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タットヴァボーダ 「私」とはいったい何なのか

「私」とはいったい何なのか

「私とはいったい何なのか」→「私とは”全体”である」 という本質を、私たちは無知で見えなくなっている。だから突拍子もないとも思うし訝しく感じる。それを知識で「見える」ように明らかにするのが聖典。ヴェーダ(Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された。「ヴェーダ」は「知識」の意。前半は行いによって得られる結果について。「ヴェーダの最後」であるヴェーダーンタは、行いで得られないもの、つまり、知識で叶うこと=モークシャについて説く。

タットヴァボーダの聖典としての位置づけは、”グーグルマップ”のようなもの。全体を把握する目的。ヴェーダとヴェーダーンタを物語化したのが、バガヴァットギーター。ただ、全体を把握しづらいため、タットヴァボーダと回遊する。全体が見えてないと不安になる、というのは、日常でも仕事でもそう。

聖典は、ひとつのことを明らかにしている。「私とはいったい何なのか」「私とは”全体”である」ということ。 全体がひとつ。時間も空間もふくめて、宇宙そのものがひとつの生命体。それをイーシュワラという。イーシュワラが教えてくれた言葉が聖典。聖典の勉強をしようとしてるあなたこそが、全体としての私である。

☆タットヴァボーダ=真実の知識。考えも身体も「道具」であって、=私 ではない。
あまりに近いのでどうかして考えてしまいがち。
ex.大きな波も小さな波もおなじもの。
「考え」というかたちを取ってるけど、元は一緒。波があなたですか?水はあなたですか? 
Who are you を突き詰めていく
☆サッティアム=「本当の」「真実の」。何にも頼らずに存在しないほうがサッティアム。 
波は水に頼って存在してるから、水のほうがサッティアム。

人体は7年間で細胞が全部入れ替わる。だから、それ自身は私ではない。私は生徒になったり社員になったりする。画用紙のうえには色々描かれて変わるけど、画用紙のほうは変わらない。意識が画用紙。帽子は取り換えるけど、被る人はそこにいる。

「全体」であることを忘れてる私たちに、イーシュワラが説いてくれるのが聖典。聖典という、知識を明かすための道具。
知識が起きているのは肉体(脳)ではない。
識別(考え)が起こっているのは、脳ではない。
死のとき、肉体を手放すけど、「考えのからだ」は別の世界に進んでいく。

ヴェーダの結論であるヴェーダーンタ。人の考えだけでは見えなかった世界を明かし始める。「知らない」ということは、「恐れ」になる。

☆ヴァースデーヴァ=自分の中に全てを住まわせてる人
☆インドラ=敬称


自分自身と自分自身ではないものとの識別

「私=●●」という考え方をしている
自分自身と自分自身ではないものとの識別を、ヴィヴェーカという。
モークシャの意味するところは、私=真実=自由。

考えかたの綺麗さ・整った考え=あるがままをあるがままに観ること 
を準備するのがヨーガである。すべきことをご機嫌にできる=ダルマに沿った生き方。

☆アディカーリン(適性のある人)がもつ4つの資質
☆ヴィラーガ=執着が落ちた平静さ
☆シャマ=妄想が落ちて、整った考えにあるゆとり

現れて消える波が本質ではなくて、水(海)のほうが私 である。
ブラフマンのみが永遠であって、それ以外はすべて時間に束縛されるもの
移り変わる世界に在って、ブラフマンを知ること。 「私自身がブラフマン」と知ってモークシャを得る。

その理解が無ければ、
物質的な探求=何かを得ることによって、安心を得ようとしたり。自分を変えようとしてしまう。ただ、「何か」は不変ではなく移ろい消えるものなので、すぐまた次の「何か」を得ようとして、延々と繰り返す。

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