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余情 12 〈小説〉

 
 
 私が一人、過去に戻ったからと言って、あなたの死ぬ日が先送りにされることも、逆に、早くなることもなかった。
 約束をした日が変更されたのだから、もしかしたら何かが動くのかと期待を持っていたが、道のりに変更点があったとしても、大きな結果自体は少しも変わらないのだろう。
 家の電話が鳴った時のことを、思い出していた。
 電話をするには少しばかり遅い時間、夏の夜は濃かった。私の家の周りだけがこんなにも深い黒なのかと、錯覚する分厚さだった。階段の中頃に座り込んだ私は、開けっ放しにしておいたリビングの電話が鳴るのを待っていた。ぼんやりと保つ意識と、遠く冴え渡る、時間を食った私の魂。それは根を同じにしながら、あまりにもその存在同士はかけ離れた存在となってしまっている。
 電子音が鳴った。
 どきりとする。
 鳴り始めて、はじめて緊張した。震えはじめた体を、引っ張り上げて電話のほうへと歩いた。ふらふらと、体に重さがなくなったかのようだった。
 ふと、誰も助けてはくれないのだ、と言葉が深くまで染みこんだ。
 廊下の壁を伝い、開け放したドアを掴み、薄闇のなかで光る赤いランプに縋り付いた。
「はい、」
 声は弱く、一人のリビングに広がる波紋は儚い。
 電話を掛けてきた相手は、あなたのおばさんだった。やさしい声は気丈に立ち、その中を流れる悲しみさえ叱咤して、あなたの死を私に伝えてくれた。お葬式はしないこと。あなたの両親が、ただただ疲弊してしまっていること。彼女以外のあなたの家族は、私とはどうしても会いたくないということ。ただ、それはあんまりだと思うから、彼女の一存で、私には火葬の前にあなたとの別れの時間を作りたいと思っていること。彼女は私に問うた。あなたとの最後の時間を受け取るのかどうかを。私は迷っていた。あなたの死に顔を見るのは二回目だ。瞼に張り付いたその冷たさが、生前のあなたをどれほど遠くへ追いやるのか。私は、もうすでに知ってしまっているのだ。死んでいるとはいえ、あなたの顔を見たくないと考える日が来るなだなんて、まるで出来の悪い嘘のようだった。たとえそれがもう死体になってしまっているあなたであっても。
「会いたい、です」
 考えている途中で、私はもう口にしていた。現実ではどれくらいの時間が経っていたのか。電話の向こうで、彼女の細い溜息が聞こえた。 死んだあなたに、私は会うのか。それをまだ会うと言っていいのかは分からなかった。今口を開いたのは、今の時間にいた私の残留物か、それとも私さえ拒めない、私の本心なのか。
時折電話の向こうで慌ただしい声が走っていった。今、生と死の狭間で戦っている誰かを、懸命にサポートしている声だ。それが何故か私を奮い立たせてくれた。
「会わせてください」
 あなたのおばさんが受話器の向こう側で細く、私に聞こえないように、出来る限り弱く吐き出された息の音を拾った。
「ありがとう」
 あなたのおばさんはそう言って、明日の朝、家まで迎えに行くと言って電話は切れた。
 電話を切った後、私は椅子の背を握った。立ちくらんだように体がふらついた。ぎゅっと固い椅子の背を握りしめ、内側を吹き荒れだした嵐に体を慣らした。そうだ。あなたが死んでから、私は目を覚ましてはこの中に放り出されてきた。日常の些細な連想から頬を打たれ、動けないという背を押され、腕を掴まれ、底の見えない夜の縁へ落とし込まれてきた。そして一日が終わったかと思うと、またすぐに朝が来る。その繰り返しだった。
 誰にも、この衝撃を話したことはなかった。だから上手くなるしかなかったのだ。つよい衝撃を受けたとして、けして周りに気取られることがないよう。やさしく問いかけられたとして、大丈夫かと背を擦られたとして、私は、それに報いる応えをもっていないのだから。嵐の中、なんとかとどまり、過ぎ去ったその時に少しでも進むこと。それしか術がなかった。
 しんとした室内に、私の細い溜息が垂れ流されていく。白いようなその色は、けれど結局は闇の種類に他ならない。
 まっ暗だった。
 あまりにもすとんと落ちてきた言葉に、胸が掻き毟られることを予想出来なかった。
ああ、あなたが死んだ。死んでしまった。こうなることは、分かっていたのに。はじめて対面したあの病院の休憩スペースで、あなたは言ったのだから。自分の死を。それは本来、誰もが抱えているはずのものだ。だけれど、それを私は、あまりにはっきりと形を持って手渡された。あなたは、死ぬと分かっていて、私との関係を築きはじめたのだ。
その心を想像することは出来ない。私はあなたに出会えて人生をはじめられた。けれど、あなたがいたからこそ、私の終わりは断定されたのだ。
 暗い部屋の中で、私は一人だった。両親は二人揃って帰りの遅い日だった。私は、一人、あの日もこうして耐えた。過去の私は、椅子の背を掴むこともできず、そもそも、あなたのおばさんに何も答えられず、反射で電話を切ってしまった。がちゃ、という上手く置けなかった受話器の音が、はっきりと残っていた。一度目の私は、その場に座り込んでいた。そのまましばらく、じっとしていた。動くことを体が思い出すまで。自分には体があることを思い出すまで。長く時間がかかった気がするけれど、本当はすぐに戻ってこられたのかも知れない。
私はあまりに、今日から遠くに来ていたのだと思い知った。こんなにも、この日が朧気になるくらい。経ってしまえば、三度の瞬きの合間のような気がするのに、確かに生きた十年は、私のなかをすり減らしたのだ。その削り滓のようになってしまった私が、これからまた十年を過ごす。あまりのことに、笑いが零れた。滑稽で、哀れな音が、暗い室内に転がっていた。

 十年前の、あの日の私は。
 あなたが永遠に去ったことを聞いて、呆然と座り込み続けていた。両親が帰ってきた音にやっと我に返った。
母が買い物をしたて来たのだろう。がさがさとビニール袋の音が大袈裟なくらい、耳に入ってきた。その音を連れて母がリビングへと入ってきた時、私は立ち上がってはいたが、それ以上には何も取り繕うことはできなかった。椅子の背に、なんとか支えてもらわなければ、震えに負けて、また元の場所に座り込んでしまいそうだった。
母は、私の顔が真っ青だと言い、駆け寄ってきた。私の頬に添えられる母の手に、衝動的に、縋りつきたいと思った。そしてそれ以上に強く、そう願った自分を激しく嫌悪した。
 何故だったのだろう。あの時の私は、あなたの死に、傷つくことを否定したかったのかもしれない。あなたが私に与えるもので、私が傷つくことが許せなかったのかもしれない。なにより、母は、あなたのことに心を割く私を、よく思っていなかったから。そんな母に助けを請うことは、母の考えていたことを肯定することになる。そんな考えが過った。だから私には、許せなかったのかもしれない。
 私は母になんと言ってその場を去ったのか。
 自分の部屋に戻っても、私の心は嵐の中にあり続けた。いったいどうしたらよかったのか。泣き叫びたいと、思い、喉元まで叫びは上ってくるのに、最初の一音がどうしても出てこなかった。うろうろと、狭い部屋を歩き回り、ベッドに沈み込んではまた、じっとしていられなくて立ち上がった。その繰り返しに、体はゆっくりと疲れ、意識が最後の一指を放すまで、私は嵐の中にいた。
 意識を失った私を、両親でベッドに運んでくれたのか、うまい具合に倒れ込んだ場所にベッドがあったのか。目が覚めた時、私はいつもと同じ場所だった。
 頭が上手く動かなかった。なんだか全てが造り物めいて、嘘のほうがよっぽど色に重みがある気がした。自分の手の色が、昨日までとは全く違うものに見えた。気が触れる一歩手前に立ち尽くしては、私は意味も分からず呼吸を繰り返していたのかもしれない。
 あなたのおばさんが、私の家に訪れたのは、目が覚めて暫く経ってからだった。聞きなれないエンジン音が家の前に停まり、まだ朝の早い時間の静けさのなか、チャイムの音が大きく私へ届いたのだ。その瞬間、学校があること、体調が悪いこと、そんな何もかもが吹き飛んでいた。あなたのおばさんの目を見た時のことを思い出していた。それはあなたと同じ深さを称えた目だった。その事実だけで私の体はさっきまでの重たさが嘘のように、動き出していた。
 玄関先へと急いだ私の目の前で、すでに母がドアを開け、彼女を不思議そうに見ていた。母の困惑が感じられた。その背は、父を呼んで来るべきか考えていたのかもしれない。私は昨日の服のまま、靴を突っかけてそんな母の脇をすり抜けて外へ出た。母の声が後ろから追いかけてきたが、振り向くことも、反応を返すこともできなかった。あなたのおばさんの前に立ち、なんと言えばいいのか分からないまま、ただ頭を少し垂れた。彼女は、たった数日会わなかっただけとは思えないくらいに変わっていた。変わったというよりも、中に収まっていたとても大切なものが抜け落ちてしまって、その分の収縮に耐えられなくなっている、そんな印象だった。顔は青く、唇は生気の欠片が申し訳程度に乗っているだけだった。髪の毛は引き詰められて今にも千切れてしまいそうに見えた。あなたのおばさんの目に、私も似たようなものとして映っていただろう。あなたによく似ていた目が、私の目をゆっくり見返して、そこには少しだけ何かが戻ったようだった。
 あなたのおばさんは、助手席に私を乗せると、黙って見ている母の方へと足を向けた。サイドミラー越しに、彼女が母へ頭を下げているのが見えた。母は引き結んだ唇を数度開いて、あなたのおばさんへ何かを言ったようだったが、それはあまりに小さく折りたたまれた情報で、私には読み取ることは出来なかった。短い会話の後、彼女は母に深く頭を下げて、足早に運転席へと滑り込んだ。その横顔は険しく、あなたの病室で顔を合わせてきた人間と同じ横顔であることが信じられなかった。彼女はゆっくりと慎重にエンジンをかけ、決意を固めるようにアクセルを踏み込んだ。
そうしてしばらく静かに車を走らせた後、あなたのおばさんはぽつりと「ごめんなさい」と口にした。窓の外へ視界を投げ出していた私は、何を言われたのか分からないまま、その「ごめんなさい」だけを拾った。拾ったものを確認するように頷いただけで、彼女に何も言葉を返すことは出来なかった。
 外に目を向けていたはずなのに、彼女が車を止めてから、私はそこが病院ではないことに気付いた。入ったことのない地下駐車場だった。先にドアを開けて降りた彼女に倣って、私も車の外に出た。その場で私は真っ直ぐに上を見上げた。灰色のコンクリートが全てだった。その遥か上空の空が、果たして晴れていたのか、曇っていたのか、全く思い出すことが出来なかった。
 いつまでも動き出せない私のそばに彼女はやって来ると、そっと私の手を引いてくれた。そうやって入った建物の中は、外よりもぐっと気温が低かった。どこもかしこも意識して華やかさを排し、その代わりに手入れを繰り返した穏やかさが空気の中に積み上がっていた。手を引かれたまま、私はその中を歩いた。靴音までが幼くなってしまったような気がした。いっそ本当に幼くなってしまえたら、私はあなたの居る空気に帰れるのではないか。そんな期待がぐるりと胸の周りに蛇のように絡みつき、じっくりと力を込めて締め付けていった。
 ぼんやりとした意識のまま歩いた先、一室の前で、彼女は止まった。私を振り返り、やさしい指で私の頬をそっとつまんだ。それが彼女にとっても、何かの一押しになったようだった。
彼女はドアの方へと向き直ると、息を整え、そのノブを握った。異質なほど冷たい空気が、その中から這い出してきた。
小さな部屋だった。机や椅子、そんな物と変わらない存在感で、あなたは横たわっていた。闇が灰色に薄められて、微かに残るあなたの残滓を、出来る限り閉じ込めようとしているみたいだった。簡素なベッドというよりも、清められた儀式用の台に乗せられているようだった。枕元には、あなたが持っていた何冊かの本が置かれていて、ドラマで見たことのあるような、蝋燭や花などは何もなかった。そのあまりの殺風景な様子に、あなたの体も合わさって、それはまるで舞台のセットだった。
「直葬にすることに、決まったの」
 彼女が台詞のように、そう言った。その言葉といっしょに、肩をそっと押され、私は部屋の中へと一歩足を踏み入れた。靴の裏で触っている床材の冷たさが、直接私の足裏を触ったように感じた。ここには、あまりに繰り返し死が横たえられ、そして出て行ったのだろう。ここでは、死は仕組みの一つ以上の何ものでもなかった。
入ってしまえば、あなたは驚くほど近くにあった。物と同じだった。そこにはなんの柔らかさも生きていない。流れが停止したような室内があった。この部屋の中に入る物質量の限界まで、もう詰め込まれている中に、私はいた。そのために一つひとつがさらに極小に縮んでいくような。遠回しに、生の気配を拒んでいる。その部屋の中で、あなただった体は、もうすでに私の敵対側のものだった。
「直葬って、なんですか」
 声を出せたことが不思議だった。私の声は固く、縮こまった、まるで枯れ枝のような音だった。
 
 
 あなたの家族のことは、あまり聞かなかった。仲が悪かった、というわけではなかったように思う。あなたは、確かに両親に愛情を感じていた。あなたの父親には会う機会はなかったが、母親の顔は見たことがあった。会ったわけではない。私が一方的にあなたの病室から出て行くその女性を見ていただけだ。
 女性の後姿を見送って、すぐに部屋に入ることが躊躇われた。私は一度階段のところまで行って何度か下の階へ下りたり、また戻ったりを無意味に繰り返した。
 何からかは分からなかったけれど、確かに私は逃げたのだと思う。そのことに少しの後ろめたさを感じていた。だから私は、あなたの病室のドアをノックする時、俯いていたのだと思う。あなたはそんなことは知るはずもなく、いつもと変わらない笑顔で迎え入れてくれた。
 いったい何の話の流れで聞くことができたのか、あなたは言った。
「母が来ていたんだ」
 あなたはやさしい目をしていた。その目は私の好きなあなたの目だった。あなたが何を思って、私に母親の話をしてくれたのか。その時の私がきちんとその話を受け止められたのかは、分からない。それでも、あなたの話を、あなたの目を見つめながら聞き入る私の姿を、あなたは静かに見つめ返していた。
「母は、心配をするのに疲れているんだ。それだけじゃなく、疲れていることに罪悪感を感じている。それは仕方がないことなのに、そう思うことが難しい人なんだね」
 あなたは、自分自身に言い聞かせているようだった。
「母も母で、病院に用事があるから。もう長い間、うまく眠れていないみたい。短い時間でも会いに来てくれるんだけど、いつも顔色がすぐれない」
 あなたは息をそっと吐きだした。
「母は、本当はここにあまり来ないほうがいいんだ」
 そう言いながらあなたは、私から目を逸らした。私はだから、あなたがどれほど母親にここに来てもらいたいのかを、知ってしまった。母親に伝えたいことがあることも。だけどその気持ちが、母親を更に追い詰めるものであると分かっていることも。
 私があなたに言えたことは
「お母さんが、来られない分、わたしが来ます」
ということだった。あなたは私を見て、すっと目を細めて笑った。それは本心から嬉しいと思ってくれているようだった。それは私の思い込みかもしれない。もう一度、あの顔が見られたら分かるのだろうか。あなたの母親の話にも、もっといい相槌が打てたのだろうか。あなたを重荷に感じながら、愛していることは変わらない人だということを、あなたが信じられるような。そんな言葉を探してあげたかったのだ。
 
 
 あなただったものが横たわる。
 それを見下ろしながら、ただただ私は理解を染みこませていった。
 あなたに、わたしは、さよならも言えなかった。
 
 
 二度目の、あなたの死に対面する日。
あなたのおばさんが迎えに来てくれたことを、一度目と同じように車の音で知った。
 前日、母には今日学校を休むことをすでに伝えてあった。理由を話したら、母は心の底から気の毒そうに顔を湿らせた。けれど、その目が涙を浮かべることは無かった。母の目の中にあったのは、あなたへの感情ではなく、私が傷ついているのでは無いか、これから傷つく行動をしてしまうのではないかという、ひたむきなほどの心配だけだった。
 母は、何時頃に出掛けるのかを聞き、朝ご飯は食べていくのかを聞いた。最後に、帰るのは何時なのかと聞いた。私は自分の部屋に戻ろうと背を向けたところだった。そのまま「分からないから、用意しなくて大丈夫」と言った。背後で、母の顔がより曇ったのが伝わったけれど、私はそのまま両親の部屋から出た。  
自室へと戻りながら、私はあなたの死を誰かに伝えることへの、苦痛がなかったことに驚いていた。私にとって、あなたはもう十年前に死んでいた存在で、不思議なこの数日間が、すべて夢のような出来事だったのだ。鮮烈で、常に満ち足りている現実感の中の夢。これがただの夢ならば、私は、もう覚めなくてもいいと思っていた。
 朝、私が玄関を出ると、母は一度目の光景と同じく、外であなたのおばさんと何かを話していた。私は制服を着て、あなたのおばさんに頭を下げた。
朝はまだ始まったばかりだというのに、今日もまた恐ろしく暑い日であることが約束された日差しの強さだった。夏服の白までが、焼けただれてしまいそうな光。
「おはようございます」
 私が声をかけると、母と彼女は同時に私の方へと顔を向けた。
「おはよう。さあ、どうぞ、隣に乗ってちょうだい」
 彼女は、白いお面を付けているような顔で笑った。唇にも頬にも、色が薄い。汗一つ浮かばないその色に、今にも倒れてしまいそうだった。母が、そんな彼女を見て、不安そうにしていた。
言われた通り、先に助手席へと乗り込んだ私は、少しだけ開けた窓から、ふたりの声を拾った。
「お嬢さんは、必ずこちらまで送りとどけますので」
「あの、失礼ですが、そちらもお疲れでしょう。あまり無理されないよう、電話をいただければ迎えに行きます」
「ありがとうございます。そうですね、こんな顔では、逆に心配をさせてしまいますね」
「いえ。でも、そうですね、こんな時に休んでいられないというご心情は、お察し致します」
「すみません。では、帰る時にはご連絡いたします」
「よろしくお願いします」
 母と、彼女が頭を下げ合う間に、私は窓を閉めた。母が運転席の向こう側で、心配を貼り付けた顔を覗かせていた。彼女は、ゆっくりと、はじめて運転をするかのように、丁寧に車を発車させた。
「クーラー、なかなか効かないわね」
 そう言ったあなたのおばさんの頬には、やっと細い汗が滴っていた。
 
 
 同じ道順を走っていたのだろう。車は見覚えのある建物の地下駐車場へと入っていった。
 車を停めると、彼女は先にドアを開けて外へ出た。開いたドアから、夏の空気がぶわりと車内に流れ込む。その空気のふくらみに押し出されるように、私もドアを開けた。厚い壁に阻まれたような、外の空気の中へと足を突き刺す。
「今年は特に暑いわね」
「そうですね」
 彼女は先に立ち、建物の中へと入っていった。見慣れない黒のパンプスが、音を立てる。その靴裏を見つめながら、私も後を追いかけた。
 一度目の時は何も思わなかったけれど、私たちが入った入り口は、正規の玄関口ではなかった。簡素な入り口には、寂しさが均一な明るさの中に浮かび上がっているような気がした。外の暴力的な明るさも、地下であるここまでは入って来られない。隙間無く積み重ねられた空気が、慣れたように私たちの体の幅分、その硬さを変えた。そこを見極めているように、彼女は先を歩きだした。その後を私も追いかける。私たちは、真っ直ぐな廊下をしばらく進んだ。職員には誰も会わないまま、あなたの安置された部屋へとたどり着く。あなたのおばさんは、そっとその先を私へ譲るために、廊下へと体を寄せた。一歩進んだ私の目に、ドアの横に取り付けられたあなたの名前が飛び込んできた。それは無地の白に、均一な文字で印字されていた。そのプレートのあまりのよそよそしさに胸が詰まった。
 私は息を止めてドアノブを握った。手に力を入れたあたりから、私は自分の精神と体が分離したような感覚を持った。冷たい。かたい。開いたドアから手を放すと、通路とはまた違う明るさが飾った部屋の中に、あなたの体は横たえられていた。
 この衝撃は、耐えるといったものではなかった。どうしようもないものだった。胸を大きく突き上げられたかと思えば、その勢いを加速させながら内側へ抉りこむように、それは落ちていく。
 あなたは、死んだ。
 あまりにやさしい人だから。誰にもやさしい人だから。誰だって欲しいと思ってしまう。これは仕方が無い。仕方がないのだ。ここには、もうあなたはいない。あなたの目が、ゆっくりと水分を失っていく音が聞こえるような気がした。
 その音がきっかけで、長く息を止めていたのを、いきなり大きく吸い込んでいた。これは良くない、と気付いた時には、もう遅かった。私は過呼吸に陥っていた。吸い込む音が、空気の抜ける音に聞こえる。心臓の音が走りまわり、苦しさに冷や汗が吹き出す。胸の骨が痛み、目の前の光が、遠のいていくのが理解できた。あなたのおばさんの手が、背中に近付いていたけれど、間に合わないと思った。その予感が正しかったのだろう、私は固い床へと膝を打ち付けた。耳の中は暴風で満たされ、肩も膝を追いかけて床を目指していた。
 
 
 目が覚めた時、私はまだ混乱の中に放り出されたままだった。
 目にした天井には見覚えは無く、ああ、やはり私は自殺に失敗したのだ、と思った。ここは運び込まれた病院なのだと、どこか、ほっとした気持ちであたりを見回した
 けれど、カーテンで仕切られた場所は、病院ではなかった。
 明るい外が、うすいカーテン越しに透けて入り込んでくる。
空気が、無理に気管を通ろうとして痛んだ。
 カーテンの向こうで、人が動く気配がした。
私はゆっくりと起き上がって、ベッドから足を下ろした。私は夏の制服を着ていて、紺色のスカートを履いていた。懐かしいローファーがベッドの横に揃えられている。
 私は冷ややかな心で、何度目かの絶望を味わった。
 涙が頬を流れていた。それは何粒もが一度に零れる盛大なものだった。重たいのだろう、その一粒ごとが速度を上げて、涙は転がるように落ちていく。顎にぶら下がることもなく、身を放っていく。ぼたぼたと、屋根を打つ雨のような音が、折り重ねられた紺色の上で鳴った。
 あなたの死を、私はまた見送ってしまった。
 拒むことができないまま、また約束をしてしまった。
 嗚咽は漏れないまま、ただただ涙が零れた。
 あなたの死を悲しんでいるのか、これからまた十年を生きなくてはいけない自分を哀れんでいるのか。どちらか分からないまま、ただただ、あまりにも悲しかった。
 水を送り出しているばかりの目が、ふと、見慣れたものを引っかけた。
「あ」
 声が零れた時には、それを手に持っていた。ベッドサイドに置かれた小さな棚に、袋に入れられるでもなく置かれていた本。それはあなたが病室で何度も開いていた本だった。
薄くて、小さな、冊子のような本。それは物語ではなく、詩の書かれた本だった。緑の表紙。すこしざらつく紙の上の、どこか不器用さを感じる印刷の文字。
 あなたは、これは詩集ではないのだと言っていた。いくつもの詩をまとめたものが詩集なのだから、この本は違うのだと。一篇の詩が書かれているだけの本なのだと。短い言葉がページをまたぎ、繰り返される。簡易な言葉。簡潔な一文。挿絵というよりも、色を添えられただけの空白。それらは隅にそっと置かれ、少しも主張をしない。それなのに、最後のページだけは真っ黒な中、言葉だけが白く浮かび上がる。白い星のように。これはあなたが、一番大切にしていた本だった。
「それは、あなたにと言っていたわ」
 部屋を仕切っていたカーテンを開けて、あなたのおばさんが顔を覗かせた。朝見た時よりも、顔色が少し良くなっているように見えた。そして彼女は、どこか恥ずかしそうに笑いながら、カーテンを開けて入ってきた。
「あなたは倒れたの、覚えてる?」
「はい、すみません。大変な時に」
「ううん。実は私もつられちゃったの」
 涙は止まらないままだったが、私の周りを吹きすさぶ暴風は、少しその勢いを緩めていた。彼女の、病院で見てきた笑顔とは違う、肩の荷が下りたような、心配事が片付いたような笑顔が、私の骨を握りしめた。
「あなたが倒れたのを見て、私もふらふらって」
 彼女は私の隣へと腰を下ろした。二人分の重たさに、薄いマットレスが沈む。
「あの子の母親が私たちをみつけてね。怒られたわ。姉さんがあんなにちゃんと怒ったの久々だった。なんだか懐かしかったわ」
 そう言いながら、そっと私が手に持っている緑の表紙を指先で撫でた。
「この本、あなたにどうぞって」
「え」
 彼女私の顔を見て笑った。何度でもこれから起こる悲しいことを、超えていこうと思っている。生きることを欠片も失っていない。あなたが失われた人生のその空白を、暗渠を、そのままで進んで行こうと決めている。そんな笑顔だった。
「あの子が、あなたにって」
 彼女は笑いながら、私の涙を追い越すように涙を流しながら、笑っていた。

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