見出し画像

観光案内所

観光案内所の朝は早い。
勤務開始は7時30分からだが、私は7時10分には来て、事務所の裏口で待っている。今日は田中先輩と組む日だから、何があっても絶対に、到着が先輩より遅くあってはならない。

7時25分。田中先輩が来た。

「おはようございます」
「・・・おはようございます」

いつも通りブスッとした顔で、事務所の鍵を開けると、私を一瞥もせずさっさと中へ入っていく。やっぱり、私と組むのが嫌なんだな・・・私がバカで、トロいから。心臓がキリキリ痛む。

「トイレ掃除、行ってきます」

ロッカーで制服に着替え、事務所に戻るやいなや、私は言う。田中先輩から返事は無い。今日のトイレ掃除の当番は、本当は田中先輩なんだけど、彼女と組む日は「無言の承諾」を得て、いつも私がやることになっている。田中先輩から「私がやるよ、当番だし」と言われたためしはない。

トイレに入り、深くため息をついた。
田中先輩と事務所に2人きりでいるより、こっちにいる方が落ち着く。

この観光案内所に勤務する職員は13名。内訳は、御年82のおじいちゃん局長、私を含めた女子職員が4名、案内所に併設する駐車場を管理するおじさんたち8名だ。

私は昨春から、この案内所に勤務している。元々寺社巡りや仏像が好きな「寺社ガール・仏女」な私は、大学卒業後は絶対に地元の観光案内所に入りたくて、苦手な英会話を必死でマスターした。募集要項に、日常会話以上の英語力必須とあったからだ。そのかいあり、日常会話程度はまあまあできるようになり、この案内所の内定を得たのだった。

女子職員は、リーダーの田中先輩、2児のママの近藤先輩、元調理師の安田先輩、そして私の4名。観光案内所に休業日は無い。毎日、2名づつローテーションを組んで勤務に当たる。トイレ掃除は、外部に委託する費用をケチって、その日勤務の女子職員が行うのだ。

障碍者用トイレを開け、ウッと悲鳴を上げる。オムツ交換台に使用後のオムツ(大付き)が放置されている。すごい臭いだ。窓を開け放ち、空気を逃がす。案内所が開くのは8時。それまでにこの臭いを消さなければ。掃除用具入れからファブリーズを取り出し、障碍者用トイレの空間にシュッシュしまくる。

オムツはポリ袋に入れ固く口をしばり、さらに新聞紙で包み、消臭剤を設置したゴミ箱に入れる。オムツを放置する観光客はよくいるので、最初はウンザリしたけどもうあまり気にならなくなった。毎回、臭いには閉口するけれど。

男子トイレももちろん掃除する。便器にこびりついた大がブラシで取れない・・・ビニール手袋を2重にし、厚めの除菌シートでこそげ取る。オエッと思うが、それでも、田中先輩と2人きりでいるよりずっと気が楽なのだ。

掃除が終わった。事務所に行くの、やだなぁ、と思うが、仕事なので仕方がない。8時になり、田中先輩と一緒に案内カウンターに座る。田中先輩からの無言の圧がすごくて怖い・・・しだいに距離を空けてしまう。

最初の観光客がやってきた。外国人だ。話しかけられたが、早口すぎて聴きとりづらい。すかさず田中先輩が応対を変わった。田中先輩の英語は、とても流暢。大学時代に2年間、アメリカに留学されていたのだとか。

苦手だけれど、やっぱり田中先輩のこういう所はすごいし、素直に見習いたいと思う。田中先輩は元々商社勤務だったのが、観光の仕事に就きたくて、ここに転職されたのだと安田先輩から聞いた。

田中先輩はいわゆる「デキる女」。

観光案内所の仕事は、人さま相手だから、予測不可能なことの連続だ。この観光案内所は、観光ボランティアガイドの事務局も兼ねているのだが、ガイドが案内途中で体調不良となり、電話で連絡を受け、代わりのガイドを乗せた車で迎えに行ったり。春や秋の観光シーズンはガイド希望が殺到するので、ガイドの数が足りず、急遽、私たち職員が案内したり。

あるエピソード。ボランティアガイドに応募してこられる方は大半が現役を退かれた60~80代なのだが、中には失礼ながら、まだら〇けになっておられると思われる方もいる。ガイドの日時を間違えるはしょっちゅう。ある日その方がガイドをした際、お客様の出身大学名を訊き出して「大した大学ではないね」と言ってしまった。案内後、お客様が事務所にお怒りの電話をしてこられ、平身低頭する私たち。

ボランティアガイドは文字通り、無償でガイドをして下さる訳なので、退会して頂くようこちらからお願いする事はできない。しかしこのような失礼があっては、もうガイドを任せることはできない。本人の現役の最終は中学校の校長で、おそらく元々プライドの高い方。先のトラブルを伝えても右から左。反省する気なし。これからもガイドをやる気満々。どうしたらいいか。

田中先輩の案で、彼を「観光ボランティアガイド名誉総裁」に就任して頂くことになった。名誉総裁の仕事はガイドたちが月一で発行する会誌の巻頭を飾るエッセイを書くこと。読書や物を書いたりが好きな彼はガイド活動よりもこちらの仕事が気に入ったとみえて、嬉々として、名誉総裁の仕事に取り組んでいる。まだら〇けとはいえ、彼の書くエッセイはなかなか面白い。それでも小さなトラブルはあるみたいだけれども、外でやられるよりは、ずっとマシだ。

このように、予想外の出来事に遭遇した時の、素早く的確な対応を実行できるところが、田中先輩はすごいのだ。

「今日は特別忙しいからね! 昼休憩は無いものと思ってよ!」

忙しいシーズンは4名全員が出勤となる。朝、朝礼で田中先輩がハッパをかける。中学・高校でバスケ部のキャプテンをしていて、根が体育会系なのだ。局長も他の先輩方も、田中先輩には逆らえない(さすがに局長には昼休憩を取っていただくが)。彼女の機転で、窮地を脱した経験が何度もあるからだ。

自分にできない事をできる人を、私は無条件にすごいと思ってしまう。今日は、昼ご飯抜きか・・・。まあ、いいや。こっそりトイレで食べよう。

だからか、私のようなドジでのろまな人間は、田中先輩は嫌いなのだろう。私は、1人の観光客に丁寧に対応しすぎて、他の観光客への対応がおろそかになってしまう。気が付くと、田中先輩が他の客をさばいてくれている。忙しい時に蛍光灯の交換を指示され、上手くできない私にイラついて、チッと舌打ちされたこともある。田中先輩と2人きりになるのが嫌さに、ガイドさんたちの待機するブースにお茶を持って行きついでに長時間喋っていて、後でしこたま叱られたこともある。

もちろん自分が悪いので、私ってどうしてこうなんだろうと、深く落ち込む。


外国人が案内所を出ていき、再び、フロアに2人きりになってしまった。

「あの、・・・先ほどは、ありがとうございました」

「アナタ一人だったらどうするのよ。英会話力をもっと高めなさい」

「はい、申し訳ありません」

本当にその通りだ。英会話ラジオを聴く時間をもっと増やそう。

「玄関の掃除、行ってきます」

無言の承諾を得て、掃除用具入れからほうきとちり取りを取り出し、私は案内所を出た。11月。今日は風が強くて、すごく寒い。今夜あたり、木枯らし1号のニュースが来るかも。風で玄関に散らばった落葉を、ほうきで拾い集める。

しんどいなあ・・・せっかく好きな仕事に就けたけど、辞めようかなあ・・・。

その時、声をかけられた。

「すみませんが、南大門をバックに写真を撮っていただけませんか」

顔を上げた。パンツスタイルに黒のライダージャケットを羽織った、背の高い、綺麗な人。こうした、私と同じ「寺社ガール・仏女」と思われる、お1人で参拝される女性観光客は多い。

「かしこまりました」

私は写真を撮るのは苦手だ。ヘタクソで申し訳なく思うが、こういう時は快く応じるようにと教育されている。女性客からカメラを受け取ろうとした際、手が震え、カメラが落下した。

「ああっ」

私はカメラを拾い、申し訳ありません、と必死で謝った。
女性客はカメラを確認していたが、「動かなくなってしまったわ」

キャノンの、高価そうなカメラだ。どうしよう・・・事務所に報告しなければ・・・。田中先輩に言わなければいけない・・・。

怖い、どうしよう、どうしよう。

お客様の立場よりも、自分の保身ばかり考えて、私の頭は沸騰していた。

「ごめんなさい、気にしないで。私が頼んだのがいけなかったの。このカメラ、古くてもう買い替えようと思ってたところだったのよ」

私の泣きそうな顔を見て、気の毒に思ったのだろう。

「いいえ、そんな訳には参りません、あの・・・しばらくここで待っていただけますでしょうか」

私は言い残すと向かいのコンビニに走った。数種類ある「写ルンです」のうち一番高い1890円のものと、フィナンシェなどのお菓子を5つ買い求めた。
コンビニにいる間、スマホで、落としたのと似たキャノンのカメラの値段を確認した。8万円・・・。案内所玄関に戻り、ビニール袋を女性客に差し出した。

「あの・・・本当に、申し訳ありませんでした! こんな物ではとても御詫びにはなりませんが、どうか、受け取って下さい」
「そんな、戴くわけにはいきません。私が悪いんですもの」

何度かのやり取りの後、笑いながらも、女性客は受け取ってくれた。笑顔で手を振り南大門の方向に去っていく彼女に、御辞儀する私は、いつまでも頭を上げられないでいた。

涙が歩道に落ちた。上に報告せず、1890円のカメラで済ませてしまった自分の狡さが情けなかった。職員のミスを責める態度を露も見せなかった女性客の優しさが心に沁みた。

あの人はきっと、観音菩薩の化身だ。




「今日、あんたの職場の近くを通ったわよ」

ドライヤーで髪を乾かしている妹に声をかけた。

「ふうん、そう」

「玄関を掃除してる職員さんがいたわ。今年入ってきた子?」

「ああ、高橋さんね。去年来た子よ。すごいどんくさくて、イライラするわ。いつもガイドさんと喋ってるし。全く局長は、どういう採用してんのかしらね? 客受けはまあ、いいようだけど」

・・・やっぱり。合点した。あの子は、この妹が怖くて、カメラのことを言えなかったんだ。事務所に報告しようとしないのは、正直どうかと思ったけど。

「あのね。今日、写真を撮りたくて、無断で悪かったけどあんたのカメラを借りたわよ」

「ええ?」

「それでね。写真撮ってたら、なぜか、途中で動かなくなったのよ」

妹がドライヤーを止めて、私を睨みつけた。

「ごめんなさい。原因が全くわからなくて。あ、フィナンシェ、食べる?」

妹にフィナンシェをひとつ差し出した。が、彼女はそれを無視し、

「カメラ高かったのよ、弁償してよ!」

「・・・あんたが高校生の時、お母さんのピアス勝手に付けて遊びに行って、片方失くしたことあったよねえ」

「ぐっ」

「あの時、一緒に土下座して謝ってあげたの、誰だっけ? ピアスの値段にはほど遠いけど、お母さんに私が払ってあげた10万円、まだ返してもらってないわよ」

「え。あれ、返さなきゃいけないの? 借用書交わしてないけど? お姉ちゃんが勝手に払ったんじゃない」

「まだまだあるわよ。あんたが小学生の時」

「わかったわよっ、次の給料日来たら返すわよ! ただしカメラの修理代抜いてねッ」


・・・なんという妹。
こんなのが世界遺産のお膝元の観光案内所勤務だなんて。
世界の皆さん、ごめんなさい。




※この物語はフィクションであり、実際の団体とは関係ありません。
※見出し画像はイメージです。



この記事が参加している募集

#私の作品紹介

96,611件

#業界あるある

8,630件