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「成し遂げる」より「やり遂げられた」と思える大切さを

久々に見事な名言に出会った! 
スピードスケートの小平奈緒選手の言葉。

「成し遂げることができずとも、
自分なりにやり遂げることはできたと思っています」

北京五輪を終えた後の言葉だ。
北京五輪ではメダリスト達の陰になってしまった感じだけど、先週、今秋の地元でのレースで現役を退くことを表明した小平さんの会見を見て、あらためて彼女が紡ぐ言葉に深みを感じている。

この言葉を聞いたとき、私は思わず膝を打った。
そう! コレなんだよ、コレ!!私もこれが言いたかったの! 
実は私自身も、ずっと思いながらも、うまく言語化できていなかった。
小平さんは、こんなに見事にスパッと、素晴らしい!
それも、韻を踏んでリズムよく、一回で覚えられるフレーズで。

彼女は、"氷上の詩人"とも言われているそうだけど、振る舞いや言葉から私は「哲学者」とも感じる。
生きる上で大事な「気づき」を、いつもさりげなく教えてくれる。

「成し遂げる」には、条件や運も必要

トップアスリートとして求められる結果や期待は、どうしても目に見える「カタチ」「結果」。
もちろん本人だって自分への期待も少なからずあるだろう。
思い描いたとおりの結果が「カタチ」となって見えたとき、きっと自他共に「成し遂げられた」と思うのかもしれない。

それはトップアスリートだけではない。
私たちだって、理想や夢や目標を持ち、それを「成し遂げたい」と願い、努力した結果に、その達成が叶えば嬉しい。

でも。
必ずしも「成し遂げることができる」とは限らないのが現実。
むしろ、うまくいかない、途中で計画変更せざるを得ない、そして断念することも少なくない。

自分では、どうしようもないものがある。

生まれ持ったもの。心身の状態、周囲の環境、時の運、諸々の条件…。
どんなに実力者でも、紙一重の「運」によって「成し遂げる」ことができなかったり、その逆もしかり。
あきらめるという意味ではなく、「自分ではあらがえないものがある」「仕方がない」という現実は、どうしてもある。

スケールが大きくなればなるほど、その運や条件との際どいかみ合わせに影響されることもある。

そんな"針の穴"を潜り抜けて「成し遂げられた」時というのは、実力や努力だけでなく、運も含めて全てが嚙み合って、それが「カタチ」として見えた時。
そう思うと、成し遂げるって、なかなか稀有なことかもしれない。

ましてやオリンピックのように4年に一度の数秒、数十秒の一瞬に、その全てをかみ合わせられるかは、ほぼ神業。

「やり遂げた」と思える納得感が、「カタチ」を超える

「成し遂げる」ことは稀有でも、「やり遂げる」ことはできる。

私はむしろ、「夢の達成」や「成し遂げる」ことに重きを置くよりも、「やり遂げる」ことが大切だと思っている。

小平さんはキッパリと、こうも言い切っている。

「記録を成し遂げられなかったことに無念はありません」

記録よりもそこに向かう「プロセス」が大事で、仕方がないことを身を持って知った、だから納得している、とも語っている。
苦境の中でも冷静に全てを絞り出し、死力を尽くした境地なのだろう。

ここで私を持ち出すのはおこがましいけど、私もこの心境は少しわかる。
「もう難しいかな」と予感しながらも、自分が「できることがなくなるまで」やり尽くそうとする。
傍から見たら、「よくまぁ根気よくやれるね」と関心される(半分呆れ)こともあるけど、私自身は、ストイックな犠牲的精神でもないし、崇高な責任感でもなく。

私がトコトンやるのは、「自分の納得」のため。

「もしかしたら無理かも」と頭をよぎっても、本当に無理かどうかは、やってみなければわからないこともある。
最後の一瞬まで、自分ができる可能性を全て試してみたら、この「最後の一手」で打開できることもあるかもしれない。
軌道修正の余地や「手」があるうちはまだ可能性を信じる…という精神論より、その段階では、可能性を探りながら、ダメならダメを見極めたい。

もちろん「どうしようも仕方がない」ことに阻まれ、「成し遂げられなかった」という結果を、私自身も味わっている。
でもそれが「悔い」として残っていないのは、私としては「やり遂げた」という充足感と納得があるから。

思い通りではない、理想と違うからって、途中で投げ出すのはカンタンで、その一瞬はラクだけど、結果的には中途半端な思いしか返ってこない。
「もしあの方法だったらできたかも」「こうしてたら…」とか、「たられば」が渦巻いて後悔が残ってしまう。

他者評価ではなく「私なりに」が重要

どう振り返っても「あの時の私に、あれ以上やれることはなかった」と心底思えれば、それが「やり遂げた」ということだと思っている。

小平さんの言葉にも「自分なりにやり遂げた」とある。
"自分なりに"がとてもポイント。
もしかしたら他者から見れば「もっとできたのに」と言われるかもしれない、ライバルのAならもっとうまくやってたかも…そんな比較ではなくて、あくまでも「自分ができ得る」基準

人から見える「カタチ」や評価ではなく、「自分がやり遂げた」と思えることが何より大切。
そう思えれば、「納得感」と「充足感」になり、たとえ見える「カタチ」としては「成し遂げられなかった」としても、自分を肯定してくれる。

この思いは、漫然と待ってても誰かが与えてくれたりはしない。
自分が持って生まれた心身や、様々な条件とのかみ合わせに対して、やっぱり正直に真正面から、自分自身が身をもって力を尽くして、その結果として得られる心境だと思っている。

「納得」のマインドが次に進ませる力に

「やり遂げた」という納得感は、爽快感にも通じる。
自分がそこまでに費やしたエネルギーをキレイに閉じて、浄化、リセットしてくれる気がする。

ヘンな未練や悔いを引きずってエネルギーがくすぶったままでは、次に向かって目いっぱいクリーンに力が使えない。
もちろん人間は、そんな美しくキレイサッパリ!とはいかないけれど、それでも「自分が納得できている」というマインドは、次に進みやすくなる。

「やり遂げた」という充足感と納得は、カタチとしては見えないけれど、自分を肯定し、その経験が自信につながっているのかもしれないと思う。

私自身も振り返って実感する。
傍からは「成し遂げられなかった」「夢の断念?」「もったいない」と見えるかもしれなくても、当時の私にとっては「自分なりにやり遂げた」と納得して道を降りたことがある。
道半ばでもあったけど、悔いはなく、この「納得感」とどこか爽快な気持ちが次に向かって自分の背中を押してくれたことは確かだ。

「自分を目いっぱい使った」という事実自体が、その先の自分にプラスになってくれるんだと思う。

++++

それにしても。
競技生活の引き際を迎えて、こんな見事に言葉にできる小平さんは、とても幸せな心境だと思う。
名言に感謝!

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