振り返るコト 2

長い。我ながら長くなりすぎだ。

小学校を卒業し、地元の公立中学校に入学した。1学年8クラス+特別支援学級1グラスの超マンモス校。1学年約300人。全校会わせると1000人規模となる。月1の朝礼なんかは今話題の3密と化す。

中学3年のうちまともに教室に行ったのは1/3も満たない。半分はそもそも登校すらしなかった。

いじめが酷かったからだ。

https://note.com/albino0108/n/n57234c2078ed

ここにも少し書いているが3年間いじめられていた。中3になると陰湿で分かりにくいなものにシフトしていった。内申に響くかららしいけど。

それまでは階段から突き落とされる、チョークの粉を給食に入れられる、虫の死骸が教科書に挟まってる。水槽の水をかけられる。プールの授業で沈められる。などなど上げだしたらキリがない。

登校を渋り、モノがなくなり、汚され、破損されるコトが増えた。いじめられてることを親に言えたのは学校に行きたくないと泣いた朝だった。それでも母は学校まで私を文字通り引きずっていき、保健室で教室に上がりたくないと泣き叫んだ。学校側もいじめの事実は把握していたが誰が何をしたかまでは分からなかった。それだけ多くの同級生が何かしらしていたのだ。些細なことから大きな事まで。現行犯でしかおさえられないのもあり、私をいじめてるのは複数人であることまでで止まってしまった。

事態が悪化する決定的な日が来る。

1年生冬ごろだった。担任は帰りのHRで私を前に呼び、立たせた。「皆さん机に伏せてください」

「アルブミンをいじめてるのは誰ですか?」

1番喰らいたくないパターンだった。当然誰も手を挙げない。あたりまえだ。

誰も手が挙がらないことが予想外だったのだろう、これまで私の上履きがトイレから出てきましただの、ノートが破かれてましただの、机に落書きされてましただのこれまでの事案をしゃべりクラスの生徒に訴えかけた

「アルブミンさんはいじめを受けてひどく傷ついてます。皆さんの誰かがこのようなことをしたと私は考えてます」

もうやめてくれ。傷口を抉られ塩をすりこまれるようだった。やがて学級委員の子が「先生、委員会の時間が迫ってます」と言いHRは終了となった。

後日クラスカースト上位の女子軍団に「何チクってんだよ」とぼこぼこにされたのは言うまでもない。

これまで私は先生に「誰から何をされた」とチクったことはない。水槽の水をぶっかけてきたのも、ごみ捨てや掃除当番を押し付けたのも、雑巾を投げてきたのも誰なのか知ってはいる。直接やってきたわけだから。

でもチクったところでしらばっくれられたら、やったやらんの水掛け論だし、何より「誰が何をした」ってことを知ってるのは加害者と被害者側の自分しかいないから悪化するのは目に見えていた。

モノが隠されるとか、提出物が抜かれるは誰だか分からなかったが、大半のは1年生の時のクラスメートだった。カースト上位の女子とその取り巻きと同じ部活の子達だった。取り巻きの友人たちや同じ部活の子が他のクラスにいるのでクラス替えをしても特にかわりなかった。そもそも上位女子や男子は部員の多い部活だったりするので尚更である。

母は何度も学校に掛け合い、いじめの根本的解決を願い出たが、学校側も特定の生徒だとわからない限りは「いじめてはいけません」「いじめ対策キャンペーン」など焼け石に水のような回答ばかりだった。いくつかの部活が強豪で進学校や有名大付属への輩出も多く、公立中学校だがブランド化させていた。世間体とかもあるのだろう。特に中3の担任をして受験で難関校などに進学させると次年度の人事は優遇されるなどまことしやかにそんな噂が囁かれていたのだ。本当か嘘かはさておいても。

2年生はほぼ教室にいかなかった。ODしたり(バレなかったが)リスカしたり(バレた)と「私が死ねばいいんだ」と泣き叫びまくり、母親が折れた。別室登校や不登校でも許してくれたのだ。死なれるぐらいなら。

祖母はなにも言わなかった。もしかしたら、自分が子育てしていたときのいじめと違うからなにも言えなかったのかもしれない。ネットとかなかったしね。

いじめの事実は父も知っていた。だが「いじめられるお前にも原因がある」「どこにいってもいじめはある」「社会や会社はもっと厳しいんだぞ」「心を強くもて」と星一徹ばりの精神論で来た。心持ち云々はわざわざ本まで買ってきた具合だ。赴任先が離れており、そうそう顔を会わす機会がなかったのはありがたかった。中2の時に祖母は仕事を辞めた。雇用の更新をしなかったのだ。それから家にいるため自分の気にくわない母の家事をやり直す事が増えた。

その頃から不登校していたので自宅で家事をしていた。祖母がやり直すぐらいなら。と

ただ学校に行かない事に関してはなにも言わない祖母が逆に怖くなり、次第に別室登校をし始めた。教室には行かず保健室や別室登校用の教室で過ごしていた。引きこもりとかにならんかったのはこのお陰かもしれない。何だかんだで8:30までには登校していたから。

授業なんぞ出ていないので勉強なんかまーーーったく分からなかった。あたりまえだ。塾にも通っていたが基礎が脱落してるのに成績なんぞ上がるはずもなく、中3を迎えた。地元から少し離れた底辺偏差値の私立を単願で受験しテストらしいテストも受けずに合格した。


高校で入学した学科は1クラスしかないので3年間クラス替えはない。つまりここでしくじったら同じ3年間をくらう

そこで私は都合の良い便利な人を演じた。忘れ物は快く貸し、課題の片付けを手伝い、友人たちの悩みや愚痴を聞き、お菓子やジュースを時折おごり、誕生日にはプレゼンとを用意する。絆創膏やソーイングセットを持ち歩き、世話を焼く。相手にとって有益な自分になれば切り捨てられることはない。そう思いいろんな事をした。一緒に怒られることもあったし、色んな所にもいった。世話を焼くちと不器用なキャラが定着しカーストの枠外でフラフラ過ごしていた。スポーツの助っ人を頼まれたら下手だけどそれでもよければと引き受けたりした。本当に運動音痴なので勝ち負けより私の間抜けっぷりが面白い様でウケた。そんなんで3年過ごし、先生と学歴主義の父から大学進学を進められ、Fランにも程がある無名の私立大学に進んだ。推薦で。小規模だったので同じく世話を焼き、レポートを代筆し、代返したりもした。1人暮らしの友人と宅飲みして手料理を振る舞ったのも1度や2度ではない。風邪ひいたと聞けば熱さまシートやゼリーやらポカリやらを届けに行った。高校と大学で友人が多くできた。私みたいなのにも仲良くしてくれる人ができた。

高2ごろから祖母が体調を崩した。精密検査を受けると進行性の大腸癌だった。肺にも転移していた。祖母は昔結核になり片肺を全摘している。その残った肺を癌は蝕んだ。手術で大元の大腸がんは取ったが肺の転移は徐々に広がっていった。

はじめは外来で抗がん剤の化学療法を受けていた。だが副作用に苦しみ、徐々に体力を癌は奪っていった。入退院を繰り返していたがとうとう自宅療養が困難になり緩和ケア病棟に入院した。大学1年の梅雨前だった。そこからは坂を転げ落ちるかのごとく衰弱し、盆前には下顎呼吸がみられるようになった。

母は祖母が入院をきっかけに少し明るくなった。ネチネチ言う人が居ないから。あたりまえだ。ただ、ストッパーも外れたようで買い込む癖は更に増していった。

8月下旬祖母が亡くなった。母はとても泣いた。息子である父や娘である叔母より。中3の春に母の父(祖父)が亡くなったときは祖母は涙一つ見せず、葬儀で焼香をあげるなりさっさと帰ったというのに。母はとても優しい人だ。23年娘をしていて十分知っているが、詰られ、いびられ続けた祖母の死を誰よりも泣いて弔える人なのだ。

学校生活はというと、高校でも大学でも中学校のいじめられていたことを笑い話として酒の肴にした。吹っ切れていたと思ってた。実習をどうにかこうにかやりきり、何だかんだどひんひん呻きながら就活と国家試験を乗り切り、卒業を迎えた。

祖母の死後父は更に帰るのを減らすようになった。LINEで母の不満を私に漏らす頻度が増えた。母は正規として働きだし、家事の担当が私になりつつあった。正直嫌だった。バイトや講義で遅くなる日々。就活やら国家試験、卒論で忙しいのに家事をこなす負担。1人暮らしの広さならまだしも、ファミリー向けのマンションである。溢れかえるモノが家事を阻む。色んな理由をつけて地方で就活した。

実家に居たくない。親戚も厄介だ。何より疲れたのだ。

新潟行きの切符を手にして1人暮らしを始めた。

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