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The self is all pervasive consciousness 「私」は、全体にいきわたっている「意識」

◆前回のおさらい

・主体と客体の二元論 
・「知識」「意識」という言葉について

 私=身体・意識 ではないけど、身体や意識(ここでいう「意識」は一般的な「意識」ではない)を纏いながら、この世界を経験していくのが「私」。

◆「私」は、体でも心でもない

「意識」=認識する主体であり、都度うかぶ「考え」は、「意識」に認識される「客体」である。つまり、「考え」=対象物。ヒンドゥー教では、”サット・チット・アーナンダ”という言葉がある。サットは”存在”、チットは”意識”、アーナンダは”至福”。これら3つは、人の本質(真我)の3つの側面を言い表す。 多くの人は、「体と心が在ってそこに、自分という感覚が宿っている」と思い込んでいる。真理は逆で、「意識は、身体と心を認識してる存在」であって、意識というベースに、客体としての身体や考えが在る。

◆「意識」とそれ以外の対象物には距離が無い

言わば、「意識」というスクリーンに、事物や「考え」が映っている。スクリーンとそれらとの距離は0。ゆえに、「 「私」は、全体にいきわたっている「意識」」という表現が成り立つ。「全てに行きわたっている意識」が、マインドフルネスの元来の意味。

◆「それを知って、どうなるの?」は、知ったことになってない

水が入っているコップにストローをさして上から覗いてみると、ストローが水の中で折れて見える。実際にストローが曲がってるのでない。「光の屈折」という知識を得ることで、認識が変わる。見えてるものは一緒でも、知ってるのと知らないのとで違う。でも、知らなくてもそれはそういうものとして過ごせてしまう。ヴェーダーンタの勉強も、そういう類。資格の勉強などと違って、結果や明確なステージアップとして評価されるものではない。

◆なぜヴェーダーンタを学ぶのか

「知識」で以て、対象の扱いかたを知ることができる。例えば、自分の怒りが収まらないとする。自分=怒りと同化してしまいがちで、となると手のつけようが無くて対処しづらいけど。自分の感情や考えも、「私」にとっての対象物、管理物件だと思えば「こういう原因でこうなっちゃったんね」とか「あー、漏水トラブルだから、この栓を閉めて、次にここに連絡しよう」と対処法がわかる。わからない場合もある。でも少なくとも、ちょっとだけ客観的になれる。ヴェーダーンタの勉強をしてきて5年くらいだけど、日常ではまだまだ感情や考えと自分を同化しちゃうけど、でも、束の間、ちょっと距離を取って捉え直せる。その微細な反復の繰り返し。

◆「行き渡った意識」は、幸福をかんじるときに実感しやすい?

アーナンダ=”至福”。
アーナンダ(至福)は常に在るのに、「感情」という雲に覆い隠されることで見えなくなる。楽しさも悲しさも寂しさも苦しさも。楽しいという感情だったり、悲しいという感情だったり、寂しいという感情だったり、苦しいという感情だったり。アーナンダ(至福)を実感すること=貧富や所有に依る幸福ではない「幸せ」とは? >次回へ続く

◆次回への引きを、千春で想像する

「自分にとって一番幸せを祈りがたいけど、今まで一緒にいた時間に感謝して祈る!」という、成熟したエゴ。千春の『祈り』は、そういう歌だったんだ・・と。『祈り』というタイトル。最終的に祈りなんだ。。

歌詞

千春はああ見えてシャイなので、女性視点に置き換えた歌が多い。「行き渡る」ということからの「幸せ」ってなんなのか、次回楽しみに。

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