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#14 海部公子という生き方

 石川県加賀市吸坂町で九谷吸坂窯を築き、硲伊之助の創作活動を支えた海部さん。かたい信頼関係のもと、師の手となり、足となって色絵磁器に絵画表現を追及する日々を送ります。自身も背中を押されるように作品を制作。誠実に生きる職人や農家の女性らとも心を通わせ、充実した毎日でした。

一刻一刻が真剣勝負


 ヨーロッパに行く前から、こちらの家(山中温泉我谷村から移築した古民家)は住める状態ではありました。でも二階に寝泊まりしていて、昭和38年の豪雪の時かな、まだ建具が入ってなくてむしろを垂らしたりなんかしてて、そしたら掛け布団のすそに雪が積もってたりして(笑)。屋根から出入りしたんだもの、2メートル以上積もっちゃって。外にも出られなくて。だから3時、4時起きで、3~4時間は雪との格闘の日々でした。新聞とか郵便物を届けてもらえるようにするために、雪のトンネルのような道を造らないといけなかった。

 ここでの暮らしは退屈とかそういうのとは無縁でしたね。やることが次から次へと見えてくる感じで。やることなすこと全部本質につながるような感じでした。先生との呼吸がまたぴったり合ってたから。私がすることや提案に対して、頭から否定する事なんて一度もなくて、むしろ引き取ってもらえてましたね、今考えると。「あ、それはいいね」とか喜んじゃうのよね。「あ、それは助かるね」とかね。間髪入れずに来るんだよ。

 毎日がこの日この日を無事に乗り越えるというか、一刻一刻が真剣勝負のような毎日でした。生地づくりで随分時間を使いましたね。生地の工房の職人たちと随分仲良くなってね。徳田八十吉さんのところで働いていた宮崎さんという人が生地づくりの名人でね。でも宮崎さんはすっごい悲惨な生活だったんです。それを先生は見ていて、仕事の良さを感じていました。お茶わん一つでも手抜きがなくて。生地をつくる工程でも、休みの日にリュックサックしょって長靴はいて、川を流れてくる陶石をひろって、工房に持ち帰って、砕いて粘土にして作ってたみたい。いい陶石が取れる場所を突き止めていたのよね。生地をつくる職人もいろんな人がいて、京都の人は薄手の物が得意だったりして、でも先生はあんまり薄手の繊細なものは好きではなかったので。生地も自分の好みに合う人と知り合いたかったと思うんです。ここで生地をつくる人も育てられたら良いなと思っていたと思います。

人間と作る物は切り離せない

 それと生地をつくる苦楽を知りたいというのがあったと思います。どこに苦労があるのか、どこに問題があるのか。そういうことを突き止めようとする気持ちが人一倍強かったと思います。どんな仕事をする人に対してもそうでした。単純に注文して作ってくれというのではなく、その人間そのものの中に切り込んでいく。だからとっても職人さんと仲良かったですよ。人間と作る物は切り離せない、という考えを持っていたから。小手先で物が作れるという考えに立っていませんでした。だから表現というのは人間そのものが出るんだ、どんなにごまかそうとしてもごまかせる世界じゃないんだ、という考えを持っていました。食べ物屋でも靴でもワイシャツでも、ちゃんと一つ一つを診断しながら生きていました。セーターもフランスで買ったのか、革の肘当ての付いたもので、編み直した痕もたくさんあるんだけど、紘一さんに「君、これ着る気ある?大事に着るんならあげるよ」って。50年着たセーターをよ。それは火事でなくしたけど。だから毎年、下着やら買いまくっている空気をすごく嫌がって。つぎあてても大事にするという考えだから。

 ともかく大事にする人でした。徹底的に味わいながら。その人がその日に着てくる物もきちっと見ててね。取り合わせの悪いネクタイをしてると「それ、ちょっと合わないんじゃない」とか平気で言ったりしてね。物を大事にするということが、人を大事にするということにつながっていました。だから今のSDGsの考え方とつながるんじゃないでしょうか。だから修復家の仕事もとても大事ですね。油絵は劣化を招きますからね。日本は国立の美術館でも修復家が大事にされてなくて、駄目になる絵がいっぱいあるのよ。絵描きの方も駄目になるような絵の方が助かるみたいな絵を描いてる人が多いので。硲先生は林武とか岡本太郎とは全然考えが違っていました。そういうのをずっと見て感じて生きてきて、絵は大変な世界だなあと思って、恐怖にまみれたこともありました。とてもできないと思って。先生のような生き方考え方ではとてもできないし、またやりたくもないよ、そんな世界と思ったりしたこともある。

絵のそばで生きられるだけで幸せ

 でも先生の考え方に従って生きてきたら、絵のそばで生きられるだけでも幸せみたいな気持ちにもなりました。それは逆にね。ここまで生きてきて感じるのは、先生の考えをちゃんと受け継いでる絵描きが本当にいないんですよね。先生の弟子でも。先生は政治よりも絵が大事という考えでしたが、永井潔は絵はもちろん大事だけど、政治が大事っていうか、それでちょっと議論になりかけたこともありますけど。一番身近な一番深い関係なんだけど、それにも関わらず、本質のところでは、マティスの考え方についても受け止めてないというか。そこまで深くお付き合いさせるように、私が手伝えなかったというのは、私にも責任があるなってこのごろ思うんです。24歳も年上だから私の頭の上の漬物石のような存在だったから、うっかりしたこと言えないよね。大先輩だと思うから。大先輩だってなにさ、先に逝っちゃだめじゃない、ってこのごろ思ったりする。でも私にも足りないところがあったかなって。どんな立場であれ、気が付いたことは教え合ったりすることはできるじゃないって。

 もし今の吸坂窯の状態を先生が見れば、(夫の硲)紘一さんが絵の具にすごい詳しくなって、発色とか線の動くの動かないのなんて、窯も毎晩のようにたいてるけど、あれだけ色に敏感に反応できる色絵磁器の専門家はいませんわ、たぶん。自分の表現と結び付いたね。絵画的な色絵磁器ということで、ちゃんと芯を抑えながら深めてきたっていうことでは、他の人はできない世界かもしれないなと思います。

 でも、そういう気持ちで取り組めば、みんな開ける世界だとも思うし、私たちだって鈍才なのにやれてるんだから、あんまり範囲を広げないで深めればね。今までの分の命の時間があれば、人も育てられるだろうし、もっと良い場所にできるだろうし、人が表面的に見てうらやましがるとかそういうんじゃなくて、ほんとにね。そういう風に発展させられたらいいなあと思いますね。命が足りない。先生がいつも言ってた。「命が足りない、命が足りない」って。人間は短すぎるよ。あなたも死ぬし、あたしたちも死ぬけれども、少しでも若い子どもたちに希望をつなぎたいよね。

先生たちに尻をたたかれて

 (1971年に金沢大和で最初の陶芸個展を開いた)私は先生の助けになることなら何でもやろうと思っていたので、自分が作家になろうとか、絵描きになろうとか・・・絵を描いて生きていける世界の近くで生きられればいいかなっていうだけで、それほど欲はなかったんです。だから木下義謙先生と硲先生に尻をたたかれたような形でした。「そんなことじゃ、ここの後がずっと困るよ」と言われて、「やってよ、やってよ」と。だから私に対して随分評価が甘かったと思いますよ。もっと厳しく言いたかったこともあったと思うけど。だからデッサンでもかなり厳しいんだけど、その場で否定するような言葉を言われたことはないんです。私が下絵を描いて、大皿に写す時に雁皮に写して、それが正確かどうかというのを一生懸命自分で修正しながらやっているのを見て、「いやー驚いたなあ。この前まではちょっと間違ってると思ったけど、ちゃんと直ってるから不思議だよね、君の仕事は」なんて言われたり。あ、そうなんだと思って、ぽかんとしてたけど(笑)。すごく気にしながら、私が嫌にならないようにしてた気がします。

 徹底的に民主的というか。むしろ自分の真似をして平然としてるのは困る、と考えていました。その人の個性を発揮してくれることが、自分にとってのいい弟子の存在だと思ってた節がありますね。それがあるんで、あの人(紘一さん)との共存が可能なんだと思う。それがなかったら私の方が、俺の方が、となっていたかもしれませんね。今力を合わせられるところは合わせるし、互いの作品に対しても手厳しいことは平気で言い合えるし。こうした方がいいんじゃないっていうのは、ああそうだなって、お互い思えることもあるし。それはいいですよ。自由だから。自由な空気ってとっても大事だと思う。

 展覧会とかには興味なかったですね。裏ばかり見えてしまって。展覧会そのものを維持する事務局をやっていたので、作品を運んだり、審査の手伝いしたり、発送したり雑用が多いんですよね。一水会陶芸部のね。それを担わないとなりたたないから。硲先生がなくなったときに、今右衛門、柿右衛門、徳田八十吉の3氏に今後どうするか、止めるか続けるか話し合いたいといって召集かけたんです。自分たちの実情も話して、今後事務局を背負いながら制作活動も負担なので、存続するならば何か方法を考えてほしいと伝えました。八十吉(3代)が乗り出して、うちが全部引き受けるというので再発足しました。2011年暮れまで30年余り続いたんです。

 私が作るときは先生とは別の場所でやっていて、時々通り掛かってはのぞいたりしていました。先生は板の間を全部占領して、こっちはタイルの大きな広間を占領して。生地も作れるし、絵付けもできるし、とってもいい空間だったの(1990年の火事で焼失した住居兼アトリエ)。

素晴らしい人々との出会いがこの地に引き留めてくれた

 (取材中に古い写真を見ながら)深田きよさんといって柴山潟の農婦です。私が大事に大事に付き合ってきた人。1996年かな、亡くなったの。80歳で。戦争未亡人で、典型的な柴山の女と言われる人。働き者で素晴らしい人でした。このごろ思うんだけど、東京からこっちに来る動機になったのは、現場で働く人に会えるかもしれないというのがあったと思う。農婦とか漁民とか、そういう世界の人に興味を持っていました。子どもの時から。ネクタイしめた背広のサラリーマンは描きたいとは全然思っていなかった。それがなんでか、樋口清之さんから聞かれたことがあるの。「どうしてそういう農家の生まれでもないのに、そういう人が描きたいと思うんだ」って聞かれたことがあって、あたし答えに詰まってしまって。でもこのごろ分かりました。やっぱり本質があるからなんだと思う。生き方や考え方、それから自然への畏敬とか、人間、生物、命の存在として最も離れちゃ行けない部分、大事に考えていかなきゃいけない部分を、生きてる典型的な存在が漁民とか農民の中にあるんじゃないかなと思った。そうじゃない人もたくさんいるけど、深田さんはすごくお手本になる人でした。

 深田さんは柴山から大八車でずーっとお野菜を売り歩いてきていました。朝3時に出るんだって。10何キロあるでしょ。夜明けにここにたどり着いて。前の日は暗くなるまで畑で働いて、お野菜を収穫して、そして井戸端行って全部洗って束ねて、朝売りに行く準備をして休むんだって。私と仲良くなってからはね、大八車の端に腰掛けてお弁当食べてね。それちょっといいから描かせてって言うとね、じーっと辛抱強くポーズ取ってくれるの。かわいいの。電話もくれるの。「海部さん、これからダイコンの種をまく季節が来たんだけど、これから来られたらダイコンの種まきが絵になるんじゃないか」って。それで私の描いてるものをのぞき込むわけでもないのに、これが絵になるんじゃないかって。

 「ナスをもぐから来んか」とか「イチゴ摘みが始まるから、畑に何時にいるから待ち合わせしよう」とか電話くれるの。茅葺きの職人がうちに入る時は「朝早くからご飯出したりするの大変でしょ。よかったら手伝いにくるけど」って言うから「じゃあ、深田さん、ひと晩泊まって、朝早く起きて面倒見てくれる?」って言ったら「いいよいいよ。できることはやるから」って言ってくれて、何でも手助けしてくれました。すごい人です。彼女は本当に助けてくれました。カブぶら下げたり、ダイコンぶらさげたりした姿がとてもきれいでね。それとコスチュームがどんなファッションよりも優れてると思ったもの。どんな最先端の衣装よりも、もんぺファッションが素敵だと思いました。スタイルがよかったんでしょうね。描きたくなりました。深田さんを描いた作品も何点かあります。あれだけちゃんとポーズしてくれて、実生活にも深入りできて、常に助けになることはないのかなって思ってくれて。あんな宝石のような人がいたんだと思います。そういう人が私をつなぎ留めてくれたんだと思います。生地つくりの田中久さんもそうでしたね。魂が衣服を着ているような人でした。そういう人は永遠の命を生きられる人だと思います。お手本です。(続く)

 


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