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前十字靭帯断裂とともに

 2011年12月15日。10年近く経ったいまでも、日付までしっかり覚えている自分に笑っちゃいます。出来立ての深さのある人工芝ピッチ。(スパイクがすごい引っかかるんです(泣))テスト明けで鈍っていた身体。自分のステップワーク能力の低さ。まぁ原因はこんなところでしょうか。僕は前十字靭帯断裂というスポーツ選手であれば誰もが恐れる大怪我をしました。膝の怪我には、接触型、非接触型、介達型とありますが、僕はあろうことか、サッカーというコンタクトスポーツで、誰とも接触することなく、自分自身で身体のコントロールが効かず、その場に倒れ込みました。

怪我の瞬間

 怪我した瞬間、膝の中の感覚が、「これはヤバイ」という感じでした。痛さで言うと骨折の方が痛いのですが、(骨折の経験もあります)「ヤバイ」という感覚的なものは、この前十字の時の方が遥かうえでした。

 スポーツしている人はご存知の方も多いかと思いますが、これは手術をしなければ治らない大怪我です。当然のように僕もサッカーを続けるためには手術が必要な訳でしたが、なんと高校で成長真っ盛りの自分。レントゲンに映る骨端線と言う、骨の成長に重要なこの線が消えるまで、すなわち身長が伸び切るまでは手術ができないと医者から言われました。

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真ん中にある黒い線。あれが後十字靭帯で、本来それにクロスするように前十字靭帯があるのですが、まるっきりありません。このレントゲン写真を見た時は思わず自分でも笑ってしまいました。

高校サッカー生活

 それからの高校サッカー生活は本当にもどかしいものでした。手術しなくとも、ある程度時間が経てば、日常生活にはなんら問題ないレベルまで戻ることが出来ます。そしてリハビリして、トレーニングして、サポーターを膝に巻き、なるべく膝に負担がかからないように気をつけながら、徐々にトレーニングの強度を上げていく。けどダメなんですね。ある程度動けるようになってくると、もう少しもう少しと欲が出てしまい、全力に近い形でプレーしようとした瞬間にどうしても「膝崩れ」と言うものを起こしてしまっていました。小さい膝崩れから、大きい膝崩れまで、何回も何回も繰り返し、やはり全力でプレーする(特にボールを奪いに足を伸ばすことが怖く)一歩手前で断念せざるを得ない状態でした。大好きなサッカーを全力でプレー出来ない。その虚しさは当時10代の自分には相当大きかったです。でも、高校サッカーはずっと憧れでもあり、そのピッチに立つということを最後の最後まで信じて諦めませんでした。サポーターも、金属の入っているものだと公式戦で使用できないから、金属の入っていない簡易的なものを買い、どういう時に自分が膝崩れを起こしてしまうのか、そうならない足の運びはどうしたら良いのか、トレーナーの方とよく相談していました。

 そして迎えた高校生活最後の大会のメンバー発表。僕は選ばれませんでした。まぁ当然といえば当然です。なるべく接触を避けながらでなければプレー出来ない自分を、ガンガンにプレーできる他のメンバーを差し置いて、監督が選ぶ訳がありません。ベンチ入りさえすれば、最後数分でも出れるチャンスがあるんじゃないかと思っていましたが、結果はメンバー外。憧れを抱き続けたまま、僕の高校サッカー生活は終わりました。

手術・入院

 晴れて大学生になり、身長も伸びきったと言うことで、ようやく手術ができる状態になりました。ただ、日常生活や軽い運動であれば特に問題はないため、手術をしないと言う選択肢もあったのですが、(身体にメスを入れるというのは簡単なことではないので)とにかくプレーがしたかった自分は、手術する一択でドクターと親にお願いしました。手術当日のことよく覚えています。午前10時頃、母親に見送られ元気に手術室まで歩いて行きました。麻酔は不思議ですね、手術室のベットまでは記憶にあるのですが、麻酔のためマスクをした瞬間から、すーっと眠りに落ち、気が付いたら夜の10時頃自分は病室のベットにいました。センサーボタンで看護師さんを呼ぶと、食事を運んできてくださいました。確か前日の夜9時以降から食事は禁止だったため、24時間ぶりのご飯がめちゃめちゃ身体に沁みました。ご飯てこんなに美味しかったっけという感動を覚え思わず写真を撮りました。(笑)

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 さて、酷だったのは術後二日目の夜です。手術当日はまだ麻酔が残っていると言うこともあり、意識が朦朧として特に気にはならなかったのですが、二日目は激痛でした。そしてなんせベットで身動きも取れない状態でしたので寝返りもろくに打てない。なんとか眠りについたと思ったらすぐにまた目が覚めてしまい、時計を見ても先ほどから30分も進んでいない。必死にiPod で音楽聴いたり、YouTubeを見て気を紛らわしたりするなどの繰り返し。人生で一番長い夜でした。

 そんなこんなで約3週間の入院生活、絶対にすることなくて退屈だろうと思っていたので、事前に普段はやらないような折り紙やルービックキューブ、筆記体の練習ノート、お手玉など、あとは本と漫画も大量に持って行きました。ひとりプレステを貸してくれた友達もいて、病室のテレビとかってテレビカードを挿入しないと点けれないのですが、おかげさまでテレビカードを何枚も買うけど、ほぼほぼテレビじゃなくてゲームのために使うという看護師さんに呆れられながらも有意義な入院生活でした。

リハビリ・復帰

 リハビリは本当に少しずつ、少しずつという感じでした。人間当たり前のようにしている二足歩行。これがどれだけすごいことであるか、理学療法士の方と笑いながら語り合ったのを覚えています。着替えで靴下やパンツを履く時に、片足で立ちますよね。これがまた極めて難易度が高い。膝の屈曲角度といって、膝がどれくらい曲がるかを毎回図るのですが、踵を裏太ももにつけられるようになるまではかなりの時間を要しました。だからこれまた正座ができるようになった時は本当感動でした。

 ようやくグラウンドレベルのリハビリも開始し、トレーニングにも徐々に参加できるようになった頃、あれだけ待ち遠しかったサッカーが怖くもありました。これは初めての感情でした。ようやく全体練習に合流してからも、ブランクが長かった分、日々の練習は本当に大変で、焦る一方でした。けれど、ボールを蹴っている時が喜怒哀楽を表現出来て一番自分らしくいられるいうことに改めて気づくことも出来ました。

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糧にするということ

 10年前のたった一瞬の出来事で、これほどまでに自分の人生に影響を与えるものであると、最初は不運にしか思っていませんでしたが、なるべくしてなった怪我だったのかな、なんて思うようにもなりました。実際怪我をしたことで、高校時代はマネージャーと過ごす時間が多くなり、プレーばかりではなく、裏方として支えることの苦労ややりがいに気づけたり、本当に感謝してもしきれないドクターやトレーナーの方々と出逢えたり、(実際にドクターの紹介で大学時代自分のインターン先が決まったりもしました)怪我をしたからこそ、歩めた道もあるんじゃないかなと今では思っています。

 やはりスポーツに携わる人間である以上、怪我を良しとは思いません。できる限り怪我をしない、させないようにプレーするのがピッチに立つ人のマナーですし、そのリスクを低くし、万が一何かあった時迅速に対応するのが、運営や支える側の責任と思っています。ただ・・・

 怪我をしたからこそ経た経験、得た知識、学び、それらをどんな形であれ活かしていくことが、支えてくれた人たちへの恩返しと思って、これからも活動して行きます!


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