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Benefit of knowing Isvara イーシュワラを知る恩恵

今月のヴェーダーンタ勉強会

◆自分とは何か?

自分とは何か? 
「意識」というスクリーンに、事物や「考え」が映っている。スクリーンとそれらとの距離は0。ゆえに、「 「私」は、全体にいきわたっている「意識」」と表現できる。通常は、”自分自身を制限する考え”によって、その認識が欠落してしまってる。「私=身体・考え・感情」と同化させていることで、制限が生まれ、有限になっている。その本質が理解できていれば、制限から解放される。

私たちは、何かを得る或いは何かが足りなくて得ようとする。ただし、得たものは有限なので、いつか失われる。ずっと続く「満たされない」。そこからの自由になること。とはいえ、自分はかぎりなく自分の身体と考えにくっついていて「同化」するかのように過ごしているので、難しいっちゃ難しい。ちょっとずつでも見方を正していく。

◆「信じる」と「理解する」の違い

伝聞などによる「間接の知識」と、実体験に基づく「直接の知識」がある。前者は実際に見聞きすることで検証可能でありつつ、そこまでせずに検証保留で信じるケースも多い。電卓の仕組みはよくわからないけど電卓の結果があってると思うのは、電卓への信仰ではなく「検証可能な知識」だからである。また、「検証不可能だけど信じる話題」もある。たとえば天国とか、検証は出来ないけど矛盾はしないから「信じる」という類。

◆イーシュワラは、信じるのか理解するのか

イーシュワラは、天国のように見えないものではなく、今見えてるものであるから「理解すべき知識」である。表れているもの・空間・時間すべてがイーシュワラ、という知識の土台があって、理解すべきもの。信じる信じないの類ではない。「ここにあるものすべては、イーシュワラである」は、「●●はイーシュワラである」の説明が個別すべてにできる。だから、「ここにあるものすべてはイーシュワラである」を否定するには、それぞれに対し分析して覆す根拠が必要になる。たとえば、土で出来たポット→土→分子→原子→素粒子→・・・と遡るといずれの源も、映画を映すスクリーンのようなもの=行きわたっているイーシュワラから表れてる と言わざるを得ない。という証明のしかた。

◆「神を信じます」と「イーシュワラについての知識を知りたい」の根本的な違い

イーシュワラは、植物学とか論理学とかでイメージしやすい、”知りたい”願望の対象。知りたい願望を持ちながら信頼していく、知識への専心と信頼を「シュラッダー」(知の分別)という。
一方で、それを知らなくても生きていくことはできる。花の名前や属性を知らなくても、日常は困らないのと一緒で。その知識を深めたいという願望はその準備が出来たという人だからであり、くわえて、日常生活のみに終始しない「ゆとり」も必要である。

◆イーシュワラへの理解で何が変わるのか

自分の能力や社会的な地位が変わるものではない。知らなくても過ごせる。
ただ、「違いを創る」といえば、それは必ずYESである。自分の、物の見方・受け取り方が変わるということ。変えられるところまでまだできなくても、今までになかった側面から捉え直せる、ちょっとした距離をつくれること。
 ※なぜヴェーダーンタを学ぶのか を参照

◆自分の考え方が変わったところ

自分自身がすべて「与えられたもの」で創られていて、身体も私が管理を任されただけで私のものではない。友人の大切な車を預かったから、丁寧にメンテするし気を付けて運転する。そのイメージ。勝手に傷つけたり廃車にしたりしてはいけない。その理論があって、「自分を大切に」の受け取り方も変わったとおもう。まだ大切にしきれてないけど。

◆タイパの貧しさ

『土佐日記」に書かれた「ゆとり」っぷりがやばい。●●さんが来たから旅路を戻る。爪を切ろうとしたけど爪を切る日じゃないから延期した・・。
それに比して「タイパ」の、出来る限り多くのことをと表層的断片的に情報を追っかけて行くことでの「貧しさ」とか、タイパ良さげにみえてやり直し買い直しとか。

◆ヴィナヤ(「謙虚」という価値)

理解や知識の程度の違いはあれ、漠然としててもイーシュワラや「私の身体も、何かをする機会も、与えられたもの」という理解があれば、謙虚さが生まれる。ダルマに沿った努力や研鑽は必須だけど、自分の力とか「これを達成した」とか自分の功績といった、「自分が」の意識じたいが驕りである。それに取り組む機会もそのための時間だけ考えても、すべて自分では作れないものなのだから。
ただ、このヴィナヤも、イーシュワラの知識が無ければ、謙虚でなく謙遜になってしまう。必要な知識があって成り立つもの。

◆ヴェーダーンタを、千春で腹落ちさせてみる

千春は自分のことを常々「天才」って言っちゃうし、『天才』ってアルバムも出した。強面豪胆なイメージが先行して謙虚と真逆にありそうに見える千春だけど、実際には、これほど「与えられてる」を自覚して生きていってる人も珍しいのではないかと思う。そもそも千春は、お母様が妊娠後期に事故に遭ったこともあって早産。産声を上げないわ股関節脱臼に小児麻痺。「子どもがかかる病気を全部持って生まれて」と振り返ってるとおり、短命の可能性もお医者さんから示唆されていた。手術を繰り返して成長するも、極貧の一家は、御母さんの出稼ぎを主軸に、千春が鉛筆や割りばしを売った日銭で、家族が卵一個とわずかな鶏肉で過ごす少年時代。直接的に「稼いだ報酬」や「貧しくても一家で一緒に過ごす時間」を”与えられてる”と理解していた。歌手活動47年を迎えた今でも「客が足を運んでくれるから、歌手をやってられる」「歌うことが俺に与えられてるから、全国の皆に元気を届けに行く」という発想になっている。天才だよ。。

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