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へらへら歩いて、秋田の魅力を紐解くー秋田スリバチ学会

『谷を見てはヘラヘラ、微かな高低差を見つけてはハァハァしながら歩いている、変な集団です(笑)』

秋田市地域おこし協力隊の古屋です。この春、大学進学以来20年振りに帰郷し街歩きの団体を探していたところ、秋田スリバチ学会について知りました。秋田スリバチ学会というのは、地形に着目して街歩きをしている団体です。地元の魅力発見の予感。秋田市文化創造館にて取材するチャンスを頂けました。
冒頭、マスク無しの写真撮影をお願いしたところ、ステキな笑顔で応えて下さいました。秋田スリバチ学会代表の柳山さんです。

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◎なぜ街歩きを始めたのでしょうか

「子どもの頃から暇があれば近所をウロウロしてたんですよ。親父が転勤族だったので、転勤する度に新居の周りのことが知りたくて、ぐるぐる歩いてた。1986年、進学で東京に行ったときも同じ。それで気付いたんです。四谷、渋谷、千駄ヶ谷・・。東京って、谷が付いた地名が多くて、坂ばかりの街なんです。

関東平野、日本で一番広い平野って教えられてたんですけど、歩いたら全然平らじゃないんです。秋田の方がよっぽど平らじゃないか! もうね、『責任者出てこい』って気分でした(笑)。

学生時代は小説家の墓巡りなんかもよくしてたんです。歩いてると、“ああ、あの作品のあの場面は、この坂と谷を舞台にして書かれていたんだな”、って気づかされる。それでますます面白くなっちゃったんです。

池波正太郎の小説を読んでいて、嘘だろ、こんなに長い距離歩けないだろ、と思うんだけど、実際に行ってみたら意外に歩けたりする。どうも、感覚と合ってないんですね。江戸の街は人間が歩くことを前提に作られていて、それが現代の東京に引き継がれている。なので、街の作りが無駄に広くないんです。秋田も実は同じなんだけど、すぐそこのコンビニに行くのにも車でしょう。だから、距離感がずれちゃってたんですね。

歩いていると、文学の舞台や社会的な問題がミックスして見えるのも面白かった。ここがこういう地形だから、あんなことが起こったのか~、と。かと言って、解決方法は見つからないんですけどね(笑)。ともかくただただ『なんか、東京って面白い!』っていう気分だけで街を歩き回ってました。」

◎スリバチ学会との出会いは何ですか

「2011年、神田の古書店に立体地形模型プロジェクションマッピングイベントを見に行ったのがきっかけです。行ってから知ったんですけど、実は東京スリバチ学会の書籍(『凹凸を楽しむ 東京スリバチ地形散歩』)の刊行記念イベントだったんです。会場の隅っこにいたら、『もうすぐプロジェクション始まるよ~、もっと近寄っていいよ~』って、ものすごく気さくに声をかけてくださる方がいて、それが皆川典久会長だった。もともと『スリバチ学会』の存在は知っていたんですけど、どこに行きゃ会えるのかわかんないし、本当に活動しているのかすら怪しんでいたぐらいで。それがいきなり目の前に『現物』が超フレンドリーに現れた(笑)。挨拶を交わさせていただき、以来、活動に参加するようになりました。

東京スリバチ学会は、現会長の皆川典久氏が、副会長の石川初氏らと始めた街歩きの集まりです。東京都内の凸凹地形に着目しながら各地を歩き、街の成り立ちや人々の営みを観察しています。この視点のユニークさが評価され、2014年には『グッドデザイン賞』を受賞。これを契機に名古屋、千葉、埼玉、神奈川、多摩武蔵野など各地での集まりが誕生。およそ一年おきに行っている『海外遠征』をきっかけに、現在ではローマやフィレンツェ、台北といった海外の街でもスリバチ学会が発足しています。
『スリバチ』は、もともとは東京特有の緩やかな谷地形の比喩。・・・だったのですが、その語感のキャッチーさが受けたのか、最近では全国の街歩き好き・地形好きの間であらゆる『谷』の愛称として使われています。」

2017年、柳山さんは秋田へ帰郷し、故郷で秋田スリバチ学会を立ち上げました。

◎実際にどんな活動をされているのでしょうか

「雪のない時期に、毎月一回、県内各地を歩いています。冬場や真夏は、ドライブツアーをやったりもしてます。
スリバチ学会の街歩きは、誰かが代表となって解説して歩くのではなく、集まった人々がそれぞれ『知っていること』を好き勝手にしゃべりながら歩くのが基本なんです。地元に長く住んでいる人や、サラリーマン、大学の先生、建築家、不動産業、公務員などなど、幅広い顔ぶれの人が参加していますから、ただ歩いて皆さんの話を聞いているだけでも、いろんな発見があるんですよ。まあその、今のところ秋田スリバチでは、まだ僕が話す時間が多いんですけど(笑)。ご参加くださる皆さんには、もっともっとご自身の知見をご披露いただきたいですね。
会員になるための手続きなんかはありません。一度でも参加すれば『会員』です。イベントも、ホームページやツイッター、Facebookで告知するのは集合場所と時間だけ。あ、これは東京スリバチの海外遠征の時も変わりません。『○月×日 △時 ルーブル美術館中庭ピラミッド前集合』だけ。これだけで世界中から参加者がやって来るんです。ルーブルの時は、30人ぐらい集まったかな。

途中参加、途中抜けOK。途中参加・抜けの時も挨拶は不要です。基本的にフラッときて、フラッと帰っていただいて大丈夫です。その分、遅刻する人を待つことはしませんし、途中ではぐれた人も探しません(笑)。

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地形、建物などに着目して、それぞれの専門の知識を活かしながら街歩きをします  ※写真提供:高村竜平さん

東京スリバチは午前中から歩き始めるんですが、秋田スリバチは僕自身が朝弱いので(笑)、午後1時出発が基本です。途中、休憩を挟みながら大体3時間、10~15kmぐらい歩きます。終わったら、解散場所付近の居酒屋に飛び込んで、『反省会』と言う名の飲み会を開催します。最近はコロナ禍で難しいんですが、それでもZOOMで皆さんと『反省』してます。」

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明治時代の頃の資料を用いて説明する柳山さん

◎秋田市の街歩きの面白さは何ですか

「一番面白いのは、なんでここにこの建物があるのか、なんでこの場所であんな事件が起きたのか、が見えてくること。例えば、東京って、官公庁や国立大学のような公的施設、それも大規模なものほど、必ずと言っていいくらい丘の上にあるんです。一方で、一部の例外を除けば、お寺や商店街があるのはほとんど谷です。

これは江戸の土地の使われ方に起因しているんです。台地の上は条件がいいですよね?地盤がいいし、日当たりが良くて湿気も少ない。だから江戸時代、『エラい』とされていた武士階級、中でも大名や旗本の屋敷がもっぱら置かれていたんです。
一方の谷はというと、湿気が多くて狭いなど、条件があまりよろしくないですよね。武士は住まないわけです。それで町人の家や長屋が建ち並び、彼らの檀那寺※が置かれた。例外的に、徳川家や大名旗本と縁のある寺は丘の上に置かれたりしていました。
※自分の家が帰依して檀家となっている寺

これが明治になると、ほとんどの大名旗本屋敷は新政府のものになってしまいます。その広い敷地は、軍事施設や帝国大学、官公庁といった、大規模な公的施設を建てるのにうってつけだったわけです。一方の谷は、明治になっても町人の街として残り続け、やがて商店街に発展していきます。

この土地利用の変遷、とりわけ丘に関しては秋田にも当てはまります。千秋公園※の東側、秋田県立循環器・脳脊髄センターがある一帯は、江戸時代、久保田藩の家老※やそれに次ぐ上級家臣の屋敷が並んでいた場所なんですが、ここも、明治になって陸軍の司令部や病院が置かれました。広い敷地がそのまま転用できたからです。」
※秋田市中心部に位置する久保田城跡を利用した公園
※武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職

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久保田城黒門跡。この先、右方向に坂を下ったところに大手門跡がある

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今も門の礎石が残る

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門を出るとすぐ大きな敷地を活用した建物が並ぶ。
お偉いさんのお屋敷の跡地なので、広々してますね~。

◎秋田市で面白い地形を紹介するとしたらどこでしょうか

「秋田市では高清水公園(高清水の丘)と千秋公園ですかね。高清水の丘は、その名の通り、高い土地なのに、とにかく水が豊富で、奈良時代に置かれた大和朝廷の最前線基地、秋田城以来の歴史がありますから。
あの丘は、岩の上に厚い砂の層が乗っかって出来てるんです。湧き水は、砂層で濾過された雨水が、岩盤層に突き当たって地上に出てきてるらしいんですよ。そういう環境があったからこそ秋田城が置かれたのでしょうね。
歴史と言えば、すぐ近くにある香炉木橋も外せません。あれは羽州街道より前の時代に使われていた道の名残なんです。藤田嗣治の大壁画『秋田の行事』にも描かれているくらい、昔は有名だったようなんですが、今では知ってる人も少ないみたいですね。

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標高50mほどの高清水の丘の上にある沼。水は井戸からひく。

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沼近くにある平安時代に使った井戸。中央の四角くて朽ち果てそうなのが、井戸の井桁です。高台の井戸に水が湧いたメカニズムが気になる。

千秋公園は、明治期の火事のせいで、ほとんど古い建物が残っていないんです。だから観光客の方には物足りないかもしれませんが、スリバチ学会的にはネタの宝庫なんですよ。
以前、東京スリバチ学会と合同フィールドワークを開催したことがあって、全国から街歩きの達人が延べ100人ほど集まったことがあったんですが、かつて巨大な堀があった谷に築かれた住宅街をはじめ、皆さん随所で『面白スポット』を見つけて楽しんでくださいました。

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千秋公園に佇む茶室

その一例が、公園内にある茶室の庭の池に咲いている、コウホネ。『春の小川』っていう唱歌がありますよね? あの歌のモデルになったのは、東京の渋谷付近を流れる河骨川(こうほねがわ)。コウホネが沢山咲いていたことからそういう名前が付いたらしいんですが、今では暗渠(あんきょ)※になっていて、もちろん植物なんかが生える余地もありません。それが千秋公園で伸び伸びと咲いているんです。東京から来た皆さん、『初めて見た!』って大興奮でした。」
※地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路

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茶室の庭にひっそりと咲くコオホネの花

◎現在と昔の地形はどのくらい違いますか

「秋田の中心市街地は、400年前から通りの基本構造がほとんど変わってないんですよ。場所によっては、道幅まで変わっていない。久保田藩初代藩主の佐竹義宣が設計した街の骨格が、相当優秀だったんでしょうね。明治になっても大改造されることなく、ずっと保たれてきたんです。だから江戸時代の地図だけでも散歩できる。県外から街歩き仲間が遊びに来たときなんかも、『大丈夫だから』って、古地図のコピーだけ渡したりします(笑)」

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江戸時代の地図。400年間、道がほぼ変わっていない秋田市の中心市街地。現在も古地図で歩ける(らしい)

◎秋田市の魅力の探し方を教えてください

「街中に潜んでいる、ちょっとした高低差だとか、カクカクしていたり不自然に曲がりくねっている道なんかを探してみてください。実は埋められた堀の跡だったり、旧街道の名残だったりしますよ! ほんと、是非江戸時代の地図(秋田県公文書館のサイトで無料で見放題です!)と現代の地図を見比べながら、中心市街を一度歩いてみてください。秋田には、実はそこかしこに『江戸』が隠れているんです。それを見つけて、それがどうして400年間変わらなかったのか、逆に変わった場所やものがあったとしたら、なんで変わったのか、あれこれ想像して楽しんでみてください。そうしていただくうちに、皆さんひとりひとりの『秋田の魅力』が見えてくるんじゃないかと思います!」

例えば美術館や飲食店などがあるエリアなかいち。エリアなかいちと仲小路の間にある南北の通りは、初代秋田藩主の佐竹義宣が指示し、道の基準となった。千秋公園の御出し書院から見通しがよくなる様、街づくりをせよと命じたと言われている。

他には秋田市でも比較的新しいスポットがある亀の町エリア。当時の古地図を見ると、亀の甲羅の形にそっくり。それで、亀の町と名付けたのかな!?と思えてくる(近くの川に亀がたくさん生息してた、とか諸説あり)。

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こ、これはっ!亀の甲羅ではないか!!?亀のまち、亀の町だ!

歴史を知って、小ネタのウンチクを挟みながらだと更に街歩きが楽しめそうですよね。20年振りに戻ってきた地元は、少しずつ変わっていました。帰郷して半年、町の歴史を見聞きするうちに、その魅力が頭の中に広がってニヤついている自分に気付きました。

コロナ自粛モードはもう少し続きそうです。へらへら笑いながら、古地図を片手に秋田市の街歩きに出てみましょー!

【著:秋田市地域おこし協力隊 古屋 亮太】

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