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共にあること

青凪です
二回連続投稿は初めてですが、最近考えることが多いので、たくさんここで消化しようかとまた書きました

昨日、『ONE DAY』という映画を観ました
17年間、友人として生きてきた男女の愛の物語なのですが、それがとても感動的でラストは終始泣いていました

ネタばれはしたくなのでぜひこれを読んで気になった方はチェックしてみてください

愛の物語と書きましたが、文字通りこれはただのラブストーリーではなくて、誰かを愛するとは何かを教えてくれる映画でした

特に僕にとって印象的だったのが、彼らが長い年月友人として関わっていた事です

僕はかなりの寂しがり屋なので、好きな人とかがいるとずっとその人といたいと思う(逆に言うと離れていると不安定になる)タイプなのですが、離れていても友人だとしても、誰かを想って、大切にして、愛している人をたとえ物語の中だとしても目の当たりにして、自分はまだまだ子供だなあとつくづく思いました

僕は簡単に愛しているとか好きだとかという言葉を人に言うのが苦手で、その理由がその言葉の意味をまだ理解していないと分かっているからなんですよね
だから、無暗に使うと意味を間違えているからこそ、相手を傷つけてしまうかもしれないと思うんですよね
人なんて移ろいゆくものじゃないですか、感情や想いもそうです

でもこの映画では17年間一度も移ろわなかった愛があったわけです
それを観て僕は思いました

一人になる時に人は人を愛することができるのではないかという事です
誰かを好きになると、その人とずっと一緒にいたいと思うと思います
それで会えないと寂しく思ったり、つらくなったり
一人になりたくないと思います

でも、誰かを愛するというのはそういう会えない時に、一人でいる時に
その人がそばにいると思って、その人に恥じない自分でいる事なのかなと思いまいました
結局、どれだけ幸せでもいつかは死を通して必ず愛する人とは離れなければなりません
だから私たちが誰かを愛するという事は、同時に大切なものを失う運命を背負っているわけです

だけど、その人がいると思って生きると愛する人は自分の心の中に一生いるわけです
どんなに寂しくとも辛くとも、孤独になることはないのです
それはとても難しい事だと思います
でも難しいからこそ、愛おしく価値のあることでもあると思います

その人と共にあるという事、それは物理的に一緒にいる事ではないと思いました
そうではなく、自分の心の中に常にその人がいるという事だと思います
この「共にある」という事はまだ私には分かりません
孤独に押しつぶされたり、寂しさに飲み込まれてしまうから
仮に大切な人がいなくなったとしても生きていけるとは思えません

でも、共にあることと愛することは、自分の人生を使って学びたいことだとこの映画を観ながら心から思いました

僕がしたいのは恋愛ではなくてこれなんだなと気が付けました

ここまでくると同義語になる「共にある」と「愛する」という言葉は、始まるのに他者を必要とするが、自分一人で完結する行動だと思いました

そこまで誰かを素直に純粋に想えるというのは何とも愛おしく綺麗なことでしょうか

僕はそういう人になりたいです
そういう風に生きたいです

僕はもう大切に想っていた人を何度も失ってきました
その中で、愛することに臆病になったり、愛するという意味を分かっていなかったことに気がついたり、たくさん傷つけて、傷ついてきました

でも、まだこれからだなとも思いました
時間をかけて、もしかしたら自分も17年間かけて誰かを愛するという事を学べるかもしれない
誰かと共に生きられるかもしれない

そんな人生は僕にとって幸せだなと思いました
誰かを想い続けること
結局僕たちにできることはそれだけで
星の王子様で言うように、見えないものこそ大切なんですよね
その人にかけた時間と労力がその人を特別にしてくれるなら
その人と共に生きる事で、誰よりも何よりも大切な存在にしてくれるという事ですね

その時、その人が例えいなくとも自分の心は豊かになると思います
失う事を恐れるのではなくて、失うことを受け入れる
大切な人は目の前にいるのではなくて
心の中にいる

そう気づくことが愛するという事なのかもしれません
それは恋人や夫婦だけではなくて
親や子、友人にも言える事だと思います

悲しみも抱きしめて、寂しさも抱きしめて、痛みをも抱きしめて
愛していたからこそ、そう思えると実感する事
その愛おしさに到着する事

そういうことなのかもしれません
まだまだ僕の学びは始まったばかりです

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