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Healthy Response to both favorable and unfavorable situation好ましい状況と苦手な状況、両方への健全な対応
今月のヴェーダーンタ勉強会。
◆「無意識」が人生をコントロールする
意識してることは、ある程度コントロールできる。無意識はコントロールできない。無意識は、その人の振る舞い方や価値観をコントロールする。気づけることは訂正できるけど、無意識は表面化しないかぎり訂正できない。誰しも子ども時代を経て無意識にしまい込んでいるものがあり、「考え方の癖」が刻印されている。
ヴェーダーンタを学ぶことで、その無意識を、イーシュワラの知識を借りて、意識的にできる可能性がある。勉強を進めていく中で、無意識から、悲しさ・苦しさ・罪悪感・みじめさetc.がポップアップしてくる。それは対処できるチャンス(変えることはできなくても、少しでも客観的に観る術)を得ていることでもある)。
◆成功と失敗を等しく扱う
「この世界に現れてるものすべて、外も内もなくすべてがイーシュワラ」。
ヴェーダーンタの最終結論であり、それを「理解」するために様々な側面から語られる。知識が宿ることを、ニシュタという。
でも、「理解」は難しいし、「そういうものとして理解」したつもりでも、私という個人としてこの世界を認識する。「私=世界・イーシュワラ」という感覚で日常を送るのは、中々できることではない。「知識」が「理解」として腑に落ちていない。阻んでいる要因は「無意識」である。
◆イーシュワラと個の関係
弊社のガチャ店では、「鎌倉の空気」というカプセルを売っている。しっかり封をしている。とはいえ、中身は外側とおなじ「空気」である。
それと同様に、全体に行きわたってるイーシュワラが、個人・存在する個別のものに入っていて、見た目は「個」だけど同じものであるということ。
個人の中、感覚器官や考え方にも、イーシュワラが行きわたっていて、だから私とイーシュワラは同一である。
では、なぜその理解が難しいのか。それは、この世界を、そして自分自身を認識するために、「個」を区分しているから。自分とそれ以外、がなければ、自分を捉えることができない。
「私=この身体」という認識は、生存本能である。おなじく、人に認められたい・~を得たいという欲求も、「個」という観念があって成立する。私という「個」が生存を維持するために「個」という認識が必要だから、ニシュタは難しい。
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◆イーシュワラと繋がるためのカギ
【聖典バガヴァッドギーター13章9番】
「好みの物・嫌う物に対して、いつも同じく等しく受けとる考えの性質」
喜んで受け取る物・回避したい物は、一見対極にある。
でも、反応の仕方は実は似通っている。その共通点をサマットヴァムという。
「それが何であるか?」という認識がまずあって、知識によって反応の仕方が決まる。ということ。反応の仕方は当然違う。そこまでのプロセスが一緒ということ。
◆机上メモのむなしさ
紙に書いて貼ってあるメモ。それは「できない」から貼っているのであって、”不可能であることを知っている”から捨てることができない。貼ってあるうちは、実現していない、単なるアイデアである。ぐさっとくる。。貼ってあってもそのうちなんとも思わなくなる。それこそ「空気」のように。
本来、すべきことは与えられている。誰に?イーシュワラに。
状況は与えられている。行動は選ぶことができる。結果は選ぶことはできない。結果は様々な要因から「与えられている」。
行いの結果は、数多の法則・秩序によって取り計らわれている。それは物理学・数学・気象学さまざまな側面から語ることはできるが、同じものである。ヴェーダーンタでは、それをイーシュワラとして理解をする。
好ましい結果もそうでない結果も、イーシュワラから与えられたものとして等しく受けとる。微笑んで受けとることができなくても、与えられたもの=プラサーダ である。
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◆千春の言葉で考えてみた
私たちは生きていく中でなんでもかんでも、区別と比較とジャッジを必要としていて。自分とそれ以外。過去の自分と今の自分 etc.
千春が仰ってたのは「人生、チャラだって」。良いことも悪いことも嬉しいことも苦しいことも、均せば同じだけ訪れてる。いま生きていられてるなら、それだけで貴方は勝っている。
この言葉は、良い悪いというのは自分が決めてることを気づかせてくれる。
後から考え直すと、「ほんとに辛かったあの出来事は、けっきょくあのことに繋がったから良かった」となることもある。それを決めるのも自分。
なかには、戦争や病気、事故など、本人の認識を超えたことも幾らでもある。それでも、何に対して自分がどういうジャッジをしてるかに自覚的になれたら、見えない些細なことでも変わるかもしれない。そういった細やかな希望でもある。
現代の日本は、たくさん問題があるとはいえ、少なくとも戦争をしていなくて、最低限の衣食住が成立してる人が多数いる。この「平和」は当たり前では無くて、先代・先々代が人権や平和のためにがんばってきたから。
「今」という点だけ「区別」して観ていても、少子化・格差・幸福度・道徳といった問題は解決しない、と思う。
そういえばこんな話も。
『兵士の詩』で問いかけるのは「マリア マリア」だけど、千春は浄土真宗なので「ほんとは親鸞 親鸞 が正しい」そう。
各宗教に怒られそうだけど、所謂「神」という「全体」の表現の仕方の違いなのかなと。(偶像化・多神教かとかいろいろあるが)
「全体という理解」を阻む「個という認識」。それは「知識」の反復で、都度、戻ってくることなのかなと。ヴェーダーンタを学ぶことで、意識的にできる瞬間をもてる可能性がある。
それは対処できるチャンス(変えることはできなくても、少しでも客観的に観る術)を得ていることでもある。私自身が、「表面化した癖に対処していくために時間をかけていくこと」が、カルマヨガである。
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