見出し画像

Bringing up achild 子育て

ヴェーダーンタ勉強会。

傲慢さと自己尊厳

傲慢さがない=自己尊厳が無い ということではない。
「わたしはダメだ、ちっぽけだ」という考えによる抑圧から、傲慢になることがある。抑圧からの自由が、自己尊厳である。
誰しも、肉体的・能力的・空間的な制限はある。それは優劣ではなく、単に違うだけ。その客観的な観方を知っているだけでも、なにかと比較で成り立つ世の中では支えになるのでは。

◆所有について

所有という観念が、自分を制限している。所有という感覚ではなく、「すべてがイーシュワラ」という事実から捉え方が変わってくる。それが最低限且つすべての知識。けっきょく、「イーシュワラとは何か」を色んな側面から捉えようとしている。

◆子育て

インドでは4歳半まで親が一緒に居たほうが良いとされている。子どもは御母さんを「イーシュワラ」=全知全能の完璧な存在 だと思っている。そうでない、と知ったときに傷ついたりショックを受け、それを閉じ込めたまま成長していく。

アナヴィッシュヴァンガハ=過剰な愛着が無いこと
アヴィッシュヴァンガ=執着のある愛

何に対しての執着か。
子どもや配属者、家庭、所有物、人。
インドも含め、大家族ではなく核家族が主となった。大家族では親ではなく祖父母が愛情を示していたけども、核家族では両親が明確な愛情を示す必要がある。愛情を示すことは、子どもにとって安心感として必要なもの。安心の中核。

子どもにとって両親は神。両親の喜びに貢献したくて、ハイハイしたり言葉を学ぶと考えられている。「他者の喜びに貢献する喜び」を生涯持ち続けるために、重要なステップ。だから、両親が子どもに対して愛情を示すことが大切。

◆4年半は子育てに専念しなさいという理由

「自分が置き去りにされた」「自分が良くないから見捨てられた。自分が悪いんだ」という傷を負う。虐待の事件も、子どもは「自分が悪いから、自分のせいだ」と思って受けているのかもしれない・・・。4歳~4歳半で、子どもが自分の認識のなかに御母さんを持てるようになる。それまでは子どもと一緒に過ごしなさい、という。仕事をするよりも、子どもをきちんと育てることが国への貢献になる。とのが、インドでの一般的な考え方。

◆「無意識」が人生をコントロールする

意識してることは、ある程度コントロールできる。無意識はコントロールできない。無意識は、その人の振る舞い方や価値観をコントロールする。たとえば「男の子なんだから女の子なんだから」も無意識に刷り込まれていたり。気づけることは訂正できるけど、無意識は表面化しないかぎり訂正できない。「無意識」になるものが深刻化しないように、子どもを安心下に育てることが重要。

◆過剰な心配

子どものことが四六時中心配で仕方ない=アティッスネーハ。
愛と労りは必要だけど、過剰な心配や依存は、親も子も内側を崩壊させてしまう。失う恐怖。目の前のことに執着していると、真実への気づきが失われてしまう。

所有に関しても、客観性が必要。たしかに「私はこの身体の所有者」という考えは身についてしまっている。しかし真実は、「この身体を預かって管理している。だけど、あまりに距離が近すぎて同一化している」。ある意味で、所有は必然であり、子も「所有」である。そこに労りや愛は必要だけど、過度な心配や依存は良くない。

子育てしてる人も子育てを終えた人も子育ての経験がない人も、誰しも自分自身が子どもだった。自分のなかに無意識にしまい込んでいるものがある。意識してないけど、「考え方の癖」が刻印されている。

ヴェーダーンタを学ぶことで、その無意識を、イーシュワラの知識を借りて、意識的にできる可能性がある。その無意識にかかえた対処を、子育てや自分自身に与えていく。勉強を進めていく中で、無意識から、悲しさ・苦しさ・罪悪感・みじめさetc.がポップアップしてくる。それは対処できるチャンス(少し客観的に観る術)を得ていることでもある。

私自身が、「表面化した癖に対処していくために時間をかけていくこと」が、カルマヨガである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?