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#9 海部公子という生き方

 海部さんは20歳の時に硲伊之助に弟子入りし、共同生活を始めました。東京からどのような経緯で石川県加賀市吸坂町へと移ったのでしょう。大きな動機になったのが、現在も暮らす築400年と言われる茅葺き屋根の古民家でした。そこにも手仕事への深い洞察があります。経済的に苦しい生活を、ひと肌脱いで支えてくれた人たちもいました。 

(筆者注:硲伊之助は1951年〈昭和26年〉、当時56歳ころから陶磁器制作のために石川県小松市に滞在するようになりました。その頃、海部さんは10代前半で、もちろん硲と出会う前。硲は精力的に陶磁器を制作し、54年2月、芸術新潮に「油絵への決別ー工芸家一年生-」と題した文章を寄稿。59年には一水会に木下義謙、酒井田柿右衛門、今泉今右衛門らと陶芸部を創立します。この年、20歳だった海部さんは硲の内弟子となり、ともに生活を始めました)

色絵磁器を絵描きの力で盛り返す

 硲先生は石川県へちょいちょい出掛けていたんですが、一水会の油絵部門に色絵磁器を並べるようなことを考えて、柿右衛門さんや今右衛門さんを誘って陶芸部を発足させるわけですよ。ところが色絵磁器だけでは会として脆弱だというので、美濃焼の人や備前焼の藤原啓さん(1899~1983)、金重陶陽さん(1896~1967)も参加させてほしいとか、させた方が良いという意見で、陶芸部として幅広く募るようになっちゃって。ちょっと硲先生の考えとは違った方向へ行くんじゃないかと本人も危ぶんでいました。会というのは会員を多くすると、ピラミッドみたいになって、ろくでもないものになりがちなので、膨らませないようにすごい気を付けてましたね。ずっと会に携わっている間。それを私たちは受け継いだものですから、三代徳田八十吉さんは拡大拡張主義だったので、よく衝突というか、対話が一致しないことがかなりあって、参加しているのに息苦しかった面がありました。

 有田の今右衛門にしても柿右衛門にしても、色絵磁器は立派な伝統だし、どうにかして絶やしたくないという気持ちが硲先生にありました。そういう気持ちを木下善謙さん(きのした・よしのり、1898~1996、洋画家・陶芸家)とも共有して、ぜひ日本の色絵磁器の伝統を絵画の、絵描きの力で盛り返そうという気概でした。だから九谷焼に限らないんですよ。古九谷有田説とか、そういう陳腐なレベルの低い話には全然乗る気もなければ、興味もない。ばかなことやってるわという感じでしたね。私たちもそういう気持ちですね。そういうところに引きずり降ろしてしまってはいけないと思っていました。

 三鷹に窯を作って東京でやってても、やる必然性がないし。私が先生についてくるようになってから、先生の頭に「やるんなら本格的にやりたい」という思いが強まったようです。本格的にやるためには、そういうものが生まれた場所に行って、原料なり、そこに携わった人間たちに触れるのが一番いいんじゃないかというのは、論理的にも考えていたみたいですよ。硲先生に「あなたが協力してくれれば百人力だ」と言われて、すっかり乗せられた面もあるんですけど(笑)。でも若いエネルギーというか、熱のある生き方にギューッと引きつけられましたね、私自身もね。

ダムに沈む寸前の山里で茅葺きの古民家に出会った

 それがこの家との出会いがあって急に加速しちゃったんですよね。1961(昭和36)年のことです。私と先生は山中温泉に家を借りて、その二階を仕事場にしていました。私が車で生地作りの東野清治さん(加賀市)とか田中久さん(小松市)とか森一正さん(寺井町)のところとか、あちこちかけずり回って、先生が仕事しやすいように生地を持ってきたり、上絵の仕上げたのを堀江青光さん(加賀市、九谷焼作家)の窯に入れてもらったり、いろいろやっていました。そうやって歩いたことはとても勉強になりました。

 その頃、古九谷の窯跡にもちょいちょい行ってたんですよ。この家に出会ったのは、その途中にある我谷村(わがたにむら)というところです。我谷はすごくきれいなところで、渓流の両側に赤い侘助の咲く岸辺があって、そこに合掌造りの家が点在していました。さらに大聖寺川の上流域には6、7か村あって、その集落はみんな70~80年くらいのものだったんですが、我谷村だけが江戸初期に建てた建物がそっくり集落ごと残っていました。しかも我谷盆という生業とともに、人間も我谷盆とともに生活しているんですよ。そういう集落でした。

 これがダムの計画で立ち退き要求されていました。みんな非常に悲惨な気持ちでやってるんです。でも先祖代々が守ってきた手塩にかけた家を手放したくない、というのが本音ですよね。その悲痛な思いが伝わってきましたね、彼らの話を聞いてね。

 ダムの計画自体はもう何年か前から始まっていて、私たちが行ったときには家が15、6軒しか残っていなかったです。立ち退きになった家は礎石の真ん中に壊した家を集めて、火を付けて燃やしていました。なんてもったいないの、こんな立派な材木燃やしちゃうの?という感じでした。その頃は日本中がもったいないだらけでしたね。

「この家を助けたい」

 その頃には新建材の家が普及して、古い物に価値を置かない、捨てるのが当たり前のような風潮が生まれていました。だから我々は変人扱いされてましたよ。捨てられたものを集めて暮らしてるというように。だから硲先生は海外生活が長いから、日本人の方向を間違った考え方、文化行政がない日本っていうのを嘆いて、憂えていましたね。「これじゃ、将来がない」と言って。「日本に未来はないよ、このままじゃ」と。だから自分だけでも、何とかこの家を助けられたらというのを考えていました。一軒だけじゃなく、なるべく広い土地を持って、5、6軒こういう家を建てて、そこでみんなが十数人の芸術集団というか、まともな物作りのいい生活の空気をつくりだしたい、というのが夢だったと思います。田んぼもやりたいとか、畑もやった方が良いとか、随分言ってました。

 この家の持ち主は中筋さんという人です。おじいさんから「わしらの家を助けてくれんか、もろてくれんか」と言われてね。この家がただ燃えてなくなってしまうのが悔しくて。それが東京に帰る前の、私の脳裏にからみついて、ダムの底に沈んだ家がおぼれそうになった夢を見たりしました。直接には九谷焼と結び付いてないみたいだけど、移住へのものすごい直接的な動機になっちゃったんです。

 でも小松の近くでやるよりは、古九谷発祥の地だということで加賀市の方に来たがってたんですよね。それもあって、山中温泉に空き家があると聞いたら、そこで仕事する方が良いかな、みたいなのがありました。だんだんこっちに近づいてきたんです。我谷村に3、4回足を運んでるうちに、ひとごととは思えなくなってしまって。この家だけでなく、もう一軒分の材木も持ってきたんです。日本の近代化のひずみの中で、置いてきぼりにしちゃいけないものを拾い上げて、価値を再認識させたいという強い思いが先生の中にあるのを感じました。この家に住んだことですごい力になりましたね。ここで根を生やしてやっていこうという気持ちが日々強められました。とってもいいですよ、ここに住んでると。気持ちいいよ。だから寒かったり、ちょっと不便だったりするけど、全然後悔したことがありません。

 この家は江戸初期のものですね。古九谷の時代(1655年ころ)と合致すると思いますね。ここに来た伝統や文化に関心のある人は、すっごい感激します。感じるものがあるようです。吉武輝子さんとか毎回喜んでくれましたね。井伏鱒二さんも。石垣綾子さん、ロベール・ギラン(フランス人ジャーナリスト)夫妻も喜んでくれました。

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手仕事の集積。古九谷も同じ

 築400年くらいですね。元々の持ち主は山も含めて先祖代々、受け継いでいるんですよね。この8寸の柱は栗ですよ。大工が床めくっていってましたけど、土台は全部栗だそうです。一本だけ杉が入ってて、杉は腐っていたそうです。栗は腐らないんですよね。水気に強くて。だから3~4メートルの積雪の中でも耐久性に富んでるから、栗の木を大事に育てて、うんと太くくなった木を切って一軒の家をつくったらしいんですよ。その頃は、一軒の家を作るのに、ほかの人も手伝ったらしいんですよ。自然と対話しながら技術を磨く。それだけじゃなくてお互いやってることをわかり合える関係で。だから人のことも我のこと、我のことも人のことっていうね。お互いのことがわかり合える関係があったんじゃないでしょうかね。

 古九谷もその一環に生まれた手仕事に違いないので。だからあんまり理屈こねてわーわー言っても、そこからはできないと思いますね。方法さえ間違えなければ、自然と生まれてくるような気がしますね。

 当時と時代の変わりようがすごいから、(古民家の移築は)今振り返るとすごいことをやっているように見えるけど、当時はそんなにね、私自身はすごいことやってるなんて全然思いもしないし。何か呼吸が楽になる方へ来たみたいな。苦しいことは嫌ですね。つらいことがあっても、それは乗り越えれば、呼吸できる場所に出られるんだよっていう感じが努力させるんでね。私の絵の道はそういう感じです。努力できるこことは才能だとも言われたけど、努力できることは幸せだと思いますよ。恵まれていることなんだと思います。

 努力そのものができないところに閉じ込められて、みんなあがいているような気がします。石川県九谷焼技術研修所で30年間、大皿のカリキュラムを一つだけに限って、細いツールをもってたんだけど、そこで学んだんですよね、私自身も。みんな本当にやりたいことはあるんだなあ、と思って。みんな絵の才能はもってるんだけど、ゆがんじゃうのよね、途中で。変な功名心だとか、拝金志向だとか、いろんなものに邪魔されて、振り回されて、どっかへ拡散してしまうような気がする。そうならないようにやってきてるような気がします、自分自身ね。そうなっちゃおしまいという気持ちがあるので。

 お金っていうのは、チャップリンの考え方が一番いいと思うの。お金で人間は生きるんじゃないと。ほんのわずかなお金があればいい。それを追っかけるようになると、おしまいだと思う。今、コロナの時代で思うのは、拡大拡張主義は大きな壁に突き当たってるんじゃないでしょうか。多様化が認められ、ジェンダーというのが人権の問題なんだと気づきましたね。国際社会の中で人権が重視されるようになったのは進歩じゃないでしょうか。

「自在屋」さん、吉田実富山県知事との交流

 話は戻りますが、硲先生と一時暮らしていた山中温泉の空き家は当時の富山県高岡市長が家主でした。その高岡市長とのつながりは「自在屋」という骨董屋をやっていた山口勇治さんという人です。自在屋さんというのは高岡の老舗の料亭の御曹司だった人で、古美術が若い時から好きで、出征先で戦死した兄のお嫁さんと結婚させられそうになったんだけど、それが嫌で、自分の好きな人と駆け落ちして東京に出て、風呂敷包みに骨董を包んで売り歩いたりして、そうやって東京での苦難の生活が始まったんですよ。小さい店をやり始めるようになって、横山大観のところに行ったら、「お前に名前を付けてやろう」って言って、自在屋という名前をもらったという話を聞きました。

 硲先生も古い美術品を自在屋に求めていました。自在屋さんは豪放磊落で真っ正直な人でした。その自在屋さんが先生が経済的に困っているというので、富山県知事の吉田実さんに紹介してくれたんです。その知事がまたすごく理解のある人でした。ここにも泊まったことがあるくらい。吉田知事から立山を描くよう依頼されて、1961(昭和36)年の晩秋、閉山間近の立山で山小屋を移動しながら写生しました。その絵は富山県庁にあるはずです。「立山の竜王と浄土」というタイトル。雄山のてっぺんで「雄山荘」という山荘に泊まって描いたんです。2~3日しか描けなかったんだけど、もう零下5度という、手がかちかちに凍えちゃうようなところで、私は絵の具をそろえ、筆を洗っては差し出して、先生はもっとつらかったと思うの。でも頼まれた仕事を何とかやり遂げようとしていました。

 立山で描いた作品を中心に、旧作の「燈下」などを加えた展覧会を高岡の読売会館でやってくれたのです。吸坂窯建設の資金をつくるためでした。富山県庁にはその後にアルバニアで描いた絵もあります。「燈下」はお礼に吉田知事に差し上げました。吉田知事のお母さんは郁子さんという方で、亡くなる前に私が肖像画を油絵で描かせていただきました。真冬に知事のお宅を訪ねて「寝床の中でいいから」と言って通うことにしました。約束した当日、郁子さんは黒い着物に黄綬褒章の勲章を胸に付けて、きちっと居ずまいをただして待っていらした。1日2時間くらい描きましたが、その間は微動だにしない。明治の女のかくしゃくとしたたたずまいでした。小さい絵でしたが、吉田知事がすごく喜ばれて、郁子さんのお葬式の遺影にその肖像画を使ってくださったとのことです。

 その後、こちらの美術館ができた時、吉田知事はすでに亡く、長男の力さんがその「燈下」を寄贈してくださいました。その際に力さんから「母親(知事の夫人)の肖像画を焼き物で残せますか」と頼まれ、私が大皿で描いて差し上げる約束をして、その約束は果たせました。郁子さんの肖像画の件を力さんも見聞きされていたからでしょう。吉田知事や力さんは本当に助けてくれました。嫌な思いをしたことがありません。

 吉田知事は大谷米太郎さん(ホテルニューオータニ初代社長)を紹介してくれました。私は行くたびに100万円ずつもらってきたの。「あなたが来れば、ぼくは100万ずつ用意しておくよ」って米太郎さんが言ってくれました。若いころは相撲取りでね、奥さんと一緒に町工場から会社を大きくした人です。水田三喜男大蔵大臣と玄関でばったり会ったこともあります。

 自在屋さんは自分の骨董を売り込めばいいのにね、お世辞を言えない人だから、大谷さんと衝突しちゃったらしいんです。ある時、大谷さんに「お前、お金はいくら持ってるんだ」と聞かれたらしいのね。そしたら自在屋さんはかちんときて「俺は金は持っとらんけど、金玉はもっとります」とか言って、見せるために広げかけた骨董の荷物を全部包んで「失礼します!」って言ってさっさと帰ってきちゃったって。「わしはあいつと話はできないから、あんた行ってうまく手助けしてもらえ」って助言してくれました。

 先生が心臓が悪くて東京に急きょ入院したことがありました。そのときに自在屋さんが助けてくれました。私が頼る人がいなくて電話したら「海部さん、待っとれや!!」って富山弁で怒鳴って、タクシーで新橋から世田谷の岡本まで飛んできてくれて。「海部さんは先生のそばについとらないかんですよ。わしが金は全部作るから」と言って、アルバニアで描いた大きな絵を列車で富山まで運んで行ってくれて、吉田知事に頼んで県庁に買ってもらったようです。それで私は何の心配もせずに一カ月の入院生活ができたんです。

 当時は収入源が挿絵しかなくて、でも九谷焼を追求したいということで、それをやめちゃったものだからお金がなかったんです。この家は作りかけで、職人さんが手間賃を待ってるような状態だったから大変だったんです。でもだいたいどんな苦労も過ぎてみればね。どんな苦労でも大丈夫よ。(続く)

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(2021年8月9日、海部さん制作「九谷色絵柏餅図陶板画」とともに筆者宅で。左は夫の紘一さん)

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