえるであろう。
 だが、50代も後半になった今、虚心に教えを請い、虚心に教えを受け取る相手を得てこなかったことによる、自らの知的営為における陥穽を、ようやく認めつつある。今日までことあるごとに私はいつも、対象への懐疑と不信の念を拭い去ることができなかった。それは一方では手痛く深刻な損害とダメージを受けることから回避しうることになったが、もう一方では対象を十分に咀嚼し理解し、かつ愛惜する心を奪った。私のこれまで手に入れてきた知が極めて浅く薄っぺらであったのも、こうした心のありようが深く影を落としていることは間違いないであろう。しかし悔いても遅い。老鬱を強く意識することになった私は、改めたくても改めるだけの胆力も、柔らかき潤いも、すでに失ってしまっているからである。
 ないものねだり。そうなのだ。優れた教師としてのアダム・スミスを確認しようとすること、それは私が手に入れることのなかった、できなかった師の存在への、多分にねじ曲がった叶うことのない憧憬なのだ。
 スミスの教育論への言説を読み直すこと。スミスの教師としての足跡をたどること。それは共感であるとともに、ないものねだりでもあるのだ。一種情けなくも不生産的行為なのであろうけれども、そういう行為をするのをしみじみ楽しんでいる私がいる。このざまをスミスが見たら、自ら定立した公平な観察者の概念に従って、定めし見苦しいと嘲笑するかもしれない。そうだとしてもかまわないじゃないか。こんな思いを抱いたって、人様に危害を加えているわけではない。私のこの雑文が不快なら、画面をさっさと閉じれば済むだけのことである・・・・と開き直りつつ、最後に「青少年」の中で私がケチをつけたい箇所を挙げておきたい。ひとつは当時イギリス上流階級でブームになっていたという留学[33]にまつわる一説である。例によってここでもスミスは毒舌をぶちかましてくれるが、文句を言う前に、スミス自身の言葉を聞いてみよう。

 「イングランドでは、若者が学校を出ると、どこの大学にも上げず、すぐ外国漫遊に出すことが日に日に習慣となりつつある。わが国の若者たちは、総じて、この外遊でおおいに進歩して帰ってくる、と言われている。十七か十八で外国に出かけ二十一歳で帰ってくる若者は、初め外国に出た時よりは三つ四つ年を取って戻るわけだが、この年頃では、三年か四年のあいだに、かなりの進歩をしないほうが、むしろむずかしい。その旅行中に、たいていの場合、若者はひとつふたつの外国語が、いくらかわかるようになる。とはいうものの、わかるといっても、それらの外国語を正しく話せたり書けたりするところまでゆくことはめったにない。その他の点では、かれはうぬぼれが強くなり、無節操な放蕩者になり、学問にも、あるいは実務にも、まじめに打ち込めなくなって帰ってくるのが通例で、その程度たるや、もし故国で暮していたら、こんな短期間に、とてもああはなれまいというほどである。そんな若さで旅に出るのに、しかも両親や親類の眼も届かず監督できない遠方で、人生の一番貴重な歳月をもっとも下らない放蕩に費やしてしまうために、それ以前の教育で身につきかけていたはずの有用な習慣は、つき固められ揺るがぬものなるどころか、どれもこれも、まずまちがいなく弱められるか、拭い去られるかしてしまう。人生のこの早い時期に外遊するというような、はなはだ馬鹿げた慣習が、これほど好評をもって迎えられたのは、とりもなおさず、大学がみずから甘んじて落ち込んだ不信用を措いてほかにない。息子を外国にやっておけば、父親は、職もなく、ひとからも相手にされず、自分の眼の前で破滅してゆく息子などという、なんともやり切れぬしろものを、少なくともしばらくのあいだ見ずにすむということなのである」[34]
 
    なんだか日本でも見慣れたような光景がイメージされるという向きもあるかもしれぬが、私がケチをつけたいのは別の観点からである。
 それはスミス自身の、おのが立場を顧みない物言いである。先にも少し触れたが、1764年、スミスはグラスゴー大学を辞し、バックルー家侯爵の付き添い家庭講師としてヨーロッパへ2年にわたる旅に出ている。スミスにとっては『国富論』彫刻のために極めて有益な旅になったことはあまねく知られているが、それなのにこんな書き方をされては、バックルー家の立つ瀬がないではないか。『国富論』が公刊されたとき、バックルー家の面々は、さぞかし気分を害したのではなかったか。よく訴えられなかったものである。『国富論』を読んでいくと、人の情義を無視したと思える文言にときとしてぶつかる。よく知られているのは第5編第1章において、民間人からなる民兵よりも、国が雇う専門の軍人からなる常備軍の方が優れていることを力説したことをめぐってのエピソードである。当時スコットランドでは民間人による自警団であるポーカー・クラブが結成されるほど、民間人による自治意識は高かった。実際スミス自身も、このポーカー・クラブの会員であったほどである。それなのに『国富論』ではこれと真っ向から反する議論を展開したとして、クラブの会員たちから顰蹙を買ったらしい。[35]スミスとすれば、情義よりも自らの社会科学的知見に裏打ちされた冷徹な視座を、著書においては何よりも優先させたかったのであろう。著者としては至極真っ当なことではある、と思いつつ、どうにも釈然としないのは、私が甘ちゃんであるからであろう・・・・とせんないことではあるのだが。
 もうひとつが、スミスは初等教育には、各教区や地区ごとに国が初等学校を建てて、職員も斡旋してやる、ただし給料はそのごく一部だけを支給してやればよい(足りなければ各人が独自に努力するに任せればよい)、学童には勉強をやる気にさせるために褒賞金やバッジを授けて顕彰させるがよい、当該学業を終え就職し、さらにはその職業のリーダー格を目指す者には資格試験を強制させよ、などの政策提言を行っているのに[36]、初等教育を終えてからの中~高等教育に関しては、過干渉への批判は強調するも、具体的な処方箋を講じていないことである。それこそ過干渉になるからあえてしないのさ、というスミスの声が聞こえてきそうだが、あそこまで大学教育を罵倒してきたのだから、じゃあスミスさんの大学教育改革案を聞かせてくれないとけじめがつかないじゃないかと、こちらは言いたくなるが・・・・まあこれもせんないことか。自身は優秀な教師であり、また大学行政者としても確かな足跡を残したスミスが、イギリスの大学問題を深刻なものとして認識していたことは『書簡集』が証明しているが[37]、彼の大学関係者としての足跡は、あくまでもミクロ的な―グラスゴー大学に収斂した―それであり、パースペクティブにおいてもその域を脱するものではなかったように思える。マクロ的な視点に立っての大学論~大学改革論は、ついにスミスの中で醸成されえなかったとすべきではないか。『書簡集』に示されているスミスの言説から判断するしかないのではあるが。その視点の狭窄は、『国富論』が諸国(民)の富とうたっていながらその視点は常にヨーロッパ、特にイギリスのみに向いていることと、どこか共通するものがある。[38] いや、おそらくスミスは自身が生きているうちに、眼前の教育問題は解決しないと思っていたのではあるまいか。何しろ自身が語る内容は、「この国にオシアナあるいはユトーピアが将来建設されるのを期待するような夢想に近い」[39]ことであり、「人間には自尊心があるので、威張ることが好きである。したがって、目下の者を説得するために自分が下手に出なければならないということほど、人に屈辱感を与えるものはない」[40]とまで思ってしまうのが人間なのであるから、まともな教育体制など敷くことはあるまい、と。
 さて、長々と書き連ねてしまった。こんな雑文など薬にもならぬと、ほとんどの人からはそっぽを向かれるであろう。いや、偉そうにふんぞり返っていやがると嫌悪を向けられるかもしれない。それでもあと10年、30年、50年とnoteの中を漂っているうちに、ひょっとしたら、暇つぶしに面白おかしく読めるわいと評価する人が出てこないとも限らない。案外これがきっかけになって『国富論』の読者が若干でも増えるかもしれない。そう思うと、ちょっと楽しくもある。



[1] アダム・スミス、大河内一男監訳『国富論』Ⅰ、中公文庫、1978年、52ページ。本稿では、前回取り上げた他の訳書はあえて引用しなかった。煩雑になるからというのが一番の理由だが、訳語の不統一からくる誤解・誤読を恐れたところもある。

[2] スミス、前掲書Ⅰ、55ページ。

[3] スミス、前掲書Ⅰ、56ページ。

[4] スミスの『国富論』にさかのぼること9年、1767年に公刊された最初の体系的な経済学の書とされるジェイムス・ステュアートの『経済の原理』―以下、『原理』と略—は、『国富論』とは対照的に螺旋階段のごとき構造になっている。つまり一番最初から順を追って読み、理解していかないと、途中から読むとまるで内容が理解できないのである―これは前回の拙稿でも記したことだが今回、スミスが「国富論」の各章を独立して読めるように塩梅したのは、さらには読者にできるだけ理解させようと意識して執筆した―スミスは再三読者に、理解してもらうように努めたいと記している―のは、こうした方がよりとっつきやすくなるから、つまり『原理』より「国富論」の方に人気が集まるであろうからという、ステュアートへの対抗心からであったのかもしれない、ということを付け加えておきたい。もちろんこれは私の勝手な推測である。ただ、『国富論』が『原理』を超えるべく執筆されたのは事実である。スミスのこの意図を裏書きする手紙が残されている。「ジェイムス・ステュアート卿の本については、わたしは貴兄と同意見です。その著作には一度も言及することなく、同書中の誤った原理は、わたしの著作ですべてはっきりとした明瞭な論駁に見舞われることになると自認しております」(田中秀夫+坂本達哉 監修『イギリス思想家書簡集 アダム・スミス』―以下、『書簡集』と略—、名古屋大学出版会、2022年、136ページ)

[5] 必要以上の干渉はしない、イコール、自由放任ではないのはもちろんである。その辺りを、スミスの思想をうんぬんするとき誤解する向きがいまだにある。

[6] 『書簡集』、140ページ。

[7] 『書簡集』、148ページ。この「完全な歴史」は、『国富論』第5編第1章第1項中の、「商業の特定部門を助成するために必要な公共事業および公共事業について」において展開されることになる。

[8] スミス、前掲書Ⅲ、110-112ページ。

[9] スミス、前掲書Ⅲ、112ページ。

[10] スミス、前掲者Ⅲ、136ページ。

[11] スミス、前掲書Ⅲ、136-137ページ。

[12] スミス、前掲書Ⅲ、139-140ページ。

[13] スミス、前掲書Ⅲ、112-113ページ。

[14] スミスの通ったグラスゴー大学では、全寮制は取らなかった(アダム・スミス、水田洋監訳/杉山忠平訳『国富論』、岩波書店、2000年、17ページ註(1)、参照)。

[15] スミス、前掲書Ⅲ、112-116ページ。

[16] スミス、前掲書Ⅲ、116-117ページ。

[17] スミス、前掲書Ⅲ、118ページ。

[18] 同上。

[19] スミス、前掲書Ⅲ、118-119ページ。

[20] スミスのバイオグラフとしては、以下の著作を参照。ナガイ・ケイ『新人類のアダム・スミス』、富士書房、1988年。I.S.ロス、篠原久/只腰親和訳『アダム・スミス伝』、シュプリンガー・フェアラーク東京、2000年。ニコラス・フィリップソン、永井大輔訳『アダム・スミスとその時代』、白水社、2014年。

[21] ただ、オックスフォード時代のスミスの具体的なエピソードとしては、スミス自身の書簡に記されたこと(『書簡集』、参照)と、スミスがデヴィッド・ヒュームの『人生論』を読んでいたところ、それは危険思想の書だとして没収・叱責された以外にはこれといって伝わってこない。自身のプライベートを隠匿したがる性癖があることをニコラス・フィリップソンは先の評伝で強調しようとしているが、その視点はともかくとして、スミスにとってのオックスフォード時代は悪しき過去として自身は思い出したくなかったし触れられたくもなかったからほぼ記録されなかった、とするのが妥当な解釈ではなかろうか。

[22] 『書簡集』、3ページ。

[23] 前掲書、6ページ、参照。

[24] オックスフォード大での留学満期は何年であったのかはわからない。

[25] スミス、前掲書Ⅲ、119ページ。

[26] スミス、前掲書Ⅲ、119,146-150ページ、参照。

[27] スミス、前掲書Ⅲ、119ページ。

[28] 『国富論』の内容全体を俯瞰してみるなら、幼弱期にある国―後進国―の経済はいかにすべきかということについてのスミスの視座は、きわめて弱いことに気づかされる。ことに第1編第8章における中国やインドへの淡白に過ぎる叙述に、それが露骨に示されている(スミス、前掲書Ⅰ、121-124ページ、参照)。『国富論』で主に展開されるのはスミス自身がただなかにいた、成長期にあった―つまり青年期に差し掛かった―グレート・ブリテン(イギリス)の経済への処方箋であったわけで、スミスの関心の中心はあくまでも自らの故国であるグレート・ブリテンであったのである。この点を、後年フリードリッヒ・リストーリストの故国ドイツは資本主義国としてグレート・ブリテンに比してあきらかに幼弱国すなわち後進国であった―から激しく攻撃されることになる。リスト、小林昇訳『経済学の国民的体系』、」岩波書店、1970年、参照。

[29] 18世紀スコットランド啓蒙のただなかにスミスは生きたことは改めて意識すべきなのであろう。

[30] ロス、前掲書、457ページ。

[31] 蒸気機関で有名なジェイムス・ワットや潜熱の発見者ジョセフ・ブラックは当時グラスゴー大学内に仕事場を与えられており、スミスも積極的に援助していたことは覚えておいてよいであろう。

[32] 『書簡集』」、389-390ページ。

[33] スミス、前掲書Ⅲ、131-133ページ注(1)、参照。

[34] スミス、前掲書Ⅲ、131-133ページ。

[35] スミス、前掲書Ⅲ、27―28ページ注(2)、参照。

[36] スミス、前掲書Ⅲ、147-150ページ、参照。

[37] 『書簡集』、137―146ページ、参照。

[38] 注28、参照。

[39] スミス、前掲書Ⅱ、146ページ。

[40] スミス、前掲書Ⅱ、19ページ。