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学而1-2 で あそぶ

『有子いわく、その人となりや孝弟にして、しかも上を犯すことを好む者は鮮(すくな)し。上を犯すことを好まずして、しかも乱を作(な)すことを好む者は、いまだこれ有らざるなり。
君子は本(もと)を務む。本 立ちて 道 生ず。
孝弟なる者は、それ仁の本たるか。』

「親とか先生、上司・先輩に対して すなおなヤツで
 いちいち相手のマウントをとったろってヤツは 少ないやん?
 先輩との立ち位置逆転を望まんヤツ で
 いちいち波風を立てることを望むヤツはおらんて。
 平和な社会を望んで まっとうな人間でありたいと望むなら
 まず 人としての根っこをまっとうなものにする努力をせな。
 根っこがまっとうやから 積み上がってく道が大きな道になるんやで。
 相手次第でいちいち文句言わんと 
 相手が望むように素直に我が努力に努めるっちゅうことは
 色んな人をおおらかに包み込む まっとうな人間になるための
 基本やで。」

これ読むと、「仁」というあり方の中に、「乱れを生まないこと」が重要要素として含まれてんねんなーということを感じる。
一方で、現代の企業・組織で生きてると、「健全な?乱れ」はイノベーションや新たな展開を生む「可能性」とも思われ。
上下関係、長幼関係を守り、社会に「ランク」を明示的に埋め込むことで秩序・安定を生む方向感は、スッとは僕の腹に落ちずモヤモヤする。

とはいえ、孔子たちの生きたのは春秋時代。
諸侯の覇権争いが続き乱が常態の時代。
「乱」の意味するところ・影響が、現代とは全然違うことを前提として、
彼らがいかに秩序や安定が生まれうるか?、秩序・安定が生まれるその根っこ=もとは何か?の探究にもがきぬいたことはいたく想像できる。

ひとりひとりの生き方・認識の「どこに焦点を当て、磨きぬけば」、結果として秩序・安定が生まれるか?

みんなで「原発のない社会にしよう!」なんてビジョンを掲げても、一人一人が「とはいえ、俺の使う電気は減らさない前提でー」なんて行動をしていては「原発のない社会」は到来せず、仮に「原発の無い状態」が訪れたとしてもその分の電力生産の歪みを一見耳障り目障りの良い別のどこかに寄せただけになることは想像に難くない。
でも、僕も含めて人間なんて弱いもので、自分に都合の良いことは止められず。。。

結局一人一人の行動の集積が「社会としての、ある時点のある状態」を規定するわけで、「秩序・安定が継続する」前提となる行動は何で、その行動はみんなが何にどんな認識を持てば持続するのか?を彼らは議論しつくしたんやんね。

ひとつひとつの「行動をルール化」するのではなく、「行動のもととなる認識」に焦点を当てるところに、「人間の可能性への期待」を感じません?
単に法律で行動を縛るのではなく、ひとりひとりが「人間として高次な状態に至ろう」という願いや期待を。(とはいえ、その認識を行動として表現するルール=礼 も彼らは強調しますけどね。)

もちろん、現代は法治の時代で、法の有用性は十分に感じながらも、国会での法律の扱われ方や、ネット上に溢れている各種規約の大量の条文なんかを見るにつけ辟易とするのも事実。
法か人か、ではなく法も人も 塩梅よくでいいんだと思う中で、人が人をより信頼できれば法の数もあり方も変わるんじゃないかという期待が生まれる。

と、ここまで考えると、
まぁ人間なんてほうっておいても自己表現はしたいし、競い合うし、なので、仮に基本が上下・長幼の孝悌に置いてあってもはみ出す人ははみ出すわけで。むしろ、上下・長幼の孝悌が良しとされる中でもはみ出すくらいでないとモノになんないと思えば、孝悌を仁のもととしてまずは大切にしようっていうのをベースに置いておくのは社会前提としての安定装置としてマルじゃないか?って気がしてきた。



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