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一枚の紙きれからロシアの果てまで


そのときは「つくる」という意識はあまりないのですが、結果的に「つくったなぁ」と思うことが多い私。
私の書籍制作史上(仕事史上?)もっとも大がかりだった高橋大輔(フィギュアスケート)オフィシャル本の制作は、足かけ7年にわたる"冒険"でもありました。※高橋の「高」はハシゴ高

「なんか気になる」直感から1枚の企画書に

まだこれほどフィギュアスケートが盛り上がっていなかった頃。
たまたまテレビで観たフィギュアスケートの試合で、ちょっと気になる選手がいました。高橋大輔という選手。2006~7年の冬でした。

それまでの日本人のフィギュアスケート選手とは異質な雰囲気を持っていて、スケートには詳しくなくても、いや、詳しくないからこそかもしれません、「なんか人を惹きつける」そんな直感がしました。
それが高橋大輔オフィシャルブックの企画書を書くキッカケ、長旅の始まりです。

スケート技術の云々ではなく、「なんか人を惹きつけているこれまでとは異質な選手」としてアプローチする内容が、たまにテレビ観戦をしている(コアなファンより多いはずな)多くの人達にも興味を持ってもらえるのではないか、という確信がありました。
それに「人」に興味を持ってもらうほうが競技への人気は拡がる、という持論もありました。(競技側の人を巻き込むにはここも大事!)

とはいえ、私にとってアスリートの書籍企画は初めて。フィギュアスケートの専門家でもなく、スポーツ記者でもないフィギュア新参者が通用する世界なのかは未知数でした。

が、時代が幸いしたのでしょう、当時、フィギュアスケートの人気をもう一押ししたいスケート界に、私の"専門的ではない"視点の企画が受け入れられました。
実際に確定したときは、逆に信じられず、ちょっとした達成感でした。

いやいや、本番はここからだから。
決まったはいいけど、さぁ本当に私の手に負えるのか…?

他の媒体が行かない所に行く、聞かないことを聞く

スケートの練習を見るのも、コーチとコミュニケーションを取るのも、練習の合間をぬって選手に取材するのも、見知らぬ海外の田舎でレンタカーでスケートリンクまで行くのも、何もかも初めてづくしの手探り状態。

スケーターは海外での練習や試合が多く、海外取材は当たり前。
私の場合、テレビや新聞、専門誌ではないため、先達からの踏襲やノウハウの伝授もなく、限られた制作予算の中で効率的な日程で計画を自分で考え、選手側と交渉し、ホテルやフライトも自力で手配。
海外での国際試合では英語で取材申請してプレスIDをゲットしなければならず、しかも報道メディアではない特殊な媒体の「信用」説明もやっかい。
やり直しがきかない緊張感と、自分が無事に行って帰って来る緊張感でいっぱいいっぱいでした。

しかし、そんな、無事に海外に行けて安心している場合ではない!

「オフィシャル本」と謳う以上、いかに商品としての付加価値、特別感を出すか。報道や他の雑誌に出てくる内容と同じでは意味がありません。
書籍は速報性がない分、時間の経過も踏まえて、"皆が知っている"情報を熟成させ、"皆が知らない"独自内容を入れることがポイントです。
そのためには、取材の頻度と撮影する環境に腐心しました。

他の媒体が行かない所に行く、聞かないことを聞く。に尽きる!

例えば試合。報道なら試合結果とミックスゾーンと会見がメインですが、私の場合は、選手がそれらを全てこなしてから始まります。
会見での発言を踏まえ、その真意や、マスコミには言えなかった本音、試合結果に対しても、直後と時間が経過した後で異なる心境など、そういう独自性を引き出すために、状況に応じて取材作戦を考えます。

そして試合のないオフシーズンこそ勝負の期間。
試合モードから離れて、人となりや人生観、競技観などをジックリ聞いたり、練習風景やオフの姿を撮るなど、試合前後ではできない要素を徹底的に貯めておき、他のメディアと差別化するチャンスでした。
オフィシャル本としての付加価値を付けるため、とにかく様々な場面を逃さない必要(ほぼ執念!)がありました。

こんなふうに、結局、約7年間に及ぶ密着取材(計6巻)では、拠点の大阪にはほぼ毎月、その他合宿や試合でアメリカ、カナダは毎年数回、ロシア3回、中国、台湾、フランスなどに渡航。
私のパスポートにこんなにスタンプが押されたことはありません。強烈な国々の個性的なビザやスタンプたちも圧巻でした(笑)。

細かくて、しんどくて、快感

インタビューは1回に平均約2時間。それが何十回。
地獄のテープ起こしは、本1作につき辞書2冊分くらいの紙束になります。
30分程度完結のテープ起こしなら、パソコンに入力した文字データからそのまま原稿に書き換えていきますが、書籍は一旦全体を見渡し、テーマごとに文字色を分けて付箋を貼り…という整理から原稿にしていきます。

写真選びもハンパない膨大なカット数から、「スタメン」(絶対使う!)、「1軍」(使いたい)、「2軍」(使える)を振り分けし、デザイナーに渡しますが、更に絞られ、実際に使われる割合は200枚分の1カットくらい。泣く泣く選別です。
やはり写真は、真剣勝負の場の迫力にかなうものはないと思っています。作り込んで撮影した写真も否定しませんが、一瞬のスピード感やエネルギーは、作り込んで生まれるものではない、アスリートならではの空気であり魅力。
その王道を大事にしながら、一方で「見たことない」を意識して、意外な素顔や舞台裏も拾ってメリハリをつけるようにしました。

後は写真と文字原稿を合わせ、高橋さん本人の意見や意向も加えて構成です。
デザイナーさんから上げてもらったラフに、どうもシックリ来ない、もっとこうできない? とか私が細かい注文をつけるので、デザイナーさんに申し訳ないのですが…(心の中ではいつも謝っています)、粘りの末に、私のイメージやリクエストを超えて、ピタッ!とハマると、すごく爽快!
細かくて辛い、生みの苦しみですが、楽しい作業です。

おのずと変化は訪れる だから飽きない

ザックリこんな作業を約7年、6作品繰り返しましたが、当初はバンクーバーオリンピックまで、の企画でした。
高橋さんの現役続行に伴い、本も引退まで続行になったことは、企画者として取材者としては光栄でしたが、そこから4年は新しい難問がありました。

もともと6作のイメージは前提になく、バンクーバーオリンピックまでの2作に全精力を注ぎ、"やり尽くした"感になっていたので、この先、読者に飽きられないよう、ワンパターンにならないよう、どう趣向を凝らせばいいのか、果たして「一人」を追うドキュメントでどこまで変化を出せるのか…。

本としては、見せ方や雰囲気などデザインも含めて、シリーズとしての一貫性と少しずつ新しさを感じさせるようなディレクションが必要でした。
既視感を減らすために、同じスケート写真でもアングルやシャッタースピードを変えたり、焦点を変えたり。

しかし「一人」を追うドキュメントだから変化に乏しいかも、という心配は全く不要でした。
途中、東日本大震災による影響、新しい若手の台頭、新コーチの加入、フィジカルの問題など様々な状況変化によって、4年間でも高橋さん自身も選手として大きく変化していきました。

それは、勝った負けたの成績よりも、いちアスリートとして、人としての心の変化や葛藤など、本に収めきれないほどの人間ドラマでした。
むしろ後半の4年間のほうが深みがあったように思います。
人は、その人だけで変化するのではなく、周囲の情勢によって、こんなに変化していくものだと気づかされました。

その変化のおかげで、結果的に6作のシリーズにそれぞれの個性がついたような気がします。
「一人の人で6作もよく飽きなかったね」と言われたことがありますが、
多分それは、
「変化」があって、毎回同じ状況はなかったから。

それと、毎作、渾身の力でベストを尽くしたつもりでも、後から見ると、もう少しこうすれば良かった、ここはイマイチ、などどこかに不足を見つけてしまい、私自身が満足することがなかったからだと思います。

まさか続きで 思えば遠くへ来たもんだ

私自身も、結果的に自分の想像を遥かに超えました。
オリンピックを2回も生で見るなんて思いもよらず。正直、絶対に個人的には行かないと断言できる、まさかの中国とロシア(3回も!)に行くなんて。
一生に一度あるかないかの巡り合わせでした。

最後の海外出張先となったソチオリンピックでは、バンクーバーとは異なり、本当にここオリンピックやってる街?というくらい、ソチの地でどうサバイバルするか、でした。
ロシア語通訳なしでは生きられないので、タクシーに乗るにも、何するにも通訳と直通する携帯電話が命綱。
夜、雨が降る暗い中で、タクシーの手配のために通訳に電話し、カメラマンと心細くなりながらタクシー待ちしているとき(本当にタクシーが来てくれるのかもわからない)、ふと感じました。

ああ、あの企画書一枚から、こんなロシアの果てに来ちゃったなぁ。

小さなパソコンから1枚の企画書が生まれた「ちっぽけさ」と、言葉も通じないロシアの地での「サバイバル冒険」とのギャップが大きくて笑いそうになりました。
あの企画書にはソチのソの字もなかったし、まさか7年後にロシアでサバイバルしてるなんて誰も予想していません。

これに限らず、最初はほんの思いつきだったり、コツコツ地味な作業だったり、そんな「ちっぽけ」なキッカケや積み重ねが、思いもよらぬ所へ連れて行ってくれる、それが「つくる」醍醐味なのかなぁと思います。

あれから そして今 

いまや、スケート界も内外共に大きく様変わりしたと感じます。
特に羽生結弦選手の出現は大きく、もはや彼はスケート界で収まる存在感ではありません。
私は、ちょうど台頭してきた羽生選手を見かけることも多く、そのただならぬ気迫に、彼もまた「これまでのスケーターとは異質なものを持っている人」だと感じたのを覚えています。
気がつけば、私自身の競技を見る目、選手を見る目も変化・成長していました。

紙きれ1枚から始まった冒険。
あのときだからこそ「つくる」ことができて、そして私に変化と成長をくれた存在。
体力的に、今の私では乗り切れなかったと思います。
でも、今の私だからこそ、「つくる」ことができるものがあるはず。

実は、私のアンテナはすでに「ある人」に反応していたりしています。
さて、またつくり始めるかな。真っ白い1枚に、ぽちぽちと…

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