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【小説・MIDNIGHT PARADE】[24]No Woman, No Cry

 走り去る美春の後ろ姿を、虹男は、ただ見送った。目に映る残像が消えるのも待てず、テーブルに置いてあった酒を一気に呷る。

「おかわり」

 出てきたジンライムをまた飲み干しグラスを揺らす。酒でゆらいだ視界ではそれは遠く煌いて見えた。氷の音がからん、と響いた。心の欠片が鳴っているような気がした。

 どうしてこうなるんだよ。

 虹男は一人、自分に問いかけた。それは、美春に関する事だけではなく、今までの自分の全てに対する呟きだった。

 東京に出て来てからの事、俺が何かをやった事。虹男は必死で今までの自分を思い返した。しかし、専門学校にいた頃の事も、会社に勤めていた頃の事も、何故か全てぼやけたようにしか、浮かばなかった。情けなかった。俺は、結局、何もしていないんだ。そんな気持ちばかりが虹男を満たした。

 色鮮やかに浮かぶのは後悔だけだった。また、同じ事を繰り返している自分に対しての嫌悪感だけだった。

 それからも、虹男は、杯をひたすら重ねた。視界がぐるぐる回っていくと同時に『ajito』には客が入り始め、今ではもうフロアも満杯だった。人混みと酒で気持ちが悪くなった虹男は『ajito』から出た。

「おやすみなさい」

 見張りのスタッフがそう言った。虹男はそれに答えずに、歩道橋に向かって歩いた。何度もよろめいた。目がちゃんと開かなかった。自分は今狂人のように見えるだろう。そう思ったけれど、体勢を立て直す事が出来なかった。路上にしゃがみこんで吐こうとした。けれど、空えずきしか出てこなかった。のろのろと歩道橋に上った。

 歩道橋の上では、夜風が吹きすさんでいた。歩道橋の端にはごみが吹き黙っていた。遠くから酔っ払いの怒号が聞こえた。右手に見える線路は、もう明かりを落とされてしんと静まり返っていた。足の下からごうごうと車が行き過ぎる音だけがした。せりあがるような感情に、虹男は足を止めた。

 美春を蹴った右足が憎かった。何処に行こうとしているのかわからないのに進む自分の足が憎かった。殴る事や蹴る事などしたくないのに、そうしてしまう自分の腕が、手が、足が、体が、憎くて堪らなかった。

 手すりに向かって足を進めた。真夜中といえど、渋谷の車通りが途絶える事はない。虹男は、手すりに腹を乗せじっと下を見た。残像を残しては消えていくテールランプが不思議と綺麗だった。赤信号で車が止まった。歩行者用の信号が点滅をし出す。車の流れがまた動き出した。虹男は更に足を一歩前に進めた。あと少し、重心を傾ければすぐに終わる。

 そう思った瞬間、後ろから声が響いた。

「あ、いたいた」

 驚いて振り向くと、さっき虹男に「おやすみなさい」と言った『ajito』のスタッフがいた。

「あれ、気持ち悪いんですか? 大丈夫?」

 呑気にそう言うと、彼は、虹男の背中を撫でさすってきた。

「吐くんなら全部吐いちゃった方がいいですよ」

 スタッフは、そう言いながら、虹男の背中をさすり続けた。虹男は、呆然としながら、彼のなすがままになった。すると、暖かいものが肩にかかってきた。自分の、コートだった。

「この寒いのに、コート忘れていくなんて、酔い過ぎですよー。気をつけて帰って下さいね。また、来て下さい」

 スタッフはそう言うと、鼻歌を歌いながら楽しげに歩道橋を下り、『ajito』へと戻って行った。

 死にたい訳ではなかった。ただ、自分に罰を与えたかったのだ。しかし、その気持ちも削がれ、虹男はその場にへなへなと座り込んだ。

 自分の余りのタイミングの悪さに思わず笑った。笑ったつもりだった。けれど、涙が零れ落ちてきた。虹男は、肩を震わせ、しゃくりあげた。その拍子に、コートが肩から滑り落ちた。寒い、と思った。その寒さで、虹男は、自分が今まで暖かいものに包まれていた事に気付いた。

 こんな風に暖かいものを忘れていたのだ。コートを忘れてしまうように、どういう風にこの腕や足を使えばいいのかを忘れていたのだ。いつだって、そうして、間違えた。いつも、そして、間違えてから気付いた。

 コートをかなぐり捨て、虹男はその場でひたすら泣いた。
 
 それから、どうやって家に戻ったのか記憶になかった。翌朝、起きてみると、心が丸ごと何処かに押し流されたような気がした。窓を開けた。晴れていた。また、涙が零れた。けれど、もう、泣き続ける事は出来なかった。何とか食事をして、着替えて、バイトへ出かけた。ずっと、自分の手元しか見られなかった。誰かに呼ばれて顔を上げても、何もかもがもやがかかったように霞んで見えた。バイトが終わった。家に戻りたくなかった。家にある食器一つですら、美春との記憶が詰まっていた。けれど、他に行く場所などなかった。何処にも行きたい所などなかった。仕方なく家に戻った。そのあたりに転がっているタオルや鍋やドレッシングですら、美春を思い起こさせた。その記憶から逃げようとすると、今度は早紀の記憶が蘇った。その度に、虹男は胸を掻き毟った。

 それでも、一週間もすると、虹男は、普通に日々を送れるようになっていった。人の心にはリミッターがあるって本当なんだな、と虹男は静かに思った。耐えられない事は、シャットアウト出来るようになっているのだ。もう今は、胸が張り裂けそうになる事はなかった。そこは、もう、からっぽだった。ただ、からっぽだった。

 そんな風にようやくなれた時、尚子が店に来た。

 カウンターに一人で座る彼女を見つけた瞬間、虹男は固まった。尚子が、ごく普通に言った。

「久しぶり」

 虹男は、それに答えられず、息を呑んだ。何も知らないのかと思った。その時、尚子が、こちらの心の内を見透かしたように言った。

「お節介だとは思うんだけど、来ちゃった。でも、美春もいろいろ私にお節介したからお互い様なの」

 虹男は、無言で、尚子の前にお通しを置いた。出来る事ならこの場から走り去りたかった。尚子が、メニューを開いて酒を注文し、箸を取った。虹男はのろのろと尚子の酒を用意し、彼女の前に置いた。その酒を一口飲み、尚子は、静かに言った。

「皆、忘れてるみたいだけどさ。あの子まだ十六歳なんだよ。あの子がそう扱われるの、嫌がってるのわかってる。でも、こういう時まで放って置くのはおかしいよ」

 そう言って、尚子はまた酒を口に運んだ。平日、早い時間の店に客はほとんどいない。カウンターには尚子一人だけがいた。同僚が一瞬バックルームから顔を見せたが、ただならない気配を感じ取ってか、すぐにまた持ち場へと戻った。虹男は、カウンターを拭きながら、尚子の言葉に答えた。

「もう、あいつ、俺に会いたくないと思うよ」

 尚子が顔を上げた。虹男はその視線を避け、下を向いた。つっかえつっかえ、言った。

「俺、会わせる顔、ないよ」

 ふっと目の前に熱い気配がした。尚子が身を乗り出し、虹男の手を掴んでいた。虹男は驚いて顔を上げた。尚子の顔が眼前にあった。瞳が強く光っている。その真っ直ぐな瞳のまま、尚子が言った。

「何が会わせる顔ないよ。そんな事言ってないで、追いかければいいじゃない。虹男くん、私に言ったじゃない。聞いてもらうの待つんじゃなくて自分から言えばいいって。だから、逃げたって追いかければいいじゃない。何処までだって追い詰めて捕まえてこっち向かせて」

「蹴っちゃったんだよ」

 一気にまくしたてた尚子を遮り、虹男は言った。

「こっち向かせて、俺、蹴っちゃったの。美春を。美春の顔を」

 目を丸くした尚子が絶句してこちらを呆然と見ていた。虹男は下を向き、拳を握り締めた。まな板の上で手が震えていた。どんなに力を入れて抑えようとしてもそれは止まってくれなかった。

「最低だよ」

 自分を殴るような気持ちでそう呟いた。尚子がそれを止めようと叫ぶかのように言った。

「そんな」

 首を振った。慰められるような資格はないのだと思った。もう一度繰り返した。

「最低だよ、俺」

 尚子が、眉をひそめてこちらを見ていた。その顔からも指先からも、同情が滲み出ていた。虹男は目の前のまな板をどんと叩いた。

「やめて」

 尚子が、小さく叫んで虹男の方に手を伸ばした。虹男はそれを振り払って言った。

「どうすればよかったんだよ」

 振り絞るように、言った。

「どうすればよかったんだよ」

 もう一度、言った。尚子が悲しげに頭を振り額に手を当てた。唇が、震えていた。

 こうやって、いつも自分は誰かを泣かせているのだ。泣かせたくはないのに、いつも。
 
 美春と会いたくなったら、私が何とかする。そう言って自分の電話番号を残し、尚子は帰った。虹男はそのメモをポケットに突っ込みながらも、きっと自分は電話をしないだろうと思った。電話する資格など、ない。

 店の営業終了後。後片付けと翌日の仕込みをしながら、レゲエ好きの同僚がボブ・マーリーのベスト盤をかけた。聞こえてくるのは、『No Woman, No Cry』。

 早紀も、美春も、一度も泣かなかった。泣いてくれたら、自分には何かが出来ただろうか。泣かせたくないという気持ちを、確認出来ただろうか。虹男は自分にそう問いかけながら、仕込み用の野菜をひたすら洗い続ける。

 手を切るような冷たさの水に浸された手が赤く染まっていった。自分の手が、他人のもののように感じられた。このまま、全ての感覚がなくなってしまえばいい。そう思いながら、虹男は、今はがらんと空いているカウンターを眺めた。


はい、今回の曲はこちら!

 こういうPV、奄美大島で撮りたいわ。出てくる人々も島の方々に似てる。

 ボブ・マーリ―のことはもちろん知っていたけれど、彼のバックグラウンドを全く知らなかったわたし。

 61才の父親と16才の母親の間に生まれ、父親に見捨てられ、母親とスラムで暮らし、仕事中に失明しかけるなどの人生を経て、音楽活動を始めた初期に住んでいたスラム街、トレンチタウンの思い出がこの曲の歌詞には詰まっているそうです。Wikipedia、読み応えあるよ。

泣くな 女よ

今でも思い出せるんだ
トレンチタウンの公営住宅地に座り込んで 
俺達が見張っていた
善人に紛れ込む偽善者共を

俺達の友達は
あの良い奴らは 道の途中でいなくなった
この偉大な未来で 君は過去に縛られている
もう涙を拭いてくれよ

泣くな 女よ
愛しい君よ 涙を流すな
泣くな 女よ
今でも思い出せるんだ

トレンチタウンの公営住宅地に座り込んで
ジョージが炎で辺りを照らそうとした 
丸太が一晩中燃え続ける夜を

コーンミールでお粥を作ったら 
君と二人で分かち合おう
俺の荷物はこの足だけ
だから歩みを止められないんだ
Bob Marley & The Wailers 『No Woman, No Cry』 和訳
【ロスト・イン・トランスレーション 洋楽の歌詞を和訳するよ】

 わたしも東京生まれですが、処女作『ろくでなし6TEEN』を読んでいただくとわかるように、本当にガラの悪い高校にいた家庭が複雑な子だったので、この気持ちがよくわかる。

 紛れ込んだ偽善者に騙されて堕ちていった子も、自らの闇に呑まれて消えていった子も、追いかけてくる過去に疲れて自分を失った子も、たくさん見てきた。

 でも、〝コーンミールでお粥を作ったら君と二人で分かち合おう〟。

 その気持ちこそが、人を救ってくれるんだと思う。

 ちなみに、この曲の作曲者のエピソードが、本当にすごくて。

作曲者ヴィンセント・フォードとは?

この名曲の作曲者が誰なのかについては、これまで何度も議論されてきた。ボブ・マーリーの元出版社でさえも版権をめぐって訴訟を起こしたが負けてしまっている。この曲には、ボブ・マーリーの生まれ故郷トレンチタウンでは有名人だったヴィンセント・フォードの名前が作曲家としてクレジットされている。

ヴィンセント・フォードは、糖尿病の治療をスラム街で受けられなかったために幼い頃に脚を失い、トレンチタウン中を車椅子で移動していた。そんなハンデもものともせずに、彼は公営住宅のあるガバメント・ヤードでスープキッチン(*炊き出し所)を営んでいた。ガバメント・ヤードとはある特定の場所を指すのではなく、政府が40年代に貧しい人たちを収容する西キングストンに建てたビル郡の間の広場のことを指す。他の地域にある掘っ立て小屋に比べれば立派な建物で、トイレがあり、水道と電気も通っていた。しかし、その地域の住民たちは仕事に恵まれることはなく、ひどく貧しい生活を送っていた。

そんなヴィンセント・フォードが提供していた賄いから恩恵を受けた人々の中にボブ・マーリーがいたのだ。彼の取り組みがなければ、ボブ・マーリーは飢えていただろうと彼自身が語っている。ヴィンセント・フォードはボブ・マーリーのいつかの作品に作曲者としてクレジットされており、その中には「No Woman, No Cry」も含まれている。ボブ・マーリーがなぜ最も有名な自身の作品一つのクレジットを彼に与えたのか、それについては諸説あり、ここでは詳しく議論はしないが、もし本当にボブ・マーリーが曲を書いていないヴィンセント・フォードに手柄を与えたのであれば、思いやりに溢れる年配のヴィンセント・フォードは、受け取った印税に助けられたことは間違いないだろう。命を救ってもらった優しさへのボブ・マーリーの素晴らしい恩返しだったと言える。

この曲をヴィンセント・フォードが書いたことにするというその約束は、最後まで破られることはなかった。90年代には、キングストンのボブ・マーリー博物館でヴィンセント・フォードの姿がよく目撃されている。彼は、ボブ・マーリーが苦労や貧困に対して究極の勝利を得たという事実を後世に伝えてきた、正に生き証人だったのだ。
ボブ・マーリー「No Woman, No Cry」:永遠のアンセムの誕生と作曲者ヴィンセント・フォードとは【uDiscovermusic.jp】

もっと長い、非常にいい記事だからぜひ読んでほしいわ。

 まさに、〝コーンミールでお粥を作ったら君と二人で分かち合おう〟を地でいくエピソードだよね。忘れたくない気持ちです。

 さて、全27回もあと少し。引き続きご感想待ってます。

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。