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今年ばかりは

春の嵐が駆け抜けていった。
ようやく晴れ間が顔を出した。
咲き誇る桜が舞い落ち、あちらこちらに薄紅の河が出来ている。

深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け

挽歌。
逝くものではなく残されてしまった者の慟哭と悲哀。何処にも行き場のない感情が想いが胸を締め付ける。
初めてこの歌を知ったのは「あさきゆめみし」―――大和和紀さんの源氏物語を読んだ時だった。源氏の初恋にして永遠の恋人藤壺の中宮が亡くなった時に源氏の口をついて出た和歌(うた)。桜の舞い散るこの時に源氏との秘密を吞み込んだまま儚くなった年上の女人。もう覚めることのない眠りに落ちた女人(ひと)の上、散華のように桜の花弁は降りしきる。
鮮やかで繊細で辛くて苦しくて、悲しみよりも深く錐で突き通されたような痛み。心を吞み込んで落ちて行く暗闇の中、黒々とした幹や枝を従えて桜だけが浮き上がるように咲き乱れる。
幾年月を経ても、夜桜はまるで絵巻そのもののように情景を描き出し私に見せつける。

桜よ今日ばかりは喪の色に咲いてくれ
あの人はもういないのだ、永遠に――――

この歌は源氏物語の中にはなく、藤原基経を悼んで上野岑雄(かんつけのみねお)が詠んだ短歌だと後で知った。
けれど私の中では今でも、源氏の悲しみの短歌(うた)として強く残っている。



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