Akiko Komuro

北陸中日新聞記者。石川県加賀市をフィールドに事件事故から地域のほのぼのした話題まで、幅…

Akiko Komuro

北陸中日新聞記者。石川県加賀市をフィールドに事件事故から地域のほのぼのした話題まで、幅広く取材しています。

マガジン

  • 海部公子という生き方

    洋画家、陶芸家であり、「ゴッホの手紙」などの翻訳でも知られる硲伊之助。その弟子であり、硲の精神を受け継ぐ海部公子さんの人生をたどります。

最近の記事

#20 海部公子という生き方

ヨーロッパで知った日本の美、自由な精神  硲(伊之助)先生は日本の文化文政以後に発展した浮世絵版画を全く知らずにヨーロッパに行っていたんです。日本の美術を知らずに。それを南仏の宝石商でアンリ・ベベルさん(世界的な骨董収集家)という人から浮世絵の収集を「見に来ていいよ」と言われて、その膨大な収集を見てびっくりしたらしい。すごい世界を日本が持っていたんだって、全く自分が知らなかった日本の美術について、初めて衝撃受けたらしいです。  日本の浮世絵は印象派の絵描きたちの色彩への開

    • #19 海部公子という生き方

      アルミサッシとの闘い  美術館はすべて自然の材質、本物の素材でつくられています。建物は出蔵喜八大工(いずくら・きはち石川県白山市)です。コンクリートやアルミサッシは一切使っていない。土壁と木造です。アルミサッシを入れている人を見ると、左官屋さんや建具やさんに「お前たち死んでもいいんだぞ」って言ってるように見えるのね。(職人の)仕事をみんなでなくしちゃってるんだよ、よってたかって。ここは徹底的に新建材排除、コンクリート排除、アルミサッシ排除。そういうものを受け入れると言うこと

      • #18 海部公子という生き方

        硲伊之助美術館建設へ、市民運動で動きだした  1983年に先生の回顧展を加賀市美術館でやった。それからだね、A氏(※便宜的に以下A氏とする)との関係は。(紘一さん)A氏は清水(喜久男)さんを通して硲先生のファンになって、我々にも近づいてきたんですよ。それなりに人当たりがいいしね。我々も親しくしてました、ずっとね。  (海部さん)信頼しちゃったんです。自分が橋立に地面持ってるし、美術館を建てないかという話になった。潮風があたるから油絵のためにはよくないと思って、ずっとやるつ

        • #17 海部公子という生き方

          後を託すと遺言書に残した    最後の2、3年は(心臓性ぜんそくで)とても苦しい時が続きました。だいたい毎年秋に一水会の公募展があるのですが、その審査をして、いったん帰ってから展覧会をしていた。だから年に二回は東京に車で行っていました。それ以外にもよく行っていたし、晩年は私たち二人が一緒に車で旅をしていましたね。(紘一さん)だから最晩年のころ、ちょっと具合悪かったんで、先生を置いて二人でゴッホ展見に行ったことがあったんです。(海部さん)寂しそうだったって紘一さんは言うんだけ

        #20 海部公子という生き方

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        • 海部公子という生き方
          21本

        記事

          #16 海部公子という生き方

          「家を手放して先生の作品に変えたい」  その頃の生活は作ることが生活の中心でした。清水喜久男さん(石川県加賀市大聖寺山田町)が窯から上がった物を持って行くと買い取ってくれました。清水さんはある日訪ねてみえて、「作品がほしい」と。当時は中日新聞が熱心にここのことを記事にしてくれていたので、それを読んで興味を持ってくれたようです。大同工業のサラリーマンで、退職後することがなくて退屈してたらしいの。それで「この古い家を手放して先生方の作品に全部変えたい」なんておっしゃるんでびっく

          #16 海部公子という生き方

          #15 海部公子という生き方

          ここでずっと一緒にやろう  ここ(石川県加賀市吸坂町)での暮らしを語る上で、HさんとYさんという二人の女性の存在は欠かせません。ここでずっと一緒にやろうと思っていたんだもの。彼女たちのことは私の歴史の中で重いことなのよね。どうして彼女たちとやっていこうと思ったのか、自分でも不思議なんだけど。  Hさんは軽井沢出身で、父親が硲先生と深い関係がありました。父親は木こりの生活でした。先生が描いた父親の肖像が石川県立美術館に入っています。いい絵ですよ。私も何度か軽井沢の家にうかが

          #15 海部公子という生き方

          #14 海部公子という生き方

          一刻一刻が真剣勝負  ヨーロッパに行く前から、こちらの家(山中温泉我谷村から移築した古民家)は住める状態ではありました。でも二階に寝泊まりしていて、昭和38年の豪雪の時かな、まだ建具が入ってなくてむしろを垂らしたりなんかしてて、そしたら掛け布団のすそに雪が積もってたりして(笑)。屋根から出入りしたんだもの、2メートル以上積もっちゃって。外にも出られなくて。だから3時、4時起きで、3~4時間は雪との格闘の日々でした。新聞とか郵便物を届けてもらえるようにするために、雪のトンネル

          #14 海部公子という生き方

          #13 海部公子という生き方

           1964~65年のヨーロッパ研修旅行。今回はパリでピカソの画商と会った話、過去にはその画商が取り持つ縁で1958年の国内初ゴッホ展が開催された経緯など、知られざるエピソードについてつづります。  ピカソの画商「ほしければ一枚あげる」 1964年の暮れ近くに、ピカソの画商のカンネベレールさん、ユダヤ人だと思うけど、パリにビルを持っていました。先生がカンネベレールさんを知っていてビルを訪ねたんです。どの階にもピカソの作品が裸や額縁に入って並べられていました。小さい絵がいっぱい

          #13 海部公子という生き方

          #12 海部公子という生き方

          中国大使の縁で東欧アルバニアへ 東ドイツでは中国領事館の王国権さん(中国の外交官、1910~2004)を訪ねました。大使とのつながりは硲伊之助の愛弟子で、私の兄弟子にあたる永井潔です。彼が1963年に向こうに行って、日本で何かやるのに都合の良い文化関係の有力者と知り合いになってつないでおいてくれたんです。「日本で展覧会をやる時に、先生が向こうでスムーズに交渉が進むんじゃないか」というので、渡りを付けておいてくれました。  その人はフンボルト大学で教えていた金澤幸雄さん(元「

          #12 海部公子という生き方

          #11 海部公子という生き方

           東京から石川県加賀市吸坂町へ拠点を移し、本格的に色絵磁器制作を始めた硲伊之助と海部さん。1964(昭和39)~65年には朝日新聞社のはからいで、ヨーロッパ諸国を巡る機会に恵まれました。ヨーロッパ近代絵画の一級品を国内に招致し、展覧会を開くための調査が目的でした。その旅路で海部さんは超一流の美術品を目の当たりにし、その後の作品づくりに大きな影響を受けることになります。まずはフランスから始まった旅の前半を振り返ります。(※トップ画像は硲伊之助、1964年パリで撮影) 欧州8

          #11 海部公子という生き方

          #10 海部公子という生き方

           石川県加賀市山中温泉の山奥で、ダムに沈む寸前の民家に出会った硲伊之助と海部さん。この家を同じ加賀市内の吸坂(すいさか)町に移築することになるのですが、吸坂町は古九谷と同じ江戸時代初期に「吸坂焼」と呼ばれる焼き物が作られた場所でした。二人は運命的にこの地と出会い、窯を構える覚悟を決めます。多くの職人の助けを借り、九谷焼に絵画表現を模索する日々が始まりました。 経済的に苦しい生活を覚悟して 東京から石川に移ってくるころは、金銭的にはとても厳しい状況でした。絵描きの生活の厳しさ

          #10 海部公子という生き方

          #9 海部公子という生き方

           海部さんは20歳の時に硲伊之助に弟子入りし、共同生活を始めました。東京からどのような経緯で石川県加賀市吸坂町へと移ったのでしょう。大きな動機になったのが、現在も暮らす築400年と言われる茅葺き屋根の古民家でした。そこにも手仕事への深い洞察があります。経済的に苦しい生活を、ひと肌脱いで支えてくれた人たちもいました。  (筆者注:硲伊之助は1951年〈昭和26年〉、当時56歳ころから陶磁器制作のために石川県小松市に滞在するようになりました。その頃、海部さんは10代前半で、もち

          #9 海部公子という生き方

          #8 海部公子という生き方

           硲伊之助は1921~29年、33~35年と戦前、2度にわたりヨーロッパに滞在し、芸術の都パリを中心に当時最先端の絵画表現の潮流を学び、吸収します。中でもアンリ・マティスと運命的に出会い、生涯の師と慕い、交流を深めました。戦後はそのマティス展、さらにはピカソ展、ブラック展、そしてゴッホ展の国内初開催に尽力。ヨーロッパの近代絵画が日本の国民に広く認識される原動力となりました。今回は海部さんの目から見た硲とマティス、さらにはゴッホについて語ります。(トップ画像は硲伊之助作「栗」1

          #8 海部公子という生き方

          #7 海部公子という生き方

           20歳の時、海部さんは東京・多摩川沿いの家で硲伊之助と一緒に暮らし始めます。当時、硲は64歳。どんな思いが、海部さんに硲とともに生きる道を選ばせたのでしょう。そこには硲に掛けられたある言葉、そして互いに惹かれ合う男女の気持ちがあったようです。(トップ写真は1961年、当時22歳。硲伊之助〈右〉と岡山・天満屋にて) 酒場の仕事を心配されて 硲先生について行こうと思ったのは私が20歳の時です。私は夕方から仕事を始めて夜通し立って人の相手して、お酒が入って男の人がからんでくる

          #7 海部公子という生き方

          #6 海部公子という生き方

           おでん屋をきっかけに硲伊之助と出会った海部さんは、三鷹にある硲の家に通うようになり、絵描きの仕事へ関心を深めていきます。すでに硲はこの頃、陶芸に目覚め、石川県小松市の初代徳田八十吉の元に絵付けを習いに通っていました。海部さんは渋谷のおでん屋の後、高円寺、新橋でも飲み屋を経営しながら、硲、そして絵との距離を徐々に縮めていきます。 新聞連載の挿絵のモデルになった 硲先生の三鷹の家では、疑問があれば何でも質問していました。そういう空気をつくってくれていたみたいです。モデルにしょ

          #6 海部公子という生き方

          #5 海部公子という生き方

           若干16歳にして渋谷駅そばに開いたおでん屋を通じて、海部さんは生涯の師となる硲伊之助と出会います。三鷹にある硲の自宅兼アトリエに通うにつれ画家の仕事に関心を深め、また硲の人間性に惹かれていきます。そもそも海部さんと絵のつながりはどこから始まったのでしょうか。小学生のころの思い出にさかのぼります。 おでん屋をきっかけに、絵の人生が始まった 五里霧中でおでん屋をやっていた時に出会ったお客さんで、丹羽さんという外務省渡航課の人がいました。その丹羽さんから「僕は(外務省の)美術同

          #5 海部公子という生き方