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鯨になった彼/短編小説

ああ、またあのコがうなされている。
汗を額に滲ませて、苦しそうに寝言を繰り返す。

僕はあのコのいる、309号室の扉をすり抜け、少女の夢の中へと入り込む。
今日は結構苦しいな。
けれど、キミの為なら大丈夫。
安心して。もう楽になるからね。

僕は少女の悪夢を一つ残らずお腹に収めた。
これで安心。
ほら、もうぐっすり眠っている。

あ、次は別の場所だ。
僕は月明かりの下を駆けてゆく。


「お母さん、昨日もまた優しいコが来てくれたの。私の怖い夢全部食べてくれたの」
母親は優しい顔で、娘の頬を撫でそれから額に手を当てた。
少し熱が高い。
ナースコールを押し、いつもの処置をしてもらう。

『冷静にとはいかないと思いますが…現実的に、もって半年です。』
母親の頭の中に木霊する、娘の余命宣告。
娘はまだ何も知らない。

この笑顔を消したくない…。エゴだろうか…。
どうか…奇跡が起こって欲しい。
悪い夢だったと、そう笑って過去の事にしたい。


少女はその日の夜、危篤に陥った。
呼吸は乱れ、脈拍も弱い。
母親は祈った。
『どうか、私の命と引き換えに…この子を』


ピンと耳の奥に鳴り響いた、SOS。
あのコだ。
僕は急いだ。病室のベッドの上。
機械音が、少女の命が消えた事を辺りに鳴り響かせる。

僕は少女の心の中に入った。
巣食う全てを食べた。
お腹がはち切れそうだった。
それでも食べた。

『起きるんだ!まだその時じゃない!目を覚ませ!』
必死に食べた。


「先生!脈が!」「何だって!」
彼女の脈が弱々しく、けれども確かに再び動き出した。
「奇跡だ…」
慌ただしく、処置を施される少女。
傍で息を飲みながら、祈る様に両手を固く握りしめて居る母親。

「お母さん、奇跡です。彼女の生きたいという強い思いが、再び命を吹き返したんです」
医師の目に、小さく光るものがあった。

娘に駆け寄り、泣き崩れる母親。
「おかえり、おかえり!」

少女は小さく頷き、また眠りに戻った。

『ねえ、あなた、いつも私の悪夢を食べてくれてたでしょ?そして、私を助けてくれた…』
少女は隣りに座る、バクに伝えた。
バクは少し照れた様に『それが僕の仕事さ』

少女は少し考えてから『ねえ、あなたの夢は何?』
『僕?…僕はもう、夢を食べられなくなってしまった。これからは、夜空で君達の安らかな夢を祈るよ』

少女は真っ直ぐな瞳で、バクに言った。
『私、あなたの夢を叶えてあげる』
『え?』

果てなき夜空に広がる、無数の星々に、浮かぶ一頭の鯨。
『僕?本当に僕なの?』
鯨になった彼は、思い切り尾びれを振り、星屑を少女の上に降らせた。

『ありがとう!』『私の方こそありがとう』


悪夢にうなされ目が覚めた夜、空を見るとそこには必ず星を降らす鯨がいると、それは子供達だけが知る神話となった。



[完]

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