Battamong-ALISrawhide

面白法人の踊る総務・社長秘書・受付嬢、YOGAteacher 、バレエ

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最近の記事

Absence of ownership 所有感覚がないこと

今月のヴェーダーンタ勉強会。 ◆ヴァイラーッギアム「それをそれとしてありのままに観ること」対象物・人そのものが持っていない価値を、自分で上乗せしてしまうことがある。約束されてるわけではないから、失望や不幸を感じてしまう。モノのあるがままを知らずにそこにない価値を見ることを、アッデャーサという。私たちは、自分の記憶や知識・価値観といったプリズムを通して、世界を観ている。個の主観的な観方に、客観性を持たせていく必要がある。 ◆アハンカーラ「傲慢さ」「劣っているという意識」私た

    • Procrastination & dispassion 先延ばしと執着を手放す

      今月のヴェーダーンタ勉強会。 ◆嫉妬や嫌悪感を手放す嫌悪感や嫉妬が、内側の汚れになる。それらを溜め込むことで辛くなってしまう。プラティ・パクシャ・バーバナは、仏教徒の間ではよく知られる、嫉妬を祝福に変換すること。 嫉妬とは、相手が自分に無いものを持っていたり、自分に出来ないことを為していることに対して生まれる。つまり、相手の「それ」に対して、自分が価値を見出している。相手にそれがもたらされていることを、祝福する。この祝福を、バーバナという。私が嫉妬するもの=価値があるものが

      • Inner and outer cleanliness Saucham 内側と外側の清潔さ、シャウチャム

        ◆The volue of satyam 正直であることの価値 正直に話す(サッテャム)だけでは十分ではない。「正直」の第一段階は、話の内容と行いを一致させること。話の内容と思考が合致しているか。さらに、思考と事実が合っているか。 思考と事実との確認は、聖典の知識を自分なりに分析して話してみること。ディスカッションすることで、自分の理解のずれを発見すること。  言葉だけでなく、考えや振る舞い方すべてに気が配られてなければならない。「清潔」=シャウチャムが、より良い理解を与える

        • The volue of satyam 正直であることの価値

          ◆今回のテーマは、話すことの鍛錬今月のヴェーダーンタ勉強会。 正直に話す(サッテャム)だけでは十分ではない。話の内容と思考が合致しているか。さらに、思考と事実が合っているか。 思考と事実との確認は、聖典の知識を自分なりに分析して話してみること。ディスカッションすることで、自分の理解のずれを発見すること。 ◆謙虚さという価値(ヴィナヤ)と思いやり「私の身体も、何かをする機会も、与えられたもの」という理解があれば、謙虚さが生まれる。自分がしたこと・しなかったこと、されたこと・さ

        Absence of ownership 所有感覚がないこと

          タットヴァボーダ アートマンとは

          アートマン(自分自身)とは◆アートマン(自分自身とは何でしょう) 唯一なにも頼らずに自立して存在するのがアートマン。それがサッテャ(真実)であり、それ以外はミッテャー(自立して存在していないもの)。 考えは意識に頼って現れているからミッテャー。 この世界はどれくらいミッテャー(自立して存在しないもの)なのか?=自分自身以外はすべてミッテャーである。私自身に頼って存在する。 私たちの混乱は、「存在しないものを、間違えて”在る”としている」勘違いから生まれている。たとえば、ポ

          タットヴァボーダ アートマンとは

          タットヴァボーダ 「私」とはいったい何なのか

          「私」とはいったい何なのか「私とはいったい何なのか」→「私とは”全体”である」 という本質を、私たちは無知で見えなくなっている。だから突拍子もないとも思うし訝しく感じる。それを知識で「見える」ように明らかにするのが聖典。ヴェーダ(Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された。「ヴェーダ」は「知識」の意。前半は行いによって得られる結果について。「ヴェーダの最後」であるヴェーダーンタは、行いで得られないもの、つまり、知識で叶うこと=モークシャに

          タットヴァボーダ 「私」とはいったい何なのか

          考え・感情 と 私自身

          誰かを比較して自分は出来てない・足りてないと感じる。資格をとらなきゃ、家庭をもたなきゃ、稼がなくちゃ、●〇をしてこうならないと。。 「何かを得れば、心が平安になる」と考えがちで何かを手に入れようとする。新しいもので、自分を、考えを美しく飾ろうとする。気づかぬうちに、思考がどんどん浮かんで混み入って、レンガが重なるかのように高い壁が築かれてしまう。それが当たり前になってしまっている。さらに、思考や感情と、自分が一体化してしまう。 考えと私の間には、本来スペースがあって別物なの

          考え・感情 と 私自身

          Accomodation 許容する力

          ◆思いやりの発見 ヴィナヤ(「謙虚」という価値)。 「足りない」「もっともっと」という欲する意識でなく、漠然としてても「私の身体も、何かをする機会も、与えられたもの」という理解があれば、謙虚さが生まれる。だから、イーシュワラへの理解は、謙虚さとそこから生まれる思いやりに繋がる。=人間としての成長。イーシュワラを通して、世界を、物事を、客観的に観る。 ◆だれしもが罪悪感を持っている 秩序のなかで「そうせざるを得なかった」という理解が、自分にも相手にも思いやりを生む。自分の

          Accomodation 許容する力

          ジャパ瞑想② 思考と静寂の本質

          瞑想、特にジャパ瞑想について。端的には、短い言葉を繰り返す方法。ただ、「繰り返す」意味と目的を理解することが必要で、それを学ぶ機会をいただいた。無自覚に絶えず溢れ出る思考に対して、自分が「そうなってる」と気づく、そして思考の手綱を持つ手段であるということ。 ◆思考のはじまり思考と私は同化してしまっていて、始まりを探せない状態になっている。 両親からもその両親からも受け継がれていて、始まりを探すことにはあまり意味がない。「私という個人は、どこから始まったのか?」の解も同じく、

          ジャパ瞑想② 思考と静寂の本質

          ジャパ瞑想① 思考の手綱を持つ手段

          瞑想、特にジャパ瞑想について。端的には、短い言葉を繰り返す方法。ただ、「繰り返す」意味と目的を理解することが必要で、それを学ぶ機会をいただいた。無自覚に絶えず溢れ出る思考に対して、自分が「そうなってる」と気づく、そして思考の手綱を持つ手段であるということ。 ◆伝統的な瞑想の定義グナ(=質)をもつブラフマン=すべての源・作者であるイーシュワラ イーシュワラを想うこと=瞑想 瞑想には2つのステップがある。 ①個人が、全体=イーシュワラを想う (波はちっぽけと思ってるけど、波も

          ジャパ瞑想① 思考の手綱を持つ手段

          Discovering compassion 「思いやり」の発見

          ◆イーシュワラは、信じる信じないではなく「理解する」話題 イーシュワラは、天国のように見えないものではなく、今見えてるものであるから「理解すべき知識」である。表れているもの・空間・時間すべてがイーシュワラ、という知識の土台があって、理解すべきもの。「ここにあるものすべてはイーシュワラである」を否定するには、それぞれに対し分析して覆す根拠が必要になる。土で出来たポット→土→分子→原子→素粒子→・・・と遡るといずれの源も、映画を映すスクリーンのようなもの=行きわたっているイーシ

          Discovering compassion 「思いやり」の発見

          Benefit of knowing Isvara イーシュワラを知る恩恵

          今月のヴェーダーンタ勉強会 ◆自分とは何か?自分とは何か?  「意識」というスクリーンに、事物や「考え」が映っている。スクリーンとそれらとの距離は0。ゆえに、「 「私」は、全体にいきわたっている「意識」」と表現できる。通常は、”自分自身を制限する考え”によって、その認識が欠落してしまってる。「私=身体・考え・感情」と同化させていることで、制限が生まれ、有限になっている。その本質が理解できていれば、制限から解放される。 私たちは、何かを得る或いは何かが足りなくて得ようとする

          Benefit of knowing Isvara イーシュワラを知る恩恵

          The self is ananda -自分自身がアーナンダ

          ◆「行きわたった私」とは?「意識」とそれ以外の対象物には距離が無い。「意識」というスクリーンに、事物や「考え」が映っている。スクリーンとそれらとの距離は0。ゆえに、「 「私」は、全体にいきわたっている「意識」」という表現が成り立つ。「全てに行きわたっている意識」が、マインドフルネスの元来の意味。 皮膚で区切られた”身体”の内側を「私」と認識してるけど、それを越えた、自分の感覚が届かないところまで「私」だと理解できるか? 感覚器官で体感してることと本質の違いを、理解できるか?

          The self is ananda -自分自身がアーナンダ

          The self is all pervasive consciousness 「私」は、全体にいきわたっている「意識」

          ◆前回のおさらい・主体と客体の二元論  ・「知識」「意識」という言葉について 私=身体・意識 ではないけど、身体や意識(ここでいう「意識」は一般的な「意識」ではない)を纏いながら、この世界を経験していくのが「私」。 ◆「私」は、体でも心でもない「意識」=認識する主体であり、都度うかぶ「考え」は、「意識」に認識される「客体」である。つまり、「考え」=対象物。ヒンドゥー教では、”サット・チット・アーナンダ”という言葉がある。サットは”存在”、チットは”意識”、アーナンダは”至

          The self is all pervasive consciousness 「私」は、全体にいきわたっている「意識」

          Looking into Oneself ② 自分自身を見てみる。

          前回のおさらい 私は身体でもなく、身体を所有しているのでもない。この身体に一番近い存在だから管理を任されている立場。 じゃぁ、「私」ってなんだろう  ◆主体と客体の二元論自分=主体 それ以外=客体。実態が無いもの(時間や銀河、素粒子などもぜんぶ) 主体と客体の線引きは何か 一般的には「身体」で区別してる。となると、身体の真皮が境界線。その内側が自分。けど、身体=私 ではない。あまりに密接だから同一化して勘違いしてる。とはいえ、私=全体 という知識をそのまま日常に持ち込ん

          Looking into Oneself ② 自分自身を見てみる。

          Looking into Oneself ① 自分自身を見てみる。

          【前回のおさらい】You are not the owner of the body. ◆「あなたの体」は誰のものですか? ・ownerではなくmanager ・友人の車を預かったというイメージ ・掃除したりメンテをしたり、状態を保つ責任がある ・勝手に手放すこと・悪用は許されない ・自分のものだといちばん勘違いしやすいのは体かも ・自分と「役割」とを同化しがちなのと同様 ・自分のものだと思ってるから、執着したりコンプレックスをもったり。粗末にしてしまうのも、自分のものと思

          Looking into Oneself ① 自分自身を見てみる。