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宙のまにまに

銭湯で担がれ、蕎麦屋で担がれてゆく。
担がれることは、総じて心地いい。
担がれる度に、はじめは少しばかりの警戒が働きはするが、担がれていく毎に、このままどんどんと成層圏の向こうまで担がれていけばどれほど幸福だろうかと念願してしまう。
たとえばそこで、聞いたことのないフレーズを吹くアルトサックスの、軽妙なジャズに担がれたならば、やりいかの天ぷらを、天つゆも、塩をもつけずに食せてしまうほどに、担がれてゆけるだろう。
気づいたときには遥か宙方から、遥か下方で胃が静かに燃えたぎっているのを見物している。その燃えさかった炎に水をかけるように、手が、レモンを搾り、わずかな果汁をヤリイカの天ぷらに滴らせていた。
「瀬戸内海でとれたヤリイカと檸檬です」
遠く向こうの近くの方で、蕎麦屋の店員の声がする。
すると不意に、担がれた先でコンコンとノックする音を聞いた。戸を開けると、ぼくの人差し指と中指だった。ぼくは彼らを笑顔で招き、尋ねた。
「どうしたんだい。さっきまでは下の蕎麦屋で親指と一緒に板わさのための本わさびを楽しそうに擦っていたじゃない」
すると彼らは、
「いやなに、なにか考え事があるみたいだったから、ぼくらに出来ることがあればと思って、それで額をノックしたんだがね」
まったくやられたね。ぼくは少し悩んで、彼らを部屋に入れた。そこで交わされた会話は、どうにも言いかねないから、また今度の機会に譲るとしよう。ただ、これだけは言っておこうと思う。素晴らしい時間だった。

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