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世界が離散化され、最適化されている

移動エントロピー

移動エントロピーは情報の流れを定量化できる。しかし、十分な長さの二つの時系列データが揃った場合に限る。もっといえば、各要素が取りうる確率分布がわかっていないと計算できない。連続値を扱うにしても、どこかで離散化してあげる必要がある。

情報理論は離散化された世界、つまりデジタル空間上での物差しが前提となっている。従って、情報量を定量化する際は、世界の複雑さが少しばかり、削られていることを加味せねばならない。

僕らが何かを離散化する、すなわち、現実の世界を切り取り、機械が扱いやすようにするとき、どこまで行っても僕らの認識が邪魔になる。

アンディ・クラークか誰かがこんなことを言っていたらしい。マグロは泳ぐ際に、尾びれを動かす。その尾びれによって作り出された海流は自己組織的に、マグロの泳ぎを促進する、と。

もしこれが本当なら、僕らはマグロの動きだけを解析しても近似値しか得られない。マグロが影響を及ぼす全ての事象を考えねばならないということだ。で、それはバタフライエフェクトや初期値鋭敏性みたいな話につながる。でもここでは話が広がりすぎる。

この世界の複雑さを全て考慮することはできない。ラプラスの悪魔でもいない限り。コンピューターが物理空間の全てを再現できたという日が来ても、きっと、まだ僕らには観測し得ない世界の複雑さが残っているはずだ。(これはきっと思想的なもの)

ただ、そうはいってもテレビの映像は年々美しくなっているし、こないだ見たPS5のグラフィックとかマジでやばかった。液晶の解像度が人間の目が捉えられる範囲を超えたみたいな話を聞いたけど、多分いろんなことがそうなっていくんだと思う。

最初の話に戻る。やっぱり世界を離散化しようとするとどこかで恣意性のジレンマに引っかかってしまう。それは世界を「どこかで切り取る」ことができないとも言えるだろう。でも、切り取って複雑さが失われたり、繋がりが失われても、多少のモデル化はできる。だから、テレビもスマホも、古くは幾何学や代数学もうまくいっている。

ある日、電車に飛び乗り、辺りを見渡すと、無数の人間が手に持った画面を真剣に、あるいはぼーっと眺めていた。自分が10代前半だった頃(2010年代前半)はこんなことなかった。世界は徐々に離散化されている。
博多の一蘭に行った時も、仙台のドトールに入った時も。僕らは一つの単位に切り分けられ、一つの量として数えられている。そんな気がした。

世界の離散化と最適化によって計算機にとってはどんどん心地の良い世界になってきているはずだ。そしてコロナ。世界はますます離散化された。離散化されれば、最適化は簡単だ。人と人とが出会い、起こるインタラクション。その複雑さは計算機にとって厄介だ。

メッセージも大体ラインでするようになった。会議もZOOM。どんどん余計な話はしなくなった。雑談や世間話をする機会は間違いなく減っている。

世界の全てを離散化することはできない。だから、所々離散化する。そうすると、局地的に最適化されていく。コミュニケーション、購買、事務作業、相談、医療、、、
全体が最適化されているわけではなくて、局地的な最適化が起こっているから、とても不健全だ。

今、情報理論を用いて、人間のインタラクションと感情を定量化しようとしている。でも、それはそもそもこの複雑さと神秘に満ちた世界を切り取ろうとする行為だ。それはそもそも可能なのだろうか。



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