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モントリオールで皆既日食を見た話

「月と太陽と美しさ」

皆既日食は、人生史上最も短い夜と最も美しい太陽を同時に見ることができたイベントでした。

「月は美しい」は共通理解だと思っています。例えば、自然界の美しいものを集めた「花鳥風月」という四字熟語に月は含まれていますし、月を表す日本語は200個近くあるようです。[1](同サイトによれば太陽を表す日本語は60個程度)

また、「月がきれいですね」が “I love you”と訳されるのも、あなたを美しい月に例えることが可能だからだと思っています(少なくとも僕は)。実際に夏目漱石先生が言ったかどうかは諸説あるようですが、私的に詞的で好きなので、その点は指摘しないでいただきたいです。

一方で、「太陽は美しい」というイメージはそこまでの共通理解ではないように思います。朝日や夕日は美しいですが、常に、存在そのものが美しいとされる月に比べると、太陽は条件付きの美しさを持っているイメージがあります。皆既日食での太陽の美しさは、どの月よりも、どの太陽よりも美しいものでした。

一般的には肉眼で視てはいけないと言われる太陽を視ることができるという点で、皆既日食は唯一のチャンスでした。1%の太陽でも十分に眩しいため、完全に日食が完成するまでは肉眼で視ることができず、皆既日食を楽しむことができる時間も約2~5分のみです。

「皆既日食前」

皆既日食が近づくにつれて、近所の図書館では皆既日食用のメガネが配布され、メガネ屋さんでは皆既日食用のメガネが売り切れ、アマゾンでもここぞとばかりにセールが始まりました。僕は友人から譲り受けたメガネ(丁寧にキッチンペーパーとジップロックで保護された)があったので、メガネ争奪戦には参加しませんでしたが。

皆既日食用のメガネは、サングラスなどというものではなく、太陽以外の光が一切見えない特殊なメガネです。(サングラスの可視光線透過率が30-80%なのに対して、日食用メガネの可視光線透過率は0.000005%です。)このメガネをかけて太陽を眺めていると、まん丸に光る太陽以外の部分は暗闇に覆われているため、まるで自分が井戸の底に落ちたかのような、又は満月を見ているかのような気持ちになれました。

SNSには皆既日食イベントの告知が並び、友人との会話は「どこで皆既日食を見るか」になり、教授も授業を早く終えることを確約するなど、街中が皆既日食に向けて準備を整えていました。僕も人と街の熱に影響されて、前日からかなりワクワクした気持ちで皆既日食を待っていました。

「皆既日食までの過程」

実際に日食が始まると、日食用メガネを通してみる太陽は不思議な形をしていました。サイズは月と同じなのに、普段の月とは欠け方が違うので、何か不思議な月を見ている気持ちでした。25%ほど隠れたところで、少し肌寒さを感じるようになり、太陽がはっきり見え、とても明るいのに、日陰に移動したかのような気持ちでした。50%ほど隠れると、肌寒さに加えて、周囲が少し暗くなってきていることに気付きました。太陽がはっきりと見えているのに曇っているような感覚です。それ以降はそれぞれの度合いが高まっていき、段々と涼しく、そして暗くなっていきます。日食を見始めた時はタンクトップ一枚でも暑さを感じていましたが、最終的に皆既日食の瞬間は上からシャツを着て、スーツを着て、それでも少し肌寒いと感じるくらいになりました。

この日は学部の写真撮影があったので、偶然スーツでした。

日食時の明るさは不思議なもので、太陽が見えているのに暗いからなのか、普段感じないような明るさだからなのかは分かりませんが、違和感がありました。世界がスマホの画面に置き換えられて、そのスマホの画面の明るさが段々と落とされていくようでした。

日食が始まって、75%ほど隠れた頃には、太陽の周りを囲うように、一周虹ができていました。これはハロ、日暈(ひがさ)と呼ばれるらしく、神々しさを感じました。

イメージ図です。実際にはもっときれいな虹色でした。

90%ほど欠けた頃であっても、多少暗くなるはものの、まだまだ世界は明るく、直視しようとしても眩しすぎて欠けていることが確認できない太陽からは圧倒的なエネルギー量を感じました。1%でも見えている間は世界が明るく、0%になった瞬間に、一瞬で夜が来た、という表現が正しいような気がします。観衆(恐らく1000人は軽く超える人たちがキャンパスにいました)は皆既日食完成までのカウントダウンを始め、叫び声が聞こえましたが、エミリーは「Non, Non, Non, Not Yet!」とつぶやいていました。

「皆既日食の完成」

エミリーの「Yes!」の掛け声と共に皆既日食が完成しました。太陽の周りにはフレアが肉眼で確認でき、太陽の周辺には星が見え、普段よりも自発的に輝く月と、星と夜の対称性がとても美しかったです。その頃、地上では人々が拍手喝采、歓喜の声を上げていました。あの瞬間、同じ地域にいた何万人が同じように感動して空を見上げていたと考えると、それだけで美しい瞬間に居合わせることができて良かったとも感じます。皆既日食が完成した太陽は、光り輝く結婚指輪のようでした。月に隠されていない太陽の環だけが輝き、影が移動するにつれて環の一部がその輝きを増していきました。今まで見た人工的、自然的な現象を全て含んでも、かなり上位に位置する美しさでしたが、僕の言葉ではあの美しさをうまく表現できません。ただ、太陽の圧倒的な美しさとその壮大さに、言葉も適切な感情も選ぶことができませんでした。むしろ、選ぶ必要性すら感じていませんでした。

「皆既日食後」

数分間の夜が明けて、一瞬で朝になっていた感覚は、タイムラプス動画の中に自分が入り込んだようでした。夜更かしをした次の日に始発に乗るために早起きして、ボーっとした脳に朝日が差し込んでくる感覚が最も近いです。

ほんの2,3分の皆既日食が終わって、世界が再び太陽のある世界に戻ると、人々は一瞬にして太陽への興味を失い、元の生活に戻り始めました。学生は授業に向かい、老夫婦は帰路につき、友人はコーヒーをとりにいきました。僕はしばらく(本当に10―15分くらい)、自分が目にしたものの美しさと壮大さに茫然としていましたが、正気を取り戻したころには大半の観衆は日々の生活に戻っていました。

しかしその時も太陽は普段の10%ほどしか存在しておらず、省エネモードでした。それでも、いつも通りの生活を送る人々を見て、太陽は仕事をさぼってもバレないのに、いつも100%で輝いていて偉い、などと思っていました。太陽が完全に元に戻ってからは、しばらく、感謝の気持ちをもって友人と日光浴をしました。太陽のお陰で明るいし、暖かいし、幸せだし、僕は太陽という圧倒的な存在に生かされているんだな…と光合成をする草に少しだけなれた一日でした。

視覚的な美しさは勿論、常に輝き続ける太陽への有難さと、そのエネルギー量への畏怖、それらに伴う色んな思考、全てひっくるめて、美しい太陽を見れて良かったです。

以上、人生史上最も短い夜に、最も美しい太陽を見たお話でした。



[1] https://hyogen.info/groupw/list/3775

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