ひとりの職業人として

AKIRAです。
今日は、これまで自分のNote記事やほかの方の記事、X(旧twitter)、Youtube、その他メディアのコンテンツ、周りの人間の話を見聞きして、書き残しておこうと思ったことをつらつらと書いていこうと思います。

普段の内容に比べ、全然まとまった内容ではないので興味のない方はこの文章を読んだ時点でブラウザバックをお願いします。

生命科学研究

私は、生命科学研究にかかわる仕事をしています。
細胞やDNA、RNAを使う仕事です。
細胞の扱いは慣れるまである程度の訓練が必要ですが、DNAを使った実験は数か月くらいマイクロピペットをつかって練習すればそれなりにできるようにはなります。

実験の計画はそれなりに経験が必要です。
データの扱いや、研究倫理の徹底も必要になります。
自分で言うのもどうなのかと思うのですが、責任感のある仕事であると自負しております。

勉強は、自主的にやっています。
最新の研究についてや新しい実験法、トピックス・・・・・・など。
そういう情報を逐一調べています。

分野は再生医学です。
幹細胞を扱ったこともあります。
遺伝子発現解析のプロジェクトにかかわっています。

そんな感じの仕事です。

2025年問題

皆さんはご存じでしょうか。
2025年になると、団塊の世代と呼ばれた方たちが後期高齢者(75歳)になります。
それは、翌年の2026年には必要な保険料の総額が急激に増加することを意味しています。それだけならまだしも、病院が診療をしなければならない人たちが一気に増え、その際に莫大な保険料が請求されることになるのです。

日本の社会保障はすでに限界を迎えています。
それらを背負っていくのは今を生きる若者たちです。
そんな中、世界では「治療」ではなく「予防」の概念が普及しつつあります。すでに日本は、この時点で世界の医療のトレンドにおいていかれているのです。
世界でも長寿国と言われるほどに長生きしている人が多い国であるにもかかわらず。

この医療保険の問題は、2025年問題と言われています。
生産人口に該当する人々にとっては、他人事では済まない話です。当たり前ですね。自分たちが払っている保険料額が増額するかもしれないのですから。

再生医療は予防医学の光となるかもしれない

しかし、そうは言っても日本も再生医療に着手していて、「治療」から「予防」に医学の形を少しずつ変えていっている途中です。
近い未来、起こるかもしれない問題に対して経済や政治、医療という様々な方向から解決していく過渡期なのです。

再生医療は、そんな未来の先駆けとなるかもしれない技術なのです。
だからこそ、失敗できない。下手をすると日本に住む国民の安全安心な日々の生活を守るためのものとなるかもしれない代物なのです。
間違った判断や、余計なしがらみ、癒着、政治的な利害……そんなくだらないことに利用される道具ではあってはいけないのです。その未来を守る基礎を築き上げていく仕事。それが生命科学研究だと私は思いました。これまでしっかりと真面目に取り組み続けてよかったと思えて、ありがたいことだと思っていました。

そんな中、あの茶番は始まった

今から約3年と少し前。
とある感染症が、中国を始点として世界中に広まりました。

どんな感染症だったかは言いませんが、ひどい茶番でした。医学で語られてきた感染症学を根っこから否定するような感染対策に、そこにつぎ込まれた何百兆円という対策費。
あの期間のどのシーンを切り抜いても、無駄だとしか思えない戦いの連続だったと個人的には思っています。

どうしてこうなってしまったのか。
今ではそんなむなしい思いが胸に去来するのです。

分断

一番悲しかった出来事は、ともに生活していた人間が感染対策に対しての考え方ひとつで分断してしまったことでした。
RNAワクチンが普及されると報道され始めたあの時、私は言いようのない不安に駆られました。
当時は、ウイルスベクターを扱った研究をしていたために、核酸技術が臨床においていかに未熟な技術なのかを体感的に知っていたためです。
今にして思えば、自分の家族に医療関係者がいて、臨床の話を訊けたこと、自分が核酸関連の研究にかかわっていたこと。そして、特に再生医療の研究に携わっていたことがあのくだらないワクチンを回避できた要素だったのだと思います。

しかし、同じような研究をしていながらも、彼ら彼女らは「打つことが当たり前」「なぜ打たないのか」という風潮を漂わせていました。私はあまりのことに絶望感を覚えました。
核酸ワクチンは技術的に未熟である。どうしてこの当たり前を理解してくれないのか、と。

後悔

そして今、私は猛烈に後悔することがあります。
彼らがワクチンを打つという行動を止められなかったことです。

「技術的に問題がある」と言っても聞いてくれなかった人たち。
言ってもわかってくれないのなら、言ったところで無駄じゃないか。

そう考えてもう止めようという気は失せてしまいました。今は、その選択を激しく後悔するばかりです。否認、拒絶されることは予測できたことでした。でもあの時しっかりと制止するべきだったと今更ながらに思います。
どれだけ拒絶されようと、自分の中の知識や経験が間違っていないと確信できたのなら、しっかりと自分の考えを伝えるべきだったのだと。

ただ、それだけの自信と覚悟は当時の私にはありませんでした。
それを言うことで自分を取り巻く環境に悪影響が与えられるリスクを考えたときに、「止める」という行為を躊躇してしまったのです。
「この言葉を発してしまった数分後には、ここには自分の居場所は、信頼は、無いかもしれない」。それが怖くて直接的な言葉を避けていたように思います。後悔先に立たず、とはよく言ったものです。
後で振り返ったときに、過去を変えることはできないように、自分のとった行動に対して自身で責任をとれなかった自分の能力不足を嘆くしかありません。

それでも前を向かなければならない

ここで、あの時こうすればよかったのだ。という読書感想文のようなことを書いて終われば、どれほど楽だろうと思います。
しかし、それをしてしまえば、何も学ばないまま何もしないままです。ただの一般人であれば、自分のこれからの行動変革に向けて考え方を修正するだけで十分ですが、私はこれでも専門家側の人間です。その人間が背負うべき責任は重い

だから、これからの職業人生の中で、私は自分の考え方を常に体で表現していくべきなのだと考えています
ワクチン中和抗体・拮抗薬の開発研究が進むのであれば、私も参画したい。そう考えています。それが、かつての自身の中途半端な行動に対する贖罪になると信じて。

今の私では、経験も知識も不足していて、こうしてブログまがいのような形でしか考えを形にできませんが、どういう結末をたどるにしても中途半端になるよりかは幾分かマシでしょう。
今できることで現実的なことは何より、言葉を尽くして自分の考えをこうして形にすることです。あの時できなかったことを、できないままにしたくないので

あの時言えばよかったじゃないか、なんで今になって言うんだ。
それはごもっともな話ですが、だからと言って現実から逃避していても何も変わらないままです。
現状を変えたければ、痛みを伴ったとしても向き合わなければならない現実から目をそらさずに対峙するしかないのです。ここ数年で、私はそのことを学びました。今更な話であっても、その「今更」をできなかったから今、この時点でいまさら言っても…なんてことを枕詞にしなければならなくなっている現状になっています。

当時、私には覚悟が足りなかったのです。

手段を択ばない

今だからこそ、言えます。
怒っていいんです。たとえ、自分の判断が間違っていたとしても。
逆に言えば、言論統制や思想統括、政治的な都合、利権によって我々は間違った判断を選ばされたのです

そのために、打ちたくなかったワクチンを打たされた人が泣き寝入りするような現状を私は許すことはできません
歴史の流れの中で、政治に文句を言って反乱、一揆、デモを起こした人たちは「それでも納得ができない」からその意思を表現しようとしたのです。その意思を無下にできる人などいません

だからこそ、私は今、この記事に自分の後悔と怒り、贖罪の気持ちを表現したいと思って書いています。
たとえ、その権利が与えられていなかったとしても、知識を持つ人間としてできなかったことに対する戒めを目的に。

ここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございます。
この記事は、勝手ながらここまでとしたいと思います。

それでは。

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