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【小説・MIDNIGHT PARADE】[25]Give Me A Reason

 携帯電話のフラップを開くのが、こんなに勇気のいる事だったなんて。美春は、先程から三時間、虹男に電話をかけようか逡巡していた。そんな自分に、他人事のように驚いた。私は、今、怖がっている。そう自覚して、美春は、唇を噛み締めた。
 
 今まで、美春には、怖いものなど何もなかった。けれど、虹男と会ってからの美春には、笑ってしまうくらいに馬鹿馬鹿しいくらいに怖いものが増えていった。待つ事も、知る事も、触れ合う事も、笑い合う事すら怖かった。全てが怖くて仕方がなかった。

 けれど、美春は虹男を怖いと思った事は一度もなかった。あの日、激昂した虹男に顔を蹴られても、美春は、彼に恐怖を感じなかった。

 美春が怖かったのは自分自身だった。こんな風に変わっていってしまった自分自身が、怖くて怖くて、仕方がなかった。

 フラップを開き、いまだに指の感覚だけで見つけられる虹男の番号を画面に表示した。この画面を見るのもこれが最後だ。その認識を振り切って美春は発信ボタンを押した。

 八回目のコールで出た虹男は、言葉を詰まらせ、二、三度咳をした。美春は、虹男が何か言葉を発する前に言った。

「『別れる?』の答え、言おうと思って」

 電話の向こうがしん、とした。室内に流れる音楽が、かすかに聞こえた。これは何の曲だっただろうと美春は考える。『ajito』でもよくかかっていたあの曲。二人でよく聞いたあの曲。そこまで思うと、押し寄せて来る感情に美春は押し潰されそうになった。それに攫われてしまう前に美春は口を開いた。

「もう無理だね。ごめんね」

 虹男が、息を漏らして侮蔑するように笑った。冷たい声が電話口から響いた。

「俺にうんざりした?」
「してないよ。私は、私にうんざりだよ、虹男は、悪くない」
「いや、俺が悪いよ。殴ってごめん。無理矢理、繋ぎ止めてごめん」

 美春は思わず、声を荒げた。

「無理矢理じゃないよ。私、虹男の事、好きだよ。なくしたくない」
「だったら」

 虹男の言葉の続きを遮り、美春は言った。

「私、もう、いっぱいいっぱいだよ。ごめん。ごめんついでに、酷い事言っていい?」

 しばし、沈黙が流れた。虹男が、かすれた声で答えた。

「いいよ」
「好きだよ。それでも」

 今、自分の頬に涙が落ちているように、きっと虹男の頬にも、涙が流れ落ちているだろう。美春にはそれがわかった。そして、それがわかるからこそ、二人はどうしようもなく駄目になったという事もわかった。

 虹男の息を吸う音だけが聞こえた。一度、喉にひっかかった言葉を無理に押し出すように虹男は言った。

「俺、それになんて答えたらいいの?」
「聞けない。聞きたくない」

 電話が切れた。美春は、携帯を床に落とし頭を垂れた。

 私は最後まで狡かった。いつも、逃げてばかりで、ごめん、虹男。
 
 虹男と別れてすぐに、美春は、新しい男との関係も切った。虹男を失くしたくなくて、失くしたくないからこそ試したかった。だから、その男が必要だったのだと美春はようやく悟った。虹男がいなくなった今その男には用がなかった。噛ませ犬だったのは、お互い様だ。美春はそう思って一人皮肉に笑った。

 虹男の番号は、削除した。けれど、その番号は美春の頭を離れなかった。
 
 ただ、静かに日々は過ぎた。美春は、毎日学校にきちんと通い、勉強をした。それぐらいしか、やる事がなかった。週末毎の『ajito』で会った誰かからの誘いの電話は「体調が悪い」といつも断った。そうしていたら、電話はあっという間に減っていった。美春はそれを寂しく思う事もなく、ただ、既に過去となった日々を確認するだけだった。

 一之瀬から電話があったのは、美春が最後に『ajito』へ行った日から一ヶ月後の事だった。「今日『ajito』来るだろ?」と一之瀬は、昔と何ら変わらない口調でそう言った。美春は、「行く行く、勿論。白石さんの日は外さないよ」と答えていた自分を懐かしく思いながら、口ごもった。

「何だよ。歯切れ悪いな。来いよ」
「お金ないんだよね」
「んなもん、貸すよ」
「いや、そういう訳には」
「お前、人が買ったシャンペン、半分以上、一気してた奴が何言ってるんだよ」
「あぁ、そんな事もあったね。その節はすいません」
「すいませんじゃなくてさ、いいから来いよ。虹男はもう来てないし」

 話してみれば楽になるかもよ、などといった甘ったるい言葉を使わない一之瀬のやり方に、美春は、やっぱり私はあの場所のこの流儀がとても好きだと思った。

「うん。ありがとう。気、使ってくれて。でも、そういうんじゃなくて、私、今、人がいっぱいいる所にいる元気ないんだ」
「じゃあ、早い時間ならいいだろ? とにかく来いよ」

 一之瀬のいつにない強引さに驚きながらも、美春は誘いを承諾し『ajito』に向かった。
 
 オープンしたばかりの『ajito』には、客は一之瀬しかいなかった。バーカウンター近くのスツールに美春と一之瀬は腰掛けた。がらがらのフロアでは、暇を持て余したスタッフ達が踊っていた。二人の近くを通り掛かった白石が、美春の頭をぽんと叩く。

「元気かよ」

 美春は、口角を少しだけ上げて、微笑んだ。大きく笑うとまだ痣が痛むのだ。美春のその様子に気付き、白石が眉をひそめた。顎を撫で、しばし逡巡した様子を見せてから言った。

「あんまり無茶するなよ。俺が言えた義理じゃないかもしれないけど」

 そう言って、白石はもう一度、美春の頭をぽんと叩いた。美春は叩かれた頭をさすり、一人、俯いた。子供みたいに扱わないで欲しかった。実際に子供だけれども、こんな風にされると、何だか全部に負けたような気持ちになってしまう。そう思うと、鼻の奥がつんとした。
 
 一之瀬がギネスを飲みながら、煙草に火をつけた。一之瀬もまた出せない言葉を喉に埋めているようだった。思い出したように飲み物を尋ねてくる。美春は、財布を出す一之瀬の手を押し戻して言った。

「何、気、使ってんの。お酒くらい自分で買うよ」
「いや、俺が誘ったし、一杯くらい奢るよ」
「じゃあ、シャンペン。瓶でね」
「またかよ」

 二人の間の空気が、ふっとゆるんだ。その隙に滑り込んで、美春は言った。

「虹男とは別れたよ。心配かけてごめんね。色々、ありがとう」
「いや、礼なんて言われるような事してねぇし」
「そんな事ないよ」
「いや、本当、別に何もしてないって」
「そんな事ないってば。まぁ、いいや、堂々巡りだし」

 また、沈黙が流れた。美春は、一之瀬のギネスを勝手に一口飲み、視線を落とした。

「私さ、怖かったんだ。虹男に好かれてるのがすごく怖かった。どうしたらいいのかわかんなかった」

 一之瀬が煙を吐き、ただ、静かに「うん」とだけ言った。美春はその相槌に背中を押され、言葉を続けた。

「だから、虹男が私の事、好きじゃなくなるようにしたかった。でも、どんなに最低な事しても、虹男は私の事、好きだった」

 美春は言葉を切り、流れる煙草の煙をただ見詰めた。右手にいる一之瀬が、じっと自分の言葉を待っていてくれているのがわかった。同時に、いつまでも黙っていても、そこにいてくれるという事もわかった。だからこそ、美春は言葉を搾り出した。

「私、私さ、皆、誰もが、自分にとって都合のいい相手が好きなんだと思ってた。それでよかったし、それだけでよかった。でも、虹男は私がどんなに最低でも私の事、好きでさ。私、最後の方はもうやけくそで、『じゃあ、こんなに酷い事されても私の事、好き?』って詰め寄るみたいに残酷な事、いっぱいしたよ」

 美春は言葉を切り、唇を噛んだ。息を吐き、一気に言った。

「でも、私は、虹男がどんなに私にとって辛い存在でも、好きだった。多分、きっと、私と同じように、虹男は私の事、好きだった。私、馬鹿だね。馬鹿過ぎるよ」

 私は、虹男が好きだった。美春は、それを今、初めて声に出して言った。美春はその言葉が、自分に染み透るのを感じた。自分の気持ちの大きさと同じ言葉を口に出すのは、実はとても難しい。美春は、やっと言えた、と思った。

 こんな風になってから言えるなんて自分はどうしようもなく子供だった。何もかもを見知ったような事を言っても、本当はこんなにも人と関わる事が下手糞だった。

 一之瀬が、自分のギネスを無言でこちらへ追いやってきた。美春は目で感謝の意を現し、それを大きく一口飲んだ。炭酸が喉に痛かった。けれど、無理矢理、飲み込んだ。

 誰もいないフロアに低く流れる曲は、モンド・グロッソの『Give Me A Reason』。理由を教えて、と歌う女の声。
 
 理由なんて、ないよ。だから、こんなに苦しかった。


はい、今回の曲はこちら。

英語の歌詞は出てくるけれど、日本語訳は出てこないのでGoogle翻訳で見てみた。

Give me a reason
Give me your best intention
Paint me a picture for my wall
Make sure it’s pleasin’
Give it your full attention
Give me a number I can call

I’ve been patiently waiting
For your arrival
But I need my survival
And ‘cause I know I can make it on my own

I’ll hold out ’til morning
And hope that I learn from the darkness
’cause it ain’t just you that’s tryin’ to hold on
Just try to start trusting
And I will be with you when you need
Somebody whose there when the circus is gone

理由を教えて
私にあなたの最善の意図をください
壁の絵を描いて
それが楽しいことを確認してください
十分に注意してください
電話できる番号を教えてください

辛抱強く待っていました
あなたの到着のために
しかし、私は私の生存が必要です
そして、私は自分でそれを作ることができることを知っているので

朝まで頑張ります
そして、私が暗闇から学ぶことを願っています
頑張っているのはあなただけではないからです
信頼を始めてみてください
そして、私はあなたが必要なときにあなたと一緒にいます
サーカスがなくなったときにそこにいる誰か
Give me a reason (MGOB EDIT & RMSTRD)歌詞【LYRICAL NONSENSE】
(英語部分のみ引用)

この回にぴったりだな、本当。是非とも読みつつ曲を聴いてほしいです。

理由なんていらなかったのにね、って、過去を振り返る時に思うことって誰しもあるよね。

怖かったって、それだけ言えばよかったのに。

さあ、全27回もあと少し。引き続き、ご感想お待ちしております。

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。