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【ファンタジー小説部門】ぜんぶ、佐野くんのせい(第19話)#創作大賞2024

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第六章 すべてを見通す目

 両手を頭の上でゆっくりと合わせ、目を閉じて三回深呼吸を繰り返す。横隔膜が十分に上下するのを感じながら体を前後左右に動かし、最後に胸の前で合掌の形を取ると、星来はスッキリしたように目を開けた。

 朝日が眩しい。買ったばかりのランニングウェアは着慣れていなくて、肌にまとわりついてくる感じがある。しばらくしたら馴染むかな、とぼんやり思いながら、星来はゆっくりと走り出す。

 休日は朝活すると決めていた。四時には起きて、白湯を飲みながら一時間ほど勉強に集中する。それが終わったらランニングだ。程よく筋肉がほぐれるのを感じたら、帰ってきてから十五分ほど読書をする。

 今読んでいるのはラテンアメリカ文学の短編集だった。手軽に読める幻想文学を探していたら、市立総合図書館でフリオ・コルタサルの『遠い女』を見つけた。

 幻想文学が好きなのは、きっと私自身が幻想の一部だからだわ、と星来は思う。物心ついた頃からずっと違和感があった。現実の世界にいながら、ふとした瞬間にすべてが作り物だと気づいてしまうような奇妙な感覚。

 私は大いなる「意思」にとっては完全に都合のいい操り人形で、すべてが仕組まれている。透視能力だって、私が特別だから与えられたわけじゃない。けれど、私は「特別」という役割を与えられ、特別な人間のように振る舞わなければならない。それが大いなる「意思」の望みだから。

 なら、私は抗わず、流れに身を任せるだけ。だってそのほうが楽しいし、自由な感じがする。違和感に気づいているのに気づいていないふりをしながら、私は私の役割通りに今日も早朝ランニング。さて、今日はどんな出会いがあるかしら。

 いつものルートを、今日は思い立って変えてみる。特に意味はない。何度も連続で同じ道を走ることもあれば、気まぐれに変えることもある。

 住宅街を抜けて商店街のある大通りを渡り、川沿いの遊歩道を走る。等間隔に植えられた桜の木の所々にベンチが設置してあるが、まだ早朝とあって誰も座っていない。

 星来は立ち止まり、少し休憩しようとベンチのほうへと向かった。その時だった。近くの桜の木の下に、モコモコしたかたまりのようなものが落ちているのに気づいた。近づいて恐る恐る見てみると、それはキジトラ模様の猫だった。

 よく見てみると首の右側が血で汚れ、同じく右前脚の付け根付近は毛皮が抉れたようになっている。微動だにしないので、一瞬死んでいるのかと思ったが、星来がしゃがむと、猫はニャーンと力なく鳴いて首を上げた。可哀想に、左目の下は皮膚が剥離している。

 まるで「痛いよ」と呻いているようだった。
「かわいそうに……」
言いながら、星来は首に下げていたスマホで月子に電話をかけた。
ちょうど起きたところらしく、月子の声はガラガラだった。

「どうしたの?」
「ママ、緊急事態!」
「緊急事態?」
娘の声にただならぬ様子を感じ取った月子は、急に声のトーンを変えた。
「瀕死の猫を見つけたの。今N川の遊歩道にいるんだけど、すぐ来れる? キタニスーパー側ね!」
「容態は?」
「結構重傷かも。右頸部におそらく動物による咬傷。同じく右前脚の付け根付近に皮下組織にまで及ぶ傷があるわ。それから、左目の下は皮膚がちょっと剥がれてる」
「とりあえず向かうわ。詳しく場所教えて」
星来はスマホを耳に当てながら辺りを見回した。
「矢野整骨院の近くよ」

 月子が車で現れたのはおよそ十分後だった。よく見ると寝巻き姿のままだ。勝手に整骨院の駐車場に車を停めて、トランクから捕獲機とグローブを取り出している。

「ママ、ここよ!」
星来は立ち上がって大きく手を振った。月子は捕獲機を抱えるようにしながら蟹股歩きで堤防を上がってきた。
「よく見つけたわね」
手早くグローブを装着し、言うが早いかあっという間に猫を捕獲機に入れる。弱っている猫は抵抗もせず、ただ怯えたようにか細い声で鳴くだけだった。

「大丈夫よ、猫ちゃん。狭いけど我慢してね」
月子の声に反応して、猫は耳を低く倒している。捕獲機の中からでも黒目がフワァっと丸く大きくなるのが見てとれる。

 車に乗り込むと、急いで自宅兼動物クリニックに向かった。すでに院長である父親の朔郎が鍵を開けていてくれた。
「パパ、連れてきたわ!」
月子は星来の前では自分の夫を「パパ」と呼ぶ。
「準備できてるよ」
オペ室から顔を覗かせ、朔郎は手招きした。

 クリニック独特の匂いに恐怖を感じたのか、今までおとなしかった猫が引き攣った悲鳴のような鳴き声を上げ始めた。
「大丈夫よ」
星来は母親から受け取ったグローブをはめて、捕獲機の中から慎重に猫を引っ張り出した。

「見える?」
と月子。
「待ってて」
そう言うと、星来は暴れようとする猫を抑えながら、その身体の一点に意識を集中させた。瞬きするよりも早く、全ての情報が星来の頭の中に満たされてゆく。

 コップの水を別の容器に移し替えるのとなんら変わらない。そこにコツなんてものはなく、ただこぼれないように意識と無意識のあわいのようなわずかな集中を置くだけのことだ。

 透視した情報は、星来にはすべて写真のように見える。解像度の高いくっきりとした静止画像だ。人間なら、衣服の下の裸体は毛穴まで見えてしまうし、さらにその奥の皮下組織や筋肉、内臓も目の前にあるかのようにすべてがクリアに見える。

 傷ついた猫の内臓に損傷はなかった。腫瘍の類もない。膀胱に炎症が見られるが、さほど深刻なものではない。表面だけの傷で済んでいるが、それでも右前脚付け根から縦に走った深い傷は、皮下組織にまで達していた。目の下の傷や頸部の咬傷もいつ化膿してもおかしくない。

「内部損傷なし。外傷だけよ。飼い猫なのかしら……。避妊手術は済ませてあるわね」
星来は猫から朔郎に視線を移す。
「よし、じゃあ早速取り掛かろう。月子、麻酔の準備をよろしく」
朔郎が言うより早く、月子は動き出していた。

 両親による緊急オペが始まる中、星来は自宅に戻った。動物クリニックには時間が許す限り協力するようにしている。レントゲン撮影による動物たちへの被曝は極力抑えてあげたいし、慣れない場所で知らない人間に囲まれるストレスも最小限にしてあげたい。

 軽くシャワーを浴びてパントリーから常温のミネラルウォーターを取り出すと、星来は二階の自室に上がって読みかけの小説を開いた。


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