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Absence of ownership 所有感覚がないこと

今月のヴェーダーンタ勉強会。

◆ヴァイラーッギアム「それをそれとしてありのままに観ること」

対象物・人そのものが持っていない価値を、自分で上乗せしてしまうことがある。約束されてるわけではないから、失望や不幸を感じてしまう。モノのあるがままを知らずにそこにない価値を見ることを、アッデャーサという。私たちは、自分の記憶や知識・価値観といったプリズムを通して、世界を観ている。個の主観的な観方に、客観性を持たせていく必要がある。

◆アハンカーラ「傲慢さ」「劣っているという意識」

私たちは、何かを成し遂げたいし、これをすればこれを身に付ければこの学校に入ればここに就職すれば結婚すれば・・の連続で生きていく。根底には「今の自分には足りないものがある」。だから何者かになろうとする。意識的にも無意識にでも「比較」で生きている。でも、私たちそれぞれに与えられてるものは一緒。同じシャクティ(エネルギー、能力、努力、力、強さ、能力)を持ち、その使い方が違うだけ。たとえば、同じiPhoneを買っても使いこなせる人と限られた機能しか使わない人もいる。要は、優劣ではない。

自己尊厳と傲慢さは違う。自己尊厳=私は優れている・より優位でありたいと考えると混同してしまう。私が何かを得たい・何かを成し遂げたいとする根底にあるのが、”観念による抑圧”「いまの私は劣っている(から何かしなきゃ)」。傲慢さも優劣の意識も両方ともアハンカーラである。私が私そのものを正しく感じられなくなっている。真実は、「最初からすべてが在って、私自身が全体である」ということ。自分も含め「すべてがイーシュワラ」という知識で、アハンカーラを手放していく。

◆何事も「最低限」を知る必要がある

たとえば電話オペレーターなら、電話の掛け方と話し方などを知っている必要がある。同様に何事も「最低限」の適正条件が存在する。「すべてはイーシュワラ」は最低限の知識であり、かつ最大限の理解である。実用性という言葉は一般的に使われる。ただ、役立つ、という概念しかないのであれば。そこに客観性が無ければ、どこまでも主観である。ヴェーダーンタでは、実用的=客観的な見方を持つ生き方を指す。客観的な見方とは、ここにある全てを理解すること。だから、イーシュワラが何であるかを知ることが「最低限」かつ、ただ、それが全てなのである。

◆間違いを犯すこと・正すことができるのは人間だけ

人間に与えられた恩恵(特典)のひとつが、間違いを犯すこと。もうひとつが、それを正す能力。生まれながらの特典を、アビチャーラ・シッダという。動物には、人間ほどの自意識や他者との比較が無い。たとえ話として、ダックスフンドは恐らく胴が長いことをコンプレックスにしていない。自己尊厳も「取るに足らない」という間違った認識も、人間だけ。そして、間違いを正す能力もあるけど、それを使うには知識が必要。

あるがまま・個性・自己実現が声高に尊重される。ただし、それそのものが自己尊厳ではない。何か比較(階層社会・偏差値・ランキング)や不安をあおるマーケティングが横行するのは、自分のダルマを見失っている・そもそも知らないということがある。ダルマ(秩序)に沿った選択ができていること、自分のダルマを果たしていくこと。自分で自分を好きになれるかという問いかけにも、それがある。

◆「優劣」について、千春の話で考える

千春のコンサートには、身障者のかたもいらっしゃる。「お前が歩けないなら、おれが負ぶうから」「俺たちは誰でも障碍者なんだ。身体や精神障害はわかりやすいけど。みんな誰でも生きてるなかで、見える見えない、気づく気づかない障害(障碍)に立ち向かってる」「目が見えなければ見えるやつが教えてあげればいい。できないことは、それができるやつが手を貸してやる」
嘗て病気や身体的な特徴に対して、優劣からの差別が存在した(今も無くなっていない)。その「優劣」も、人の価値観が生み出したもの。私たちはどこまでも、比較と優劣に支配されていて。千春の「みんな障碍者」は、”与えられているものは同じなのに、見え方で違っている”の本質だと思う。

◆「何者かになりたい」について、千春の話で考える

コンサートツアーで歌われた『山の向こう』 
千春の故郷である足寄町は四方が山の弩田舎で、”山の向こう”に行けば夢もあるしお金も稼げると、思って生きていた。だけど、成功して金銭面で成功しても何か虚しい。本当に大切なものは、あの何もない足寄町で貧乏だけど家族全員が一緒に過ごせていた、あの原点だった・・という歌。

自分はちっぽけ・何もないといった「観念の抑圧」から、何かをしなきゃ得なきゃ・何者かになりたい・環境を変えれば自分も変われる・・と思い込んで行動する。ただ、場所を変えても何かを得ても虚しくて疲れてしまって、最終的に”最初からすべてが在った”と気づく。最後の歌詞の「間違う」も人間だけの特典。幸せは最初から「そこ」にあった=ただここに在るだけで幸せである。ということに、欲におぼれて気づけなかった
というところで終わる。


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