見出し画像

日々是雑感2021/05/24

頭がスッキリしているうちに、今気になることを書こうと思う。

何時ぞやかもう忘れたが、東日本大震災が起きた後、「東北画は可能か」というプロジェクトが立ち上がった。確かそれを知るきっかけになったのは東京へ行く東海道新幹線の中で聴いたNHKラジオだった。東北画そのものがジャンルなのか、自然発生的なプロジェクトなのか、気になって仕方がなかったのだ。

上野の東京都美術館で行われた展覧会は、フランス印象派のような批評もなく、思い思いの作風があり、芸術でできることとは何か、見て問うものだった。実際にフランス印象派のような多くの落選者が集まって…というものではなく、東北芸術工科大学のプロジェクトで、なかな面白いものだった。当日いた指導教官に聞いたところ、NHKラジオで朝の特集を聞いた人が多くやってきた、とのこと。その指導教官もラジオで聴いてやってきたという人が多く驚いた様子を今も覚えている。

さて、本題はさまざまな困難が起きている中で、芸術という産業、いや日本の芸術という世界や文化は、その時々でどういう役割があるのか、ということである。

自分が見聞きした災厄と言えば、阪神淡路大震災から始まり、東海豪雨、東日本大震災、栄村自身、新潟地震、北海道の奥尻島や道東での地震、熊本地震に線状降水帯、ゲリラ豪雨とあげればキリが無い。

東日本大震災ではアイドルたちやアニメのキャラクターに関わる人たちが立ち上がったり、上述した「東北画は可能か」プロジェクトが立ち上がり、それぞれの活動を見聞きした。

そして、このコロナ禍である。芸術文化で一番ニュースになっているのは演劇分野だろうか、この影響で舞台が中止、ライブが中止となり、役者たちが皆困窮しているという話を聞く。もちろん演劇だけでなく、音楽分野も美術分野も少なからずダメージがあるのは知っての通りである。

このコロナ禍においてはアマビエやマンボウが厄除けの神様見たく崇め奉られているが、神話レベルでの願掛けで、必ずしも効果があるとは言い難いが、それも一種の芸術であり、一つの芸術振興でもある。

過去にペスト(黒死病)や天変地異が発生したヨーロッパではありのままを淡々と作品に残して伝えていたし、第二次世界大戦や太平洋戦争時においても芸術分野は国威発揚や戦意高揚に駆り立てられ、現代においてもどのような災厄が起きても、表現の手段が多様化したとしても、何かを問う作品が、心打たれる作品が多くなっている気がしてならない。

芸術の本来の目的は、表現の多様化、時代による目的の変遷があったとしても、本質は変わらないと自身は思っている。

今の時代、日本人は幸か不幸か、表現の手段が格段に増えた。コミックマーケットをはじめとする二次創作、コスプレ、デジタルアートなどの現代美術、昔からありながら表現が多様化した洋画・日本画、写真、漫画もそうだろう。音楽もクラシックだけでなくロックやブルース、アニメソングなども多様化し、おそらく一生涯のうちに全部は聴けないであろう。

だが、どのような時代であれ、作品の本質を問うこと、真意を探ることを観る者が考えなければ、深く考えなければ、作品はただ消費財でしかならないし、あっという間に忘れ去られてしまう。どのような困難があったとしても本質を見抜き、問う問われる力が我々人類は試されている、そんな気がしてならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?