見出し画像

なぜ君は投資をしなければいけないのか ~治公営正の資本主義で生きるために~

「#お金について考えていること」をイベントとして、日本証券業協会様とnote様が開催してくれたことに大変感謝しています。
 主催者様のためにも、日本証券業協会を構成する企業のサービスを通じて投資を始める人や資産運用を始める人が増えくれるような記事を書きたいと考えています。

 さて、筆者は「お金」について考える時、次のような問題を避けることが出来ないと思っている。
 それは「政治と宗教の話はタブー」と云うビジネスの常識である。此処に「贔屓のプロ野球球団の話題」を加えて「三大タブー」と考える人も居る。
 お金の話は、突き詰めるとビジネスにおけるタブーにぶち当たる可能性が極めて高い。
 新聞は「政治」「経済」「社会」などと記事を読みやすくするために分類しているが、厳密には「政治とは、人間活動の全て」である。
 政治は我々の生活、全てに関係している。
 政治と無関係な「経済」は無く、政治と無関係な「社会」も有り得ない。政治と無関係な「スポーツ」も無いし、政治と無関係な「エンタメ」も実は存在しない。これは「日本人が気付き難い真実」である。

僕達は政治と無関係には決して生きられない

 例えば朝、テレビを点けてニュースを見ると、美人な女性アナウンサーやお天気お姉さん達がミニスカートを履いたり、夏場だとノースリーブなどの肌を露出した華やかな衣装を着たりして番組を彩っている。テレ東の「モーニングサテライト」は少しお堅いが、他局の民放はエンタメ色が強い。

 ところが、もし此処が日本ではなく、厳格なイスラム教圏の国だったら、女子アナ達は髪をヒジャーブ(スカーフ)で隠したり、国によっては女性をテレビに出すこと自体を禁止したりするだろう。タリバンが実権を再び掌握したアフガニスタンでは、女性が事実上排除された職場もあったそうだ。
 自分達が身に着けている服装一つにしても、政治と無関係とは言い難い。女子アナを例に戻せば『日本の政治は、テレビに出演する女性に干渉しないと云う関係(無関係な関係)」を創っていると云える。

 スポーツも同様である。政府がメジャーリーグで活躍した大谷翔平選手に国民栄誉賞を与えようとしたところ、時期尚早として大谷選手は辞退した。オリンピックや国民栄誉賞はよく「スポーツの政治利用」とマスコミに批判される案件だが、スポーツが政治と無関係なはずがない
 コロナ禍の影響で2021年のプロ野球は日本シリーズを除き延長戦無し9回打ち切りのルールで運用され、観客を入れるにしても収容制限や人数制限を設けた。これは勿論コロナの影響だが、ブラジルのように政治が経済優先の方針を打ち出していた場合、人数制限や延長無しのルールを設けない運用も考えられただろう。これはスポーツがその国の政治柄やお国柄と無関係ではいられない証左である。

 コロナ禍と関係無くても、スポーツが政治と無関係ではいられない証左は幾らでも挙げられる。
 例えばメジャーリーグには引き分けが存在しない。決着が着くまで延長を繰り返し、最多延長記録は26回にも達する。日本でも戦前に最多延長28回を記録しているが、NPBでもメジャーリーグに倣って延長回数と試合時間をともに無制限にして、引き分けをなくす方針を打ち出した過去がある。だが警察や近隣住民から猛反対されて計画は頓挫した。興行であるスポーツは、防犯は勿論、周辺地域の地方行政と無関係ではいられないのである。
 プロ野球選手の年俸を高くしたのは落合博満氏と言われているが、当時の日本の所得税率は非常に高かったため、実際のところ、現在の選手達の方が遥かに高い年俸を貰っているのではないだろうか。当たり前だが、税率は政治が決定する。国によっては、世界各国の富裕層を囲い込んで多額の税収を得ようと、富裕層への税率を優遇するところだってある。
 そもそも日本でプロ野球を始めた正力松太郎が元々内務官僚であり、米国CIAの協力者だったことも明らかになっている。読売巨人軍だけでなく、読売新聞や日本テレビなども政治と無関係に創られた会社とは言い難い。
 これだけ挙げれば、それでもスポーツと政治は無関係と言い張れる人間は居ないだろう。
 こうした例は「スポーツ」だけでなく、この世の全てに指摘出来るのだ。

お金と政治は絶対に切り離せない

 お金についても同じことが言える。
 お金の話も突き詰めると、政治と無関係に考えることが出来なくなる
「株で儲かる、損した」ぐらいなら、政治と無関係と考えることも出来ると思われるだろうが、これは不可能だ。株価や先物相場、円相場などは、政治情勢と無関係に論じることが出来ない。
 例えば中東情勢が何やらきな臭くなってくれば原油価格に影響してくる。アメリカの政治情勢によって為替相場は変化し、ドル安円高、円安ドル高が企業の業績に有利不利を作り出し、株価にも影響する。コロナ禍だったり、中国だったり、イギリスがEUが離脱したりなんてニュース一つにしても、投資家達はその情報から将来を予測して売買を繰り返し、株式市場は乱高下する。政治家の発言一つで株価なんてどうとでも変わるわけだ。
 これらは、エコノミストや経済アナリストなら誰でも知っている常識だ
 じゃあ、投資と全く縁の無い生活を送るとしよう。
 しかし政治と無関係に生きることはやはり不可能だ
 スーパーやコンビニに行ってパンや麺類などを買う時だって、政治情勢によって発生した小麦の値段の高騰は避けられない。スタンドに行ってガソリンを入れる時だって、我々はガソリン税・石油税・消費税と二重三重に課税された代金を支払わされる。税金を決定しているのは政治である。

 さて、お金の話をする時、それでもビジネスマンのあなたは「政治の話はタブー」と言い切れるだろうか?
 あなたが「政治」と考えているモノは、新聞が読みやすく分類したような「政党」とか「国会」とか「内閣」とか「選挙」とか、その意味を限定した狭義に過ぎないとそろそろ認めるべきではないか。
 ビジネスの世界で「政治や宗教の話はタブー」が常識として通用するのはビジネスマンとして働くあなたが、政治や宗教と嫌でも関わらざるを得ない状況を単に経験していないだけに過ぎないことを理解して欲しい。
 断言する。政治と無関係に生きられる人間はこの世に一人も居ない。
 
政治的に日本語が公用語として決定されているから、日本語で物を考え、日本語で読み書きして、日本語で喋っているあなた自身が「政治と無関係に生きられる人間は居ないこと」の立派な証拠ではないか。

「新しい資本主義」なんて可能なのか?

 政治と云えば、岸田文雄首相が「新しい資本主義」を掲げたことは記憶に新しい。

 その内容を批判する記事も出ていて、中身がスカスカと言われているが、筆者は仕方無いと思っている。
 ノーベル経済学賞を受賞した日本人は過去に一人も居ないと云うのは有名だが、もし仮に世界的に通用する「新しい資本主義」なるものが実現したら日本どころか世界が変わる大思想になるだろう
 マルクスは「資本論」で非常に高度な経済分析を行って、「社会主義」「共産主義」と云う経済思想を生み出した。マルクスの思想に影響を受けた者達の手で、ソビエト連邦や中華人民共和国が成立している。
「〇〇主義」なんて簡単に言うが、こんなもの本当に考え付いたら、世界は大きく変わってしまうのだ。岸田総理はそれに気付いているのだろうか?

 ところで、旧共産圏の国の政治が、果たしてマルクスの思想を本当に体現していたかは別問題だが、ソ連崩壊や中国での自由経済制導入の歴史などを見れば、社会主義や共産主義が上手く行くと考える日本人は非常に少ないのではないか。実際、先の衆議院総選挙で日本共産党と連立を組んだ立憲民主党は議席を大きく減らした。勿論、選挙(議席)のためならどんな奴とでも組む節操の無さが国民に呆れられ、立憲民主党は支持を減らしたのも事実だが、日本人の共産アレルギーの強さが浮き彫りになったとも云える。共産色の無い国民民主党が議席を保持したり、日本維新の党が大きく議席を増やしたりした選挙結果は至極納得のいくものであった。
 政治的に「社会主義」や「共産主義」は論外と言わざるを得ない。

 だが「新しい資本主義」とは、一体何をすることなのだろうか? 

 貧困を減らすとか格差を是正するとか、それは「大義名分」「目標」「目的」であって「手段」になっていない。
 当たり前だが、「資本主義」とは「目的」ではなく「手段」である。
 国の経済をどのように廻していこうか、その国の権力者が(正しいか否かは別として)有効な手段だと考えるから、自由経済を導入したり、社会主義経済にしたりする。アメリカは社会主義国のキューバに今も経済制裁を科している。しかしそういった経済制裁も「地球から社会主義や共産主義を消滅させたい」と云った「目的」ではなく、あくまでも自分の国や外交を有利にしようとして行った「手段」なのだ。
 もし「新しい資本主義」なんてものが実現して、日本経済が急速に回復し発展しようものなら、他の国だって「日本を真似しよう」と考えるだろう。マルクスが本で世界を変えたように、「新しい資本主義」を導入するためにさまざまな国で革命運動が起き、国家転覆や内戦状態に陥るところも現れるはずである。
「新しい資本主義」が平和を齎すと思ったら大きな勘違いである。何故なら他の国は日本と同じ状況でもなければ、民族も違うし、歩んできた歴史から風習までてんでバラバラだからだ。日本のように国民が銃器を所持出来ない国ならまだしも、アフリカや東南アジアなどの紛争地域は日本よりも遥かに銃火器の入手は容易いので「新しい資本主義」と「それを阻止せんとする」者達が血で血を洗う惨劇を繰り返すに違いない。

 岸田総理は「新しい資本主義」がそんな危険性を持っているとは、まさか考えてもいないだろう。
 それはマルクスだって同じだった。いくらマルクスでも、ソビエト連邦でスターリンが「粛清」の名の下に何万人も殺したり、中国や北朝鮮などでは報道規制や無数の人権侵害が行われたり、自分の思想がそんな事態を招いていることなどまさか想像していなかったに違いない。
 当たり前だが、大多数の人間にとって「政治は他人が行うもの」である。他人は自分の経済体系や政治思想を誤解したり、曲解したり、自分にとって都合の良いように利用したりするものである。
 だから、岸田総理の「新しい資本主義」の中身がスカスカなのも、世界を大きく変えるような思想が簡単に創れるはずないのだから、そりゃ仕方ないと言えるし、中身スカスカな方が他人も真似しようとしないからむしろ健全なんじゃないかとさえ思えてしまう。

資本主義=治公営正の中で生きなければならない

 さて、「新しい資本主義」なんて大それたモノなど、そうそう考え付けるものじゃないことは前項で語った。
 では、僕達はどう生きなければいけないのだろうか?
「お金」について考える時、実は僕達には二つの選択肢しかない。

・現在の資本主義社会に「No!」と言うか。
・現在の資本主義社会を受け入れて生きるか。


 前者の「No」と言う人は社会主義者や共産主義者、新しい「〇〇主義」を考えようとしている人達に該当する。だが社会主義者や共産主義者はかなり肩身が狭いし、新しい「〇〇主義」も妄想の域を出ない。
「意見が無い」「どっちでもない」「その他」と答える人は、全員後者だ。
 自分の態度を判別させないのは日本人の特徴だが、あなたに意見が無かったり、どっちでもなかったり、或いはどっちでも良かったり、他に言いたいことがある人もいっぱい居るだろうが、あなたのような人が資本主義社会を大きく変えることは無いから、「現在の資本主義社会を受け入れる」ことに変わりないのだ。

 結局、大多数の人達が文句や不平不満を言いながらも、現在の資本主義を受け入れざるを得ず、生きていくわけだが、もし人生を悩んでいる若者から「自分はどう生きれば良いか?」と訊かれたら、筆者は「治公営正に入れ」と答えるようにしている。

資本主義とは、治公営正の身分制度である

治公営正じこうえいせいは筆者の造語である。
 小説家を志していた筆者だが、どうしてもこの言葉を社会に刻み付けようと考えて、Amazon-kindleで電子書籍として出版したものである。

治公営正』は人が「治・公・営・正・不利多・認人」の六つに分けられることを意味している。
 その内訳は……

正規階級>相対的に、社会的に認められてお金を稼げて立場が強い階級
:天皇、皇室(皇族)、政治家、内閣総理大臣、高級官僚など
:天皇、皇室(皇族)、公務員、自治体や官公庁の常勤職員など
:経営者、自営業者、個人事業主、フリーランス、資産家など
:終身雇用の正社員、正規職員など
特記:上記の職業に就いて定年退職したり、引退したりして、年金暮らしや貯蓄等で余生を過ごしている無職の人々も現役時代の治公営正で分類する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
非正規階級>相対的に、社会的に認められずお金も稼げず立場も弱い階級
不利多(振多):フリーター(非正規雇用者)、契約社員、派遣社員、アルバイト、パート、官公庁や自治体の非正規職員、偽装請負など
認人:資産を持たないニート、無職、生活保護受給者、ホームレスなど

 日本は、この『治公営正』の階級社会が構成されている。
「治公」は官界、「営正」は民間と云う区分である。
治公営正』は、あくまでも「社会の物の見方」であって、階級社会を迎合しているわけではない。
「不利多(振多)」はどちらもフリーターへの当て字である。政治の無策や経済情勢に「振り回されることが多い」から「穢多」を意識して「振多」と書いたが、次第に「不利が多いから不利多」とした方が良いような気がして両方の字を残した。非正規に対する差別や偏見は尋常なものではない。
『認人』はニートの当て字である。「士農工商」では「非人」と差別された不幸な人達の子孫が現在も部落差別に苦しんでいるが、本件は同和問題とは関係が無い。ただ、日本の資本主義社会が士農工商の身分制度と大して変わらない差別構造に基づいていることを示すために敢えてこの字にした。現代では、日本国憲法で人間であることは認められて否定されないから「認人」と表記したが、社会からの扱いは最低と言わざるを得ない。
 メンタリストDaiGo氏が「生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい」、「ホームレスの命はどうでもいい」、「邪魔だし」、「臭い」などといった差別的な発言をして炎上した騒動は記憶に新しい。

『治公営正』は「士農工商」と違って、一人に一つの属性しか無いわけではない
 例えば社長を例に挙げよう。社長は社員の長だから正社員であるが、同時に経営者でもあるから「営」と「正」の二つの属性を持つことになる。
 官界も同様で、国会議員は「政治家」だが、「特別国家公務員」といった法的な位置づけも存在している。その意味で「治」と「公」の二つの属性を持っていると云った解釈も出来るのである。
 天皇や皇族(皇室)は「治」と「公」の二つの属性を持つと筆者が考えたのも似たような理由からである。天皇や皇族は、確かに政治的な発言が許されない。しかし、内閣総理大臣を任命するのは天皇だし、改憲するにしてもそれを公布するのは天皇であり、政治的な実権が無いとは言えない。また、天皇の国事行為や皇族の仕事は「皇務」とは書かず「公務」と表記される。美濃部達吉は「天皇機関説」を唱えたが、筆者は「天皇治公説」を唱える。「治公」のカーストの頂点に立つのが天皇陛下だからだ。
 また、公を「公務員」としたが、公務員に限定しなくても良いと考える。例えばNHKや日銀はどうだろう? 確かにNHKや日本銀行の職員は法的に公務員ではない。NHKは公共法人、日本銀行は認可法人である。だが、「民間の会社」と同列と考えるには少々無理がある。
 だから「公」を「公共」と考え、こうした国や行政が設立した法人職員を「公」と分類しても構わないし、あくまでも公務員じゃないことを重視して「正規職員」を示す「正」と分類しても構わない。

 全ての職業を分類するために『治公営正』を筆者は考えたわけではない。あくまでも「こういう物の見方が出来ますよ」と提示しただけだ。

 しかし、否定し難い事実は、もしあなたが社会的に認められたいならば、残念ながら『治公営正』のどれかに入らなければいけないことである。
 それ以外に人生の選択肢は無い
 何故なら、この世界に『治・公・営・正・不利多・認人』のどれにも該当しない状態など存在しないからだ。

カースト制度化する資本主義社会

 江戸時代はよく「士農工商」と称されることが多い。そして、この四つのカーストに入れられなかった「穢多」「非人」とされた人々は根強い偏見と差別を受けて、現在でも解決出来ない同和問題を引き起こしている。
 インドのカースト制度(「ヴァルナ」と「ジャーティー」)は士農工商と似ていると指摘される。かつては「士農工商」は江戸時代の身分制度を表す言葉とされていたが、「士農工商」はそもそも中国の言葉である。
 何故「江戸時代の身分制度」と一時期言われたのだろう?
 それは江戸幕府から大政奉還を受けて、政治の実権を握った明治政府が、「四民平等」を訴えたからである。安倍総理が「悪夢のような民主党政権」と発言したことがあるが、新しい権力者が実権を握ったら、過去の為政者の時代を否定することは昔から珍しいことではない。「士農工商」の言葉は、明治新政府が自分達の正当性を主張するために用いられたのである。

 リンクを貼った『インドのカースト「ただの階級でない」意外な真実』の記事には簡易なインドのカースト制度の状況が紹介されているが、こうした実態は日本にも起きていると云えるかもしれない。
 政治家の田村憲久氏の娘の田村真子がTBSのアナウンサーになったり、安倍晋三氏の甥がフジテレビ社員になったりしたが、報道機関のテレビ局に政治家の親族が入社したりする様は、報道の公共性や公平性において大きな問題点が懸念されるが、別に芸能人や有名人の息子や娘がテレビ局の社員になったり、アナウンサーになったりする採用は今に始まったことではなく、昔からこのようなことは幾らでも行われてきた。
 こうした現象は同族経営の会社に如実に出ることが多い。役員や幹部社員が経営者の同族や親族であるケースはもはや日常である。「親族じゃない」と云うだけで端から出世レースで負けている現実は、社会に出たら何も珍しいことではない。太宰治が『家庭の幸福』の中で「家庭の幸福は諸悪の本」と断じたが、血統や血族であることが優先される社会に、日本の資本主義社会も傾倒しつつあるのかもしれない。

 これらは、江戸幕府の親藩>譜代>外様と差別化した体制と変わりない。
 インドの「ジャーティー」の世襲的な職業(生業)に結びつけられたり、その内部でのみ婚姻関係が結ばれたり(内婚制)することも何処か似通り、連想せざるを得ないものだろう。
 あなたやあなたの子供が(将来この会社に入って働きたい)と考えても、「経営者の親族じゃないから無理です」「あなたの親が権力者じゃないからご縁が無い」などと云った理由で「お祈りメール」を貰うようになる時代が近付きつつある、いや既にそうなっている会社も少なくないかもしれない。

学歴フィルターのダブルスタンダード

 記事を執筆している最中、興味深いニュースが出てきた。

 マイナビの新卒向け採用サービス「マイナビ新卒紹介」が12月6日に送信したメールの件名が「<第1>大東亜以下➈」となっていたとして、複数のTwitterユーザーがメールの文面を投稿。「大東亜以下」が私立大学群の「大東亜帝国」(大東文化大学、東海大学、亜細亜大学、帝京大学、国士舘大学)の一部を指すものである他、「➈」がネットスラングで「ばか」を表す場合があることから、学歴フィルターが存在しているのではないかと物議を醸し、マイナビは事実関係を認め謝罪したそうである。

 マイナビは「学歴フィルター」の存在を未だに否定しているが、いい加減認めろよと思うし、そもそも「誤解を与えてしまったこと」ではなく「不快を与えてしまったこと」に謝罪すべきではないのかと思うのだが、どうやら「学歴フィルター」を問題視する今の学生は学歴でフィルタリングするのを物凄く嫌っているようだ。

 気持ちとしては分からなくもないが、じゃあ逆に自分が人を雇う立場なら今の学生はどうするだろうか? 
「学歴フィルター」を批判する人間達の矛盾は結局、此処にある。
 もし大卒の人間と中卒の人間があなたの経営する会社に応募してきたら、あなたはどっちを選びますか? 大卒を選ばない合理的な理由をどれだけの人間が答えられるだろうか?
 自分が人を雇う時は学歴で査定する癖に、自分が雇われる立場になったら「学歴フィルター」と断じて怒るわけだ
 正直、こんなことを問題視して騒動を起こしている時点で、僕が採用担当者なら「大東亜以下」の学生達を雇いたいと思えなくなってしまう。自分が大して勉強しなかったくせに、それで不採用にしたら文句を付けてくる奴を会社や採用担当者は雇いたいとは思わないだろう。
 そもそも「新卒」として優遇されている癖に、「学歴フィルター」と憤る筋合いが就活学生達の何処にあるのだろうか? 年を取ったら、正社員採用されるチャンス自体がほとんど無くなってしまうのだが……。

「就職」や「結婚」は差別でしかない

 拙著『抹察官』の第5話「最強! ブラックカーテン!」に小野寺吾郎という悪役を出した。
 小野寺は婚活をしているのだが、37歳の非正規の派遣社員で、女性から全く相手にされない。其処へ黒幕のブラックカーテンが出現して、婚活している女性全般を『売婚婦』と切り捨ると、彼にそそのかされた小野寺は、詐称した職業と年収に目が眩んでお見合いを希望してきた女性を殺そうとする。
 さて、小野寺は自分の職業や収入から女性に相手にされない男であって、確かに可哀想と云えなくもない。
 しかし、当の小野寺だって女性を容姿や年齢でフィルタリングしているに違いないのだ。小野寺は37歳だが、その小野寺が標的にした女性の年齢は22歳であった。
 男は女の年齢で、女は男の年収で、異性をフィルタリングして選抜する。
 この中には当然「学歴」を重視する人達も居るはずだ。「学歴差別」だと批判するのは自由だが、相手はあなたと結婚する義務など無いのだ。

 昔、結婚相談所のCMはテレビ・ラジオでは民放連の放送基準第109条に「私的な秘密事項の調査を業とするものは取り扱わない。」の規定があり、放送されていなかった。
 現在は「人権侵害や差別の助長につながるかたちで、個人情報を調査・収集・利用するものは取り扱わない。」と改正して、テレビ・ラジオでのCM放映が解禁された。

 しかし「恋愛や結婚とは、差別そのもの」である。
「君を愛する」は「他の女は愛さない」という「差別」である。
イケメンだから好き、ブサイクだから嫌い、「差別」である。
彼女は心が綺麗だから好き、彼女は性格が悪いから嫌い、「差別」である。
「差別」の対義語は「平等」だから、平等でなければ全て「差別」なのだ。
「正社員採用」と「結婚」は似ていると評されるが、どちらも所詮「差別」でしかない。

「差別」と云うと、どうしても不合理不条理に不当な扱いや人権侵害などを受けることと考えがちだが、「差別」と云うのは「物の違い」を表す言葉である。愛されたり、大切にされたり、優遇されたりすることも広い意味では「差別」なのである。「結婚=差別そのもの」と考える所以だ。

「採用」も「結婚」も、どちらも「相手を選ぶ行為」である。
「相手を選ぶ」とは、要するに「差別をすること」に他ならない。

 資本主義社会が「治公営正」の身分制度である以上、「就職」「結婚」も結局は差別の延長線上のものである。
 僕はこう考えるようになって、政治家や実業家、スポーツ選手や芸能人が物凄く綺麗で美人な女性と結婚するなんて報道を見ても、あまり羨ましいと思わなくなった。こうした男性達と結婚する女性は所詮「売婚婦」であり、その男が金持ちじゃなかったり、上級の治公営正の男でなかったりすれば、絶対に結婚などしていなかったに違いないからだ。

投資こそ我々に残された最後の平等である

 さて不幸にして、誇れる学歴も無く、大した治公営正にも就けなかった、僕達はどう生きれば良いのだろうか。
 答えは明らかである。

 投資をして、資産を増やすしかない。

「学歴フィルター」で弾かれた就活学生達は、投資の世界の圧倒的平等性に感謝するに違いない。
どんなに学歴が低くても、証券会社は証券口座を開いてくれる。
どんなに学歴が低くても、一部上場の大企業の株式を買うことが出来る
どんなに学歴が低くても、株主に一定の配当金を必ず支払ってくれる。

 一部上場の企業は、あなたを学歴で排除して、就職させてくれなかったに違いない。しかし、就職して給与を貰おうとした時は学歴で差別されて排斥されたとしても、学歴で決して差別されない株式を買えば、株主になれる。
 しかも自分よりも学歴では遥かに上回る経歴を持つ優秀な社員達が株主である自分のために会社の収益を上げて働いてくれる。

 投資の世界は、なんて夢があるのだろう。

 一生懸命資産運用を続けて、富を増やせば、あなたは資産家だ。
 資産家は「治公営正」の内、「営」に該当する。
 あなたはもう派遣労働者として中抜きされて搾取されることもなければ、非正規雇用労働者として下に見られることも無い、立派な正規階級だ。

 政治や経済を学べ、投資を始めろ、そして資産である「お金」を一円でも多く増やすのだ。
 二つくらいアルバイトを持ち、寝る魔も惜しんで我武者羅に働けば半年で200万くらい貯金出来る。
 筆者も月に最低10万貯金すると決めて節約し、貯金50万円から投資を始めた身である。
 投資こそ、我々がこの社会で生きていくために残された、最後の平等たる手段なのだ。

#お金について考えていること

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?