安芸侑子

少しずつ、言葉に残しておきたいことがふえました。 思いついたことをかける場所を作ってみ…

安芸侑子

少しずつ、言葉に残しておきたいことがふえました。 思いついたことをかける場所を作ってみました。 形になるかどうかは私次第です。もしお目に留まったら読んでみてください。

最近の記事

我は海の子

我は海の子 白波の さわぐいそべの 松原に 煙たなびく とまやこそ 我がなつかしき 住家(すみか)なれ 暑い。 本当に暑い。 其の所為か、「我は…」と歌いだすと、こちらのメロディーになってしまう。 本当なら、「琵琶湖周航の歌」より先に紹介すべきだった。 「我は海の子」 夏、そのもののような歌だ。 大正三年に刊行された「尋常小学校唱歌」に収められた一曲。 懸賞公募によって選ばれた宮原晃一郎という方の作品だ。 この時代の作品の持つ文語調の言葉の連なりが、私はとても好きだ。

    • 我は湖の子

      梅雨が始まる前に夏が来たような陽気が続く。 少し、爽やかな気分を味わってみようか。 われは湖(うみ)の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧(さぎり)や さざなみの 志賀の都よ いざさらば           「琵琶湖周航の歌」 大正時代、第三高等学校(今の京大)のボート部の学生であった方が、 琵琶湖での合宿中に詩を書かれ当時あった曲に乗せて歌ったものだという。 それはそのまま受け継がれ、 現在も京大のボート部部員によって歌い継がれている。 私は歌を二番ま

      • 鳥にしあらねば

        梅雨になりそうでならない、どっちもつかずの気候が続いている。 色々と事が続いて、落ち着かない日々を送ることになっている。 世間(よのなか)をう(憂)しと恥(やさ)しとおも(思)へども  飛び立ちかねつ鳥にしあらねば   世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆 そんな時に思い出してしまう歌。 万葉集後期の歌人、山上憶良「貧窮問答歌」の反歌。 ここであえて現代語を必要とするのは「恥し」の部分のみ。 「つらい」と訳されることが多い。 鳥のように空へ。

        • 野分

          季節外れの台風が近づいてきているらしい。 台風は秋の季語なのだが、「野分」として思い出してしまったのでつい書いてみることにする。 「野分(のわき)」とは台風の古称。 二百十日の頃、野の草を吹き分ける強い風を指している。 二百十日は立春を起算日として210日目、およそ9月1日頃の事である。 間違いなく秋の季語なのだが、もう、近づいてきているらしい。 「野分」は源氏物語の第二十八帖の題名としても知られる。 野分が吹き荒れる日、源氏の息子である夕霧は初めて義理の母である紫の上を垣

          甍の波と

          甍(いらか)の波と 雲の波 重なる波の 中空(なかぞら)を 橘(たちばな)かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり      作詞:不詳/作曲:弘田龍太郎 五月の空に相応しい曲を一つ。 こいのぼりの歌は「屋根より高い」で始まるほうが一般的かも知れないが、 私はこちらを推す。 文語調とでもいうか、格調高く歌い上げる様が清々しい。 「橘かおる」 この文だけで爽やかな木の香の中で、 澄み渡る青空を仰ぎ見る心地がする。 「甍」とは瓦屋根のことだと思っていたが調べてみると諸説ある。

          道程

          僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る ああ、自然よ 父よ 僕を一人立ちにさせた広大な父よ 僕から目を離さないで守る事をせよ 常に父の気魄(きはく)を僕に充(み)たせよ この遠い道程のため この遠い道程のため        『道程』  高村光太郎 完璧な言葉。 完璧な音。 高村光太郎の詩は何故ここまで心に響くのだろう。 この詩を紹介する以上どうしても共に伝えたい絵がある。 《道》1950(昭和25)年制作・東山魁夷 42歳 紙本・彩色 134.4cm×102.2cm/

          あかねさす

          あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 「茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流」 私を古典の世界へ引きずり込んだ元凶ともいえる一首。 何処をとっても瑕疵の無い、暴力的なまでの感覚。 風景だけでなく、そこに感情を込め静かに強く歌い上げる。 「万葉集」巻第一 二十  天皇(すめらみこと)、蒲生野に遊猟(みかり)したまう時に、 額田王(ぬかたのおおきみ)が作る歌。 意味も謂れもわからずに、ただその音の美しさに圧倒された。 調べれば調べるほどに奥深く、幾重に

          あかねさす

          古典へのいざない

          この場を借りて、 私のバイブルともいえる本を一冊紹介しておきたい。 「古典へのいざない」  10冊の本 井上靖・臼井吉見編  シリーズ3  昭和四十三年十一月五日 主婦の友社発行 私が古典に対して初めて興味を持った時、どうしてもと言って買ってもらった一冊。 誰に勧められたのかはもう忘れてしまったが、自分から欲しがったことは強く覚えている。 長く実家にあったがこの程手元に引き取った。 もう五十年以上前に出版された本だが驚くほど状態が良く、まだまだ十分読むに耐える。 何年ぶ

          古典へのいざない

          月は東に 日は西に

          菜の花や 月は東に 日は西に 桜と共に、春を告げる花として菜の花がある。 鮮やかな黄色は大地を染めて可愛らしくも逞しい。 江戸時代の俳諧師、与謝蕪村の代表的な句の一つ。 前回上げた柿本人麻呂の和歌とは、全てが対比をなしているように思える。 太陽と月。 西と東。 暁と夕暮れ。 清冽な印象を受ける人麻呂の和歌に対し、蕪村の句は優しくも暖かい。 菜の花が揺れる春の夕暮れ。 受ける風の強さも匂いも、肌で捉えたかのように感じられる。 どちらも西の方角、地平線の彼方へ沈みゆく天体(も

          月は東に 日は西に

          かえりみすれば

          東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えて    かへりみすれば月西渡(つきかたぶ)きぬ 日本最古の歌集「万葉集」から、 柿本人麻呂の短歌(うた)を一つ。 軽皇子に従って狩に出た時の風景を詠んだといわれている。 太陽と月。 西と東。 全てを見渡せる狩の野にあって、今、夜が明けようとする暁の様を見たままに詠み上げた。 ありのままの風景を伝えることは、簡単なようで実はとても難しい。 他の人には真似の出来ない言葉の力。 この歌を口にするとき、まるで共にそこにいるかのように風景が眼

          かえりみすれば

          今年ばかりは

          春の嵐が駆け抜けていった。 ようやく晴れ間が顔を出した。 咲き誇る桜が舞い落ち、あちらこちらに薄紅の河が出来ている。 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け 挽歌。 逝くものではなく残されてしまった者の慟哭と悲哀。何処にも行き場のない感情が想いが胸を締め付ける。 初めてこの歌を知ったのは「あさきゆめみし」―――大和和紀さんの源氏物語を読んだ時だった。源氏の初恋にして永遠の恋人藤壺の中宮が亡くなった時に源氏の口をついて出た和歌(うた)。桜の舞い散るこの時に源氏との

          今年ばかりは

          春眠暁を覚えず

          春眠暁を覚えず(しゅんみんあかつきをおぼえず) 処処啼鳥を聞く(しょしょていちょうをきく) 夜来風雨の声(やらいふううのこえ) 花落つること知んぬ多少ぞ(はなおつることしんぬたしょうぞ)          昨夜からの雨がようやく上がりそうだ。 桜雨、花散らしの雨、思い返してみると桜の開花に合わせるように雨が降ることが多い。 はじめてこの詩に触れたときは「春眠暁を覚えず」の一節への共感が強かった。春は眠い。ゆっくりと朝寝がしたい。そんな気持ちが強かった。眠いのは別に春に限った

          春眠暁を覚えず

          いざ舞い上がれ

          今日は少し趣を変えて。 さくら(独唱) 作詞 森山直太朗・御徒町凧 作曲 森山直太朗 今、少し遅れた今年の桜が満開を迎えている。あまり体調がよくない日が続いたので今年の花見は今一つ乗り気にならなかったのだが、今日、やはり桜を見に歩いてみた。 さくら、さくら。 温んだ風を纏う春の薄曇り。真白ではない薄い紅の花弁が、霞のように黒みを帯びた幹に枝に絡んで揺れる。 桜を歌った歌は多くあってそれぞれに趣のある良い曲が多いが、私はこの「さくら(独唱)」をどうしても歌いたくなる。彼は

          いざ舞い上がれ

          春の日の花と輝く

          アイルランドの国民的詩人トマス・ムーア氏の詩を堀内恵三氏が訳した。 言葉とはその国のニュアンスや意味があり直訳では決して伝わらない感性があると思う。その意味で翻訳とは責任がかかる重大な仕事だ。 訳されたこの歌を私は名訳と思っている。上田敏氏もそうだが、日本語でありながら描かれるのは異国の情景であり心情だ。我々には描けない愛。優しく微笑ましく、胸に染み渡る想い。恋だけではなく愛だけでもない。共に歩んでいくだろう年月すらも愛おしいのだと彼は告げる。 曲がついて歌えるようになって

          春の日の花と輝く

          ながめをなにに

          春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が 櫂(かい)のしづくも 花と散る ながめを何に たとふべき 見ずやあけぼの 露(つゆ)浴びて われにもの言ふ 桜木(さくらぎ)を 見ずや夕ぐれ 手をのべて われさしまねく 青柳(あおやぎ)を 錦おりなす 長堤(ちょうてい)に くるればのぼる おぼろ月 げに一刻も 千金の ながめを何に たとふべき     「花」作詞武島羽衣 作曲滝廉太郎 美しい歌。のびやかに楽しく春の情景を歌い上げている。 ぜひ歌として曲として聴いてみてほし

          ながめをなにに

          すべて世は事も無し

          時は春、  日は朝(あした)、  朝は七時、  片岡に露みちて、  揚雲雀(あげひばり)なのりいで、  蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、  神、そらに知ろしめす。  すべて世は事も無し。 あえて全文を載せてみる。 ロバウト・ブラウニングの「春の朝」上田敏訳。 「海潮音」の中一編の詩である。 厳密の日本語ではないが、上田敏氏の訳は個人的にとても好きだ。 特にこの詩は日本語の音律を損なわず、けれども見知らぬ異国の春を強く印象付けてくれている。 此処に描かれた風景は、日本にあ

          すべて世は事も無し